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onychophagia


「ドンヒョギ、帰ったら何食べたい?材料あるやつならなんでも作ってあげるよ」
「え〜?そうですねぇ、じゃあ…オムライス食べたいです」
「オムライスね。いいよ、作れる作れる」
「やった!僕ヒョンのオムライス大好き」
僕がそう言うとユニョンヒョンはむず痒そうに笑った。僕も笑う。
幸せだった。
あの日僕を殺してからずっと、平和な日々が続いている。
心に波風が立たず、苦しむこともない。爪も綺麗なままだ。
ジウォニヒョンと二人でいても何も思わないし、ハンビニヒョンとジウォニヒョンが二人でいてもどうってことない。少し寂しいような気がするだけ。でもきっとそれも気のせい。大丈夫。
ヒョン達が二人で仲よさそうにしていると、決まってジュネがちらっと僕を見る。けれど僕はもう大丈夫だ。燻る想いに砂をかけたから、あとはもう火種が絶えるのを待つだけ。だからそんなに心配しないでほしい。
「ポストになんか入ってるな。先行ってフライパン出しといてくれる?俺あれ見てくる」
「はぁーい」
みんなもう寝てるかな?ちょっと遅くなっちゃったけど…、さすがに起きてるか。でもご飯は終わってるだろうな。お風呂上がったくらい?
エレベーターから降り、鍵を開けて家に入る。僕らの暮らす宿舎。とりあえずリビングに向かって荷物を下ろす。やっぱり誰もいない。そりゃそうだよね。手を洗ってうがいをして、キッチンの戸棚へ。フライパン…、大きいのでいいよね?お米炒めるもんね。
そういえばエプロンがないな。ヒョンの紺色のストライプのやつ。いつもここに置いてるんだけど…。あ、この前洗濯したんだっけ。てことはヒョンとチャヌの部屋か。取ってこよう。
寝てる人もいるかもしれないから、音がしないようにドアを開けて、するりと隙間を抜ける。ヒョンとチャヌの部屋は一番奥。
「…?」
何か音がする。誰か起きてるのかな。無意識に周りを見ると、ジウォニヒョンの部屋のドアが薄く開いていた。
ひゅう。僕の喉が息を吸い込む音。
スプリングが軋む音。ベッドが男二人の体重を受けて苦しそうに喘いでいる。ギシ、ギシ。僕の胸と同じ音がする。
荒い息。僕のものと、ジウォニヒョンのものと、組み敷かれた男のものが混ざり合った音。
男、だなんてわざとらしいな。わかってるのに。
「ジウォニヒョン、」
切羽詰まったような、媚びるような甘い声。何年も聞き続けたのと同じ声のはずなのに全く違う。聞きたくない。逃げ出したい。聞いてはいけない。でも、金縛りに遭ったように体が動かない。見るな、見るな、見ちゃダメだって。
そう思うのに体が言うことを聞かない。僕は目だけを動かしてドアの隙間を見ていた。
ああ、と思った。
ああ。
広い背中。追いかけてきた背中。ジウォニヒョンの、愛しい背中。汗に濡れたそれには筋肉が浮かび上がり、円形の刺青が首輪になって、僕の首を絞めあげる。強く強く、息ができないくらい。
ヒョンの下からは細い脚が伸びている。僕もよく知った綺麗な脚だ。太ってしまった僕を叱った人の脚。厳しくも優しいあの人の、ああ、逃げたい、見たくない、聞きたくない!
「ハンビナ」
その低い声を聞いた瞬間金縛りが解けた。
同時に、弾かれたように踵を返して走り出す。
ドアが開いた隙間をすり抜けてリビングに入り、財布だけ引っ掴んで玄関へ走る。ドアにほとんど体当たりして家から出た。鍵なんて知らない。勝手に締まってくれ。
「ドンヒョギ!?」
ユニョンヒョンとすれ違う。びっくりさせちゃった、ごめんなさい。でも今は無理です。正常にものごとを考えられないんです。
エレベーターを待つのももどかしく、階段を一気に駆け下りる。
頭が白く麻痺する。手に力が入らない。指先から温度がなくなって、体の芯まで冷えていく心地がする。足が絡まり、最後の三段は飛び降りた。
どこをどう走ったのかよく覚えていない。ただ、僕を見て嘲るようににたにた笑う街灯が、視界の隅を流れていた。
ある公園に来て、僕はやっと足を止めた。誰も来ない小さな公園。ブランコの鎖は錆びつき、滑り台の塗装はところどころ剥がれてこちらも茶色く錆びた地金が見えている。
走ったせいで汗だくで、でも体は冷たく冷え切って震えていた。引きつけを起こしたように呼吸が浅い。過呼吸になりかけているのかもしれない。ああ、苦しい。
「っげほ、え"っ、ひゅ…っ」
僕はベンチに手をついてしゃがみこんだ。視界がぐらぐらする。ぎゅっと目を瞑って口を抑える。
内臓が暴れまわって気持ち悪い。体の内側から叩かれているみたいだ。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅう、と胃が締め付けられて、僕はその場に空っぽの胃の中身を嘔吐した。胃酸のせいで喉がひりつく。口の中の苦さに耐えきれず、涙を流しながら咳き込む。
(ほら、やっぱり!お前は僕を殺せちゃいない!その証拠に、お前はこんなに苦しんでるじゃないか!)
