幸福の海に眠る/寄稿作品

 とても素敵な方だった。
 遠く想いを馳せるが如く、わたしは彼女のことを思い出す。
 わたしと彼女の関係をひとえに表すならば、ただの傍仕えと奥方様であった。

 奥方様は素敵な方であった。美しく、優しく、そうして何よりも旦那様を愛しておられた。
 人間風情が、と他のモノ達は言っていたけれども。わたしはそんな心無い言葉に耳も貸さない奥方様のことを素敵な方だと思った。強い方だと思った。

 だから、だろうか? 旦那様には奥方様以上の存在は現れないとも思った。
 誰をもが畏れ慄く海神であらせられる旦那様に嫁いだ――否。生贄にされた憐れで可哀想で、そうして素敵な奥方様。
 人間の世界の世情には疎いが、奥方様はこの海の底に好き好んでいらっしゃったわけではないことくらい、旦那様が住まうこの屋敷のモノ達は分かっていた。
 分かっていて、それでも手放せなかったのは誰でもない。旦那様なことも。皆、分かっていた。
 海神たる旦那様の顔には醜い痣がある。傍仕えを任されているわたしでさえ時折顔を顰めそうになるほどの、醜い痣が。
 顔の半分ほどを覆うその痣に触れることは誰もしなかった。旦那様も許さなかっただろう。

 けれどある日わたしは見てしまった。

 奥方様がその美しい瑠璃色の瞳に慈愛の色を滲ませて旦那様の頬に触れていたのを。
 その瞬間、わたしの心を支配しかけたあの感情はなんだったのか。何故、旦那様も何も言わずに触れられていたのか。あの優し気な瞳はなんだったのか。
 お二人は想い合っていた? 否、あの醜い海神たる旦那様を心から想うモノがこの世界に居るものか。
 わたしは主従の誓いを果たした主人になんたる感情を抱いたのかと、この少しあとに戦慄したけれども。
 嗚呼、けれどわたしはそんな感情を抜きにしても好きだったのだ。
 あのお二人が並ばれている姿が。あのお二人がぎこちなく笑い合っている姿が。あのお二人が、わたしは好きだったのだ。
 故に分からない。何故、何故。


 ――旦那様は奥方様を喰らったのだろうか、と。
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