たりないこい
昔から痛いのも苦しいのも嫌いだった。幸せで楽しいだけの人生がどうしていけないと言われるのかわからなかった。安全な道を選び続けてきた。でもいつの間にか、僕は道を踏み外していたんだ。あれはいつだったっけ?あなたと初めて出かけた時?それともあなたと初めて体を重ねた時?ううん、もしかしたら、出会ったことがそもそもの原因なのかもしれない。
ああ、でも、違うんだ。僕は違う、僕は悪くなんかない。だって最初に僕に声をかけたのはあなたじゃないか。
あの人はひどい人だった。大っ嫌いだ、嘘、まだ大好き。
ね、ヒョン。一体どんな気持ちで僕に近付いたのか、ヒョンは最後までちゃんと答えてくれなかったね。ひどいよ。僕はヒョンのこと本当に、心から大好きだったのに。本当に好きだったからあんなに痛くて苦しかったのに。
ヒョンは最初のお出かけで僕と手を繋いで、それから一週間で僕の家に泊まりに来た。「ゆっくり飲もうよ、僕おうちデートが好きなんだよね」と、コンビニの袋にぎっしり詰まったお酒を嬉しそうに見せびらかしながら。
ヒョンのほそくて長い指が僕の頬を撫で、濡れた唇を拭い、シャツのボタンを焦らすようにひとつずつ外した。欲と倫理観の間で揺れていた僕は、ヒョンの唇のたったひと押しで、やさしく唇と舌をなぞる温かい舌の、ほんのわずかな動きで、ぐらりと大きく傾いで欲の海に沈んでしまった。
きれいに割れた腹筋と胸に浮かぶ刺青を唇でなぞった。ふくらみのない胸のわずかな突起を吸うと大袈裟な反応が返ってくるのがたまらなかった。僕のものを咥え込んだヒョンが、僕に覆い被さって僕の肩に噛み付いた。
かなり強く噛まれたらしく、僕の肩口にはヒョンの歯形がついていた。まるで自分のものに名前を書いたみたいに満足げに笑ったヒョンは、その次の日から僕の家に住み着いた。
二人で歌を口ずさんだり、ゆらゆら体を揺らすように踊ったりしながら料理をして、一緒にお風呂に入って、野生の動物が巣穴でするように体を寄せ合って眠り、思い出したようにセックスをする。そんな生活を共にする中で、僕はヒョンのことがすっかり気に入って、とっても好きになってしまった。顔も体型も僕の好みで(もっともそうじゃなきゃよく知らない人と一緒に出かけたりなんてしないけど)、ちょっと抜けててすごくかわいい。僕はヒョンが欲しくて、ヒョンのものになりたかった。大好きだと何度も言った。なんどもなんども手を伸ばした。僕の手を掴んでほしかった、ヒョンの手をどうやったって掴みたかった。ヒョンだけが欲しかった。他には誰もいらなかった。ただヒョンだけに愛されたくて、僕がヒョンを愛している事実だけが僕を動かしていた。
でも、ヒョンはそうじゃなかった。
ヒョンは僕だけじゃだめだった。我慢できなかった。ヒョンは寂しがりやの欲張りさんで、ちょっと抜けててすごくかわいい愛されたがりだったから。ヒョンだってちょっとは僕のことが好きだった、と思う。好きでもない奴の家に何ヶ月も居座れるほどの堪え性はあの人にはないからね。
何度かヒョンが帰ってこない日があった。「今日は僕んちで寝る」だとか、「釜山まで行ってくる。むこうで泊まる、お土産楽しみにしてて」だとか、理由はばらばらだったけど、誰かと会っていることはすぐにわかった。その誰かがいつも同じ人だとは限らないけど。
ヒョンは嘘つきだけど詰めが甘くて、嘘をつくのがへたくそだった。今時どこの誰がスマホにロックもかけずにいられるんだよ、ねえ、ヒョン。見られて困る相手からの連絡なら最初からミュートしといてよ、僕だって見たくなんかなかったんだ、本当だよ。嫌な予感は嫌な予感のまま終わらせてほしかったのに、現実になっちゃったんだもん。
ヒョンのスマホには男とか女とか、いろんな人とのやりとりがたくさんあった。いつ会うだの、好きだの、そんなやりとりが。
