SS 141~160

春もうららか。
桜は今が誇りと咲き乱れ、溢れる程の芳香を放つ。

「春ですねぇ」

ほう、と感嘆の息を吐きながらのほほんとお茶を嗜みつつ桜が放つ芳香を嗅ぎ、楽しむ。
今はとても平和な世ですねぇ、と眦を下げた。
この平和が誰によってもたらされているのかと考えれば、まあ、少しばかりは頭が痛くなるのだけれども、平和なことは良いことです。
少なくとも生まれてこの方、父上たちの政権云々の争い程度しか見てこなかった身としては、自身が平和だと感じられることになんの不満を持ち得ようか。いえ、持ってはいけないのでしょうね。
とはいえ、不満がまったくないわけではないのだけれども。

「……そろそろですかねぇ」

空を見上げれば頃合の時間。そろそろ『あの方』がいらっしゃるだろう。

「ふふ、今日は機嫌が良いと良いのですがねぇ」

打掛の袖で口元を隠して微笑んだ。あの方は怒りん坊というわけではないのだけれど、如何せん可愛らしいお方だからつい笑ってしまうのだ。

◇◆◇


「会いに来てあげたよ」

待ち人は予想通り、あれから半刻程してやってきた。
その顔が渋々といった表情なのはもう生まれた頃からなので見慣れたものだ。

「ようこそいらっしゃいました」

わたくしはにこにこと笑いながら彼の方を御簾の中に迎え入れます。

「この僕がわざわざ時間を割いてお前なんかの為に来てあげたのに、お前はその程度のことしか言えないわけ?」

「申し訳ありません」

眉を八の字にして一応申し訳なさそうな顔を作れば、待ち人はふんっとつまらなさそうに顔を歪めた。

「お前は謝ることしか出来ないの?」

「申し訳ありません」

「……っ、だから!」

「なんでしょうか?」

問えば、わなわなと身体を震えさせ、何かを言おうと唇を動かす彼の方。
けれど結局其れは言葉にはならず「もういい!」と吐き捨てるように仰られた。

「左様でございますか」

私は袖で口元を隠して顔を隠す。今顔を見られたら彼の方の機嫌は更に悪くなるだろう。それくらい――今にも吹き出してしまいそうなのだから。

(本当に、お可愛らしい御方)

私の何十倍と生きている、いや、生きているという概念はないのかも知れない御方にそのようなことを思うのは失礼なのかも知れないけれど。

「ねえ」

「なんでしょうか」

そんなことを思っていれば話しかけられた。珍しいことだと思いながら、首を傾げる。

「桜、咲いたね」

「そうですね。今年は一等見事に咲いております」

「僕が毎日訪れてあげているお陰だね」

感謝しろと言わんばかりのその顔に、ありがとうございますと微笑んでおけば、満足げな顔を見せられた。
実際この御方の纏う神気で庭の桜が見事に咲いているかどうかなんて分からない。けれどもきっとそんな反論をしてしまえばこの御方は顔を真っ赤にして怒るだろうから。

(別に怒らせても怖くもなんともないのですがねぇ……)

子猫が癇癪を起こしていると思えば、本当に可愛いものです。
けれどあまりにも機嫌を損なわせると天候に影響するかも知れないし、何より父上の小言が五月蝿くなるだろう。
そんな面倒なことをわざわざ引き起こしたいとは思わない。

「お前は気に食わないけど、お前の住まう庭だけは褒めてあげるよ」

「ふふ、ありがとうございます」

口元に宛がっていた袖を下ろし視線を上げて微笑めば、未だ桜を眺めていると思っていた彼の方が此方を見ていた。

(嗚呼、本当に……困った御方ですねぇ)

その瞳に籠められている其の熱の存在に、意味に、気付いてくれたなら。
此方としても幾らでも出ようがあるというのに。
この御方はそんな熱にはまるで気付く気配がない。だから困っている。
そんな困ったちゃんな御方は此方の心情など構わずに、私の隣に音もなく座る。そうしてクン、と犬のように鼻を鳴らした。

