2話:狂気のはじまり

気持ちの整理がつかない俺を、七弥ななやはラウンジに備え付けてあるソファーに座らせた。
そして、黙って俺の隣に座るとラウンジの奥――おそらく、希衣沙きいさの方を見ているのだろう……

…しかし、どういう事なんだ?
わからないが、俺は紫鴉しあという人物と何かをしてしまったらしい……
希衣沙きいさが読んだものには、そう書かれていた。
――という事は七弥ななやも知っていた、という事になる。
大体、あれは七弥ななやが新たに用意したものなのだから……

複雑そうな表情を浮かべた音瑠ねるが何か言いたげに、俺に近づこうと動きかけるが母親である樟菜くすながそれを制した。
そして、俺を睨みつけると叫ぶ。

「ダメよ…!もう、娘に近づかないでっ!」

そう言うと、音瑠ねるの腕を引きながら何処かへ行ってしまった。
腕を引かれながら、音瑠ねるは何度か何か言いたげにこちらを見ていたが…俺は彼女達に何も言う事ができない。

…そちらの方に気をとられていた為、まったく気づかなかった。
俺の背後に迫っている影の存在に――

「…許せない、お前が……私の……」

そう聞こえたと同時に、影が突然背後から襲いかかってきた。
勢いよく後ろに引き倒され、ものすごい力で押さえ込まれた。
押し返そうにも、相手の力が強過ぎてできない。

通常ではありえないほどの力で、押さえつけてくる相手の顔を確認した。
そこにいたのは、暗い表情を浮かべた女――織葉おりはだった。

虚ろな表情だが、確かな憎しみを携えてこちらを見ている……

突然、彼女は力を緩める事なく…どこからか出したナイフを俺の胸――丁度、心臓のある辺りめがけて振り下ろしてきた。
なんとか、ナイフを持っている織葉おりはの手をおさえる事はできたが……

「っ……」

女性の力ではありえないような…ものすごい力なので、俺ひとりではとても対処できない。
助けを求めようと、隣に座る七弥ななやを見た。
――だが、七弥ななやは静かに殺されかけている俺の姿を見ているだけだった。

冷静に見ているだけの七弥ななやに助ける意思がない、という事はすぐにわかった。
その時、ふと白季しらきが言っていたあの言葉を思い出す……

――ねぇ、倉世くらせ七弥ななやには気をつけるんだよ。彼は、君に死んでほしいと思っているのだから……

俺は七弥ななやに助けを求める事を諦め、なんとか織葉おりはの持つナイフを押し返そうと力をさらに込めてみたが……

ナイフの刃は、徐々に俺の胸に近づいてくる。

(もう、いいか……)

半ば諦めと、記憶を失った事で感じた喪失感や知らぬ罪――
もう…どうでもよくなった、というわけではないのだが…自暴自棄となり、諦めから抗う気力が失われているのは誰が見ても明らかだろう。

俺が織葉おりはの手をおさえる力を緩めた瞬間、七弥ななやともうひとりの誰かが織葉おりはを取り押さえる。
その、誰かが何者なのか……すぐにわかった。
織葉おりはを羽交い絞めにして、俺から引きはがしたのは黒髪の男・杜詠とよみであった。

振り解こうと暴れる織葉おりはを押さえた杜詠とよみはポケットから小さな注射器を出し、先端の針を覆うキャップを口にくわえて外すと織葉おりはの首筋に刺した。
その手慣れた様子に、少し驚いたが…注射された織葉おりはは小さく身体を震わせた後、虚ろな表情のままふらふらと歩き始める。
そして、俺のいるところから離れた場所にあるソファーに腰掛けて小さく鼻唄を歌いはじめる。

織葉おりはが落ち着いたのを確認した杜詠とよみは俺の無事を確かめた後、申し訳なさそうに口を開いた。

「……すまなかったな。織葉おりはは…ひとり息子を失ってからああなんだ……本人は、何をしているのかわかっていないようでな……」

何処かを見つめながら鼻唄を歌う織葉おりはの様子を見ながら、杜詠とよみが言葉を続ける。

「誰彼かまわず、攻撃してしまうんだ……許してくれ」

そう言って頭を下げた杜詠とよみは、小さく身体を揺らしている織葉おりはのそばへ向かっていった。

「……一体、どういうつもりなんだ?」

なんとか起き上がる事のできた俺は、先ほどまで何もしなかった七弥ななやの行動の意味がわからず……それを問い詰めてみた。
だが、七弥ななやは何も答えず……静かに、こちらを見ているだけだった。

まるで「その理由は、お前自身わかっているはずだ」とでも言うかのように……


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