鳩尾の奥が握り潰されるようだった。視界がぐらぐらして、吐きそうに気持ち悪かった。叫びだしそうなほど苦しくて、息もできないほど痛かった。
それでも僕はがんばったんだ。ヒョンの連絡相手の誰より僕の方がかっこよくてかわいかったけど、これ以上何をどう頑張ったらいいかもわからなかったけど、それでもがんばった、がんばったんだ、がんばったのに、うまくいかなかった。
二人でいても寂しかった。どこかに遊びに行っても何かが足りなかった。どうしても満たされなかった。愛されたかった、もっと。僕だけ見て僕だけ愛してほしかった。僕はいつだってヒョンだけを見てたのに、ヒョンがいない時だって、ヒョンのSNSのアカウントは全部把握して、話してる相手やいいねした投稿まで全部見てたのに、ヒョンはそんな僕に比べたら小指の先ほどしか僕を見てくれないんだもん。僕はヒョンにホールケーキをまるごと渡しているのにヒョンはスプーンひとくちぶんしか渡してくれない。僕はヒョンひとりだけなのに、ヒョンにはたくさんいる中の一人の僕。そんな不平等感が、不満感が、満載だった。
だからなんだと思う。大邱から帰ってきたヒョンの首にあるキスマークを見て、思わず「なに見せびらかしてるの?恥ずかしいよ」と言い放ってしまったのは。
きっともう限界だったんだ、あの後さんざんなじってごめん、追い出すみたいに同居解消に持ち込んじゃってごめん、でも僕だってあれくらい言ったっていいはずだよ、僕がヒョンのこと好きだって知ってるのにいろんな人のところにフラフラするんだもん。きっと、それが嫌で気持ち悪かったんだ。
ずっと辛かった、ずっと苦しかった、ずっと痛かった。ずっとヒョンがどうしてあんなことをしたのかわからなかったけど今ならわかる。みんなから愛されたかったんだよね?愛してくれそうな人全員から愛が欲しかったんでしょ?わかるよ。あの時はヒョンが好きだったからその気持ちがわからなかったけど、今ならわかる。痛いほど。
僕らは似たものどうしだったんだ。だからあんなに居心地が良くて、すぐに二人が馴染むことができたんだ。ヒョンがしていたことは、僕がきっと本当はしたかったことだ。ヒョンは僕がしたいことを全部して、僕が持っていないものを全部持ってる人だ。いろんな人から愛を受け取るための手段も行動力も。だって、そんな行動力がないなら僕に連絡なんてしてこられないでしょ。
『元気?』
『ピアスのニードル買ったんだけど自分じゃあけるの怖いから手伝って』
『家行っていい?』
だなんて、どんな顔して送ってきてるんだって話じゃん。ピアスなんてそんなのただの言い訳でしょって、僕はもうわかっちゃってるんだけど。
ねえヒョン、会いたいよ。もう一度会って手を握って、僕より低い背で、僕より細い腕で、僕を強く抱きしめて。キスをして唇を噛んでよ、僕に跨って首を絞めて。追い出したのは僕なのに、寂しくて泣きじゃくったあの日みたいに、泣いてる僕の涙を舐め取ってしょっぱいキスをした最後の夜みたいに。最高で最低だった、期待外れに期待通りだった、痛くて苦しくて気持ち悪くて、とっても気持ち良かったあの夜みたいに。
忘れられないんだよ、わかるでしょ、だって僕らは愚かな愛されたがりだもん、ね。
あれから普通の恋じゃ満足できない、幸せになれない、普通じゃ気持ちよくなれないんだ、どうしてくれるの?こんなの知りたくなかった、こんな僕を見つけないでほしかった。
自分は不幸だって、幸せになりたい、愛されたいって、そう思ってる時が一番幸せだって、そんなの最悪じゃんか。でもヒョンも僕と同じでしょ?だからあんなに破滅的な手の出し方をするんでしょ、だから過去の不幸をいつまでも引きずってるんでしょ?