甲高い声が頭の中に響く。殺したと思った僕が僕を殴りつけ、血を流しながら高笑いしていた。
息はどんどん荒くなって喉も締まっていく。必死にベンチを掴みなおしても手は既に感覚がない。足からも力が抜け、立ち上がることなんてできそうもない。
帰れない。
「ドンヒョギ!」
聞き慣れた声に目を見開く。まさか、でも、そんな。
足音が近づいて来て、その音の主は僕のとなりにしゃがみこむ。
「ドンヒョギ」
もう一度優しく僕の名前を呼んで心配そうに顔を覗き込んだ。片手で僕の手首を握り、もう片方の手は強く僕の肩を抱く。その手はすぐに移動して僕の背中をさすってくれた。
「ゆにょ、ひょ、っん」
「無理に喋らなくていいよ。落ち着いて、ゆっくり息してごらん?吐いて、…ゆっくり吸って。そう、上手」
落ち着いてゆっくり息をする。一人ではあんなに難しかったことが、ユニョンヒョンが隣にいる今は驚くほど簡単にできた。
思えばいつもこうだ。僕はジウォニヒョンのことでいつも勝手に苦しんで、そこから救い出してくれるきっかけはいつもユニョンヒョン。ジュネが呼び戻してくれるのも『ユニョンヒョンに怒られる』からで、『ユニョンヒョンに塗ってもらったマニキュアが乾いていない』からだった。
ユニョンヒョンはまるでおとぎ話の王子様だ。苦しい時に優しい笑顔で救いだしてくれるヒーロー。
ユニョンヒョンは呼吸が落ち着いた僕をベンチに座らせてティッシュを渡し、近くの自販機で水を買って来てくれた。この人、なんでこんなに優しくしてくれるんだろう。こんな僕なんかに。今は隣に座って家に電話をかけてくれている。「ジウォナとハンビナがめちゃくちゃ焦ってたよ」と苦笑いしながら教えてくれた。
「ヨボセヨ?…うん、うん。ドンヒョギ見つかったよ。だからそんなに騒ぐな…。あのさぁ、お前らがそういうことするのは別にいいんだよ。でも部屋のドアくらいちゃんと閉めろよって話!そりゃドンヒョギも気まずいよ、俺も気まずいよ!…いや?今から帰る。……あー…いや。寝てていいよ、会っても気まずいだろうし…明日にしたら?はーい、じゃあね」
「…おふたり、何て言ってました?怒ってます?」
恐る恐るそう言うと、ユニョンヒョンはけらけら笑った。
「怒ってないよ!今日帰ってこないの、気まずかったよね、ごめんねーって」
「ああ…」
最悪の事態は避けられたみたいで安堵のため息をつく。しかし、ユニョンヒョンはそこで少し拗ねたような表情になった。
「俺はちょっと怒ってるけどね。また爪噛んだでしょ」
「えっ、あーっほんとだ…!」
言われて見ると、せっかく綺麗に塗ってもらった赤色がぼろぼろに剥げていた。
「ごめんなさいヒョン、いつ噛んじゃったんだろ、せっかく塗ってくれたのに」
「ふふ、うそうそ、本当は怒ってない。でももう噛んだらダメだよ?約束できる?」
「はいっ、約束です!」
笑いながら大きな手で頭を撫でてくれる。とても心地良い。
「もう帰ろうか?ドンヒョギこんなに冷え切ってるし、お腹すいたでしょう?オムライス作ってあげる」
差し出された手を取って僕も立ち上がる。なんか本当に王子様みたいだなぁ。
「何から何まですみません。いつもありがとうございます」
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