「――あの男の匂いがする」

「……はい?」

あの男、と言われてもどの方かパッと思い浮かばずに首を傾げて見せれば、心底嫌そうは顔で吐き捨てるように答えを口にされた。

「趣味が悪いことに、お前に懸想しているあの男だよ」

「懸想……? ああ、三条の。先程使いの方がいらっしゃられましたから、そのせいでしょうか?」

「ふぅん。何か贈られたの」

「和歌と花を。ふふ、どちらも見事でしたよ」

「……ふぅん」

贈られた歌は見事なもので、見事に私のお腹を痛くさせてくれた。
三条の御方は私に焦がれているらしい。其れはどうでも良いのだけれども、少しばかり私を美化し過ぎなところがあるのは困ったものだ。
返事も返さないのに毎日のように和歌と花を贈ってくる、なんともまあ、マメな方だと侍女と世間話のように話したこともあった。
引く手数多だと風の噂でお聞きするから、ちっとも靡かないわたくしをからかっているだけなような気もするけれど。
ちなみに花は見事に好みのものを贈られるので捨てるのも忍びないと部屋に飾らせて頂いている。

「お前は僕の神嫁なんだから、滅多なことはしないようにね」

「承知しております」

硬い声音の真意を問わないよう気をつけて柔らかく頷けば、またもや満足そうな顔を見せた。いえ、ホッとしたような、と言い換えた方が良かったのでしょうか。

「なら良いよ。さて、つまらないお前の顔も見たことだし僕は帝のところにでも遊びに行くよ」

「いってらっしゃいませ。あまり兄様をからかって差し上げないであげてくださいね」

「お前に指図される謂れはないよ」

心底不愉快だというように顔を歪めると、彼の方は立ち上がる。
そうして軽やかに兄様の居る御所に向かって歩いて行ってしまった。

(私が神嫁だという認識はお持ちなのですね。……まあ、認識していらっしゃるからわたくしにとっては厄介なのですけれどもねぇ)

わたくしは彼の方、天を統べる御方。つまりは神たる方の神嫁だ。
生まれた時に呪術師によって選定を受け、決まっていた話。
周囲は困惑することすらせずに受け入れていた。当時は帝だった父上なんかは泣いて喜んでいたらしい。
それくらい名誉あることなのだと、幼心に思っていた。思っていただけで、自分が本当にそう思っているかと問われると否と返すのだけれど。
何十年かに一度。天帝は人間の娘から嫁を娶る。
気紛れのようなそれは、けれどただあの方が寂しがりなだけなのだと気付けば納得もしよう。
あの御方はともすれば国すらも動くような大事なことを、ただ自分が寂しいから、誰かのぬくもりが欲しいからと人間の女を娶るのだ。

けれど人間の寿命は短い。神にとってはすぐに尽きてしまうことだろう。その上、彼の方はかなりの飽き性なのだ。
欲しいと思ったものを娶っておきながら、飽きたらその魂を解放して自分は他の女をまた求める。それの繰り返しをずっと、わたくしだったら気が遠くなるような時間を過ごされているのだ。
いやはや、真偽はどうあれ、三条の君の方が余程いじらしい。

「わたくしはいつ飽きられるのでしょうねぇ」

そんなことをのほほんと呟いた。
彼の方が向ける確かな想いに気付けぬ程、わたくしは鈍感ではない。
けれどいつかわたくしに飽いて、他の方の元へと行かれるのだと思うと、こう……胸の奥がじくじくと痛むのだ。

「本当に、困った御方ですねぇ」

胸の辺りを抑えて、わたくしは苦く笑った。
自身の想いとて口にしないくせに、彼の方のことばかり責めていてはいけませんね。
ふふ、と笑ってわたくしは桜を眺めた。
見事に咲き誇る桜は、綺麗で。あまりに綺麗過ぎて、逆におぞましくも感じた。
なれどこのお話はまだ何も壊れることのなかった時の、幸せな、それこそただただひたすらに平和な日々のこと。


けれど桜が散る程の嵐の日に変化は唐突に訪れた。
三条の君の暴走により、神嫁たる一姫はその命を儚く落とした。

泣くでもなく、喚くでもなく。

事切れた一姫を抱き締めるのは、神ではなく、ただひとりの男の姿。
血に塗れた一姫に何を思ったのか。それを知る術は未だない。
ただ確かな史実を話すのであれば、一姫は春の嵐の日に――死んだ。
掴むことすら間に合わず、輪廻の輪に加わった一姫の魂は、神ですら追うことを許されない。
魂が抜けた躰を一晩抱き、明朝に燃やされた一姫の躰。
炎に照らされた神の横顔は――笑っていた。

ゆるやかに狂う神の心は、春の嵐が落ち着いた時ですら、否。
きっと『今』は誰にも分からないのだろう。

なれど無情にも時は巡って一姫と同じ魂を持った少女が突如として現れた時。
何かが変わる。そんな予兆のように少女が生まれた家の庭に桜が一輪、枝に蕾んでいた。
19/20ページ