誰かに愛されてる時ほどあなたを思い出すよ、ヒョン。大切にされてる時ほど物足りないよ。もっと不安になりたい、もっと必死になりたい、もっと痛く苦しくしてほしい。気持ち悪くなきゃ、気持ちよくなれない。
『いいよ。金曜と土曜の夜なら空いてる』
そう送った直後、グラスになみなみ注いだ水を一気に飲み干す。そうでもしなければ、燃え盛る激情に体の中から灼かれて死んでしまいそうだった。
もう一度ヒョンと恋をしたい、今度はうまくやるから、満たされない恋で穴の空いた幸せが欲しい。それがだめなら、好きじゃなくていいから、恋なんてこれっぽっちもなくていいから、もう一回だけやりたい。髪を掴んで噛み付いて首を絞めて、やめてって言われてもやめない、お互いを傷つけ合うような、忘れられない夜をもう一度だけでいいから僕に刻み込んでほしい。それができたら僕は、その思い出だけで諦めるから。
iPhoneから二人で口ずさんでいた曲が流れ始める。そういえばヒョンからの着信音はこれにしてたっけ。僕は最初から最後まで気持ちはよくわからなかったけど、ヒョンはこの歌が好きでしょ。こんな歌くらいで優しくなっちゃうヒョンがばかばかしくて嫌いだったよ。もう刺さる歌なんか聴かないで、その曲はヒョンのことなんか歌ってないんだから。
「…ヒョン?どうしたの」
『んー…チャヌ、今からは空いてないの?もしよかったら今から行きたいんだけど』
その言葉を聞いて、思わずさっと部屋を見渡した。一応そこそこ片付いてはいるから部屋に上げても大丈夫だろう。でもヒョンが来るには足りないものがあるな。
「あー…いいよ。でも来るならちょっとコンビニ行きたいかな、準備足りないし」
『わかった、じゃあ僕もコンビニ行くからそっちで合流でいい?』
「うん。じゃあまた、後で」
コートを手に取り、電話を切る。
ねえヒョン、そういえば僕今までたくさんこういうわがまま聞いてきたよね。だから、今度はヒョンが僕の自分勝手を許してね。
僕を忘れるなんて絶対に許さない。でもいいでしょ、ゴムの用意してあげるだけ優しいと思ってよ。
今日ここで無理やりしたら、ヒョンは僕のこと忘れないでいてくれるよね?
ああ、でも、違うんだ。僕は違う、僕は悪くなんかない。だって最初に僕に声をかけたのはあなたじゃないか。
あの人はひどい人だった。大っ嫌いだ、嘘、まだ大好き。
ね、ヒョン。一体どんな気持ちで僕に近付いたのか、ヒョンは最後までちゃんと答えてくれなかったね。ひどいよ。僕はヒョンのこと本当に、心から大好きだったのに。本当に好きだったからあんなに痛くて苦しかったのに。
ヒョンは最初のお出かけで僕と手を繋いで、それから一週間で僕の家に泊まりに来た。「ゆっくり飲もうよ、僕おうちデートが好きなんだよね」と、コンビニの袋にぎっしり詰まったお酒を嬉しそうに見せびらかしながら。
ヒョンのほそくて長い指が僕の頬を撫で、濡れた唇を拭い、シャツのボタンを焦らすようにひとつずつ外した。欲と倫理観の間で揺れていた僕は、ヒョンの唇のたったひと押しで、やさしく唇と舌をなぞる温かい舌の、ほんのわずかな動きで、ぐらりと大きく傾いで欲の海に沈んでしまった。
きれいに割れた腹筋と胸に浮かぶ刺青を唇でなぞった。ふくらみのない胸のわずかな突起を吸うと大袈裟な反応が返ってくるのがたまらなかった。僕のものを咥え込んだヒョンが、僕に覆い被さって僕の肩に噛み付いた。
かなり強く噛まれたらしく、僕の肩口にはヒョンの歯形がついていた。まるで自分のものに名前を書いたみたいに満足げに笑ったヒョンは、その次の日から僕の家に住み着いた。
二人で歌を口ずさんだり、ゆらゆら体を揺らすように踊ったりしながら料理をして、一緒にお風呂に入って、野生の動物が巣穴でするように体を寄せ合って眠り、思い出したようにセックスをする。そんな生活を共にする中で、僕はヒョンのことがすっかり気に入って、とっても好きになってしまった。顔も体型も僕の好みで(もっともそうじゃなきゃよく知らない人と一緒に出かけたりなんてしないけど)、ちょっと抜けててすごくかわいい。僕はヒョンが欲しくて、ヒョンのものになりたかった。大好きだと何度も言った。なんどもなんども手を伸ばした。僕の手を掴んでほしかった、ヒョンの手をどうやったって掴みたかった。ヒョンだけが欲しかった。他には誰もいらなかった。ただヒョンだけに愛されたくて、僕がヒョンを愛している事実だけが僕を動かしていた。
でも、ヒョンはそうじゃなかった。
ヒョンは僕だけじゃだめだった。我慢できなかった。ヒョンは寂しがりやの欲張りさんで、ちょっと抜けててすごくかわいい愛されたがりだったから。ヒョンだってちょっとは僕のことが好きだった、と思う。好きでもない奴の家に何ヶ月も居座れるほどの堪え性はあの人にはないからね。
何度かヒョンが帰ってこない日があった。「今日は僕んちで寝る」だとか、「釜山まで行ってくる。むこうで泊まる、お土産楽しみにしてて」だとか、理由はばらばらだったけど、誰かと会っていることはすぐにわかった。その誰かがいつも同じ人だとは限らないけど。
ヒョンは嘘つきだけど詰めが甘くて、嘘をつくのがへたくそだった。今時どこの誰がスマホにロックもかけずにいられるんだよ、ねえ、ヒョン。見られて困る相手からの連絡なら最初からミュートしといてよ、僕だって見たくなんかなかったんだ、本当だよ。嫌な予感は嫌な予感のまま終わらせてほしかったのに、現実になっちゃったんだもん。
ヒョンのスマホには男とか女とか、いろんな人とのやりとりがたくさんあった。いつ会うだの、好きだの、そんなやりとりが。
鳩尾の奥が握り潰されるようだった。視界がぐらぐらして、吐きそうに気持ち悪かった。叫びだしそうなほど苦しくて、息もできないほど痛かった。
それでも僕はがんばったんだ。ヒョンの連絡相手の誰より僕の方がかっこよくてかわいかったけど、これ以上何をどう頑張ったらいいかもわからなかったけど、それでもがんばった、がんばったんだ、がんばったのに、うまくいかなかった。
二人でいても寂しかった。どこかに遊びに行っても何かが足りなかった。どうしても満たされなかった。愛されたかった、もっと。僕だけ見て僕だけ愛してほしかった。僕はいつだってヒョンだけを見てたのに、ヒョンがいない時だって、ヒョンのSNSのアカウントは全部把握して、話してる相手やいいねした投稿まで全部見てたのに、ヒョンはそんな僕に比べたら小指の先ほどしか僕を見てくれないんだもん。僕はヒョンにホールケーキをまるごと渡しているのにヒョンはスプーンひとくちぶんしか渡してくれない。僕はヒョンひとりだけなのに、ヒョンにはたくさんいる中の一人の僕。そんな不平等感が、不満感が、満載だった。
だからなんだと思う。大邱から帰ってきたヒョンの首にあるキスマークを見て、思わず「なに見せびらかしてるの?恥ずかしいよ」と言い放ってしまったのは。
きっともう限界だったんだ、あの後さんざんなじってごめん、追い出すみたいに同居解消に持ち込んじゃってごめん、でも僕だってあれくらい言ったっていいはずだよ、僕がヒョンのこと好きだって知ってるのにいろんな人のところにフラフラするんだもん。きっと、それが嫌で気持ち悪かったんだ。
ずっと辛かった、ずっと苦しかった、ずっと痛かった。ずっとヒョンがどうしてあんなことをしたのかわからなかったけど今ならわかる。みんなから愛されたかったんだよね?愛してくれそうな人全員から愛が欲しかったんでしょ?わかるよ。あの時はヒョンが好きだったからその気持ちがわからなかったけど、今ならわかる。痛いほど。
僕らは似たものどうしだったんだ。だからあんなに居心地が良くて、すぐに二人が馴染むことができたんだ。ヒョンがしていたことは、僕がきっと本当はしたかったことだ。ヒョンは僕がしたいことを全部して、僕が持っていないものを全部持ってる人だ。いろんな人から愛を受け取るための手段も行動力も。だって、そんな行動力がないなら僕に連絡なんてしてこられないでしょ。
『元気?』
『ピアスのニードル買ったんだけど自分じゃあけるの怖いから手伝って』
『家行っていい?』
だなんて、どんな顔して送ってきてるんだって話じゃん。ピアスなんてそんなのただの言い訳でしょって、僕はもうわかっちゃってるんだけど。
ねえヒョン、会いたいよ。もう一度会って手を握って、僕より低い背で、僕より細い腕で、僕を強く抱きしめて。キスをして唇を噛んでよ、僕に跨って首を絞めて。追い出したのは僕なのに、寂しくて泣きじゃくったあの日みたいに、泣いてる僕の涙を舐め取ってしょっぱいキスをした最後の夜みたいに。最高で最低だった、期待外れに期待通りだった、痛くて苦しくて気持ち悪くて、とっても気持ち良かったあの夜みたいに。
忘れられないんだよ、わかるでしょ、だって僕らは愚かな愛されたがりだもん、ね。
あれから普通の恋じゃ満足できない、幸せになれない、普通じゃ気持ちよくなれないんだ、どうしてくれるの?こんなの知りたくなかった、こんな僕を見つけないでほしかった。
自分は不幸だって、幸せになりたい、愛されたいって、そう思ってる時が一番幸せだって、そんなの最悪じゃんか。でもヒョンも僕と同じでしょ?だからあんなに破滅的な手の出し方をするんでしょ、だから過去の不幸をいつまでも引きずってるんでしょ?
誰かに愛されてる時ほどあなたを思い出すよ、ヒョン。大切にされてる時ほど物足りないよ。もっと不安になりたい、もっと必死になりたい、もっと痛く苦しくしてほしい。気持ち悪くなきゃ、気持ちよくなれない。
『いいよ。金曜と土曜の夜なら空いてる』
そう送った直後、グラスになみなみ注いだ水を一気に飲み干す。そうでもしなければ、燃え盛る激情に体の中から灼かれて死んでしまいそうだった。
もう一度ヒョンと恋をしたい、今度はうまくやるから、満たされない恋で穴の空いた幸せが欲しい。それがだめなら、好きじゃなくていいから、恋なんてこれっぽっちもなくていいから、もう一回だけやりたい。髪を掴んで噛み付いて首を絞めて、やめてって言われてもやめない、お互いを傷つけ合うような、忘れられない夜をもう一度だけでいいから僕に刻み込んでほしい。それができたら僕は、その思い出だけで諦めるから。
iPhoneから二人で口ずさんでいた曲が流れ始める。そういえばヒョンからの着信音はこれにしてたっけ。僕は最初から最後まで気持ちはよくわからなかったけど、ヒョンはこの歌が好きでしょ。こんな歌くらいで優しくなっちゃうヒョンがばかばかしくて嫌いだったよ。もう刺さる歌なんか聴かないで、その曲はヒョンのことなんか歌ってないんだから。
「…ヒョン?どうしたの」
『んー…チャヌ、今からは空いてないの?もしよかったら今から行きたいんだけど』
その言葉を聞いて、思わずさっと部屋を見渡した。一応そこそこ片付いてはいるから部屋に上げても大丈夫だろう。でもヒョンが来るには足りないものがあるな。
「あー…いいよ。でも来るならちょっとコンビニ行きたいかな、準備足りないし」
『わかった、じゃあ僕もコンビニ行くからそっちで合流でいい?』
「うん。じゃあまた、後で」
コートを手に取り、電話を切る。
ねえヒョン、そういえば僕今までたくさんこういうわがまま聞いてきたよね。だから、今度はヒョンが僕の自分勝手を許してね。
僕を忘れるなんて絶対に許さない。でもいいでしょ、ゴムの用意してあげるだけ優しいと思ってよ。
今日ここで無理やりしたら、ヒョンは僕のこと忘れないでいてくれるよね?
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