本編軸

いつか居なくなるのなら。

「居なくなると言って欲しかった」

これはただの俺の我が儘だな、と苦く笑う。

惚れた女が居た。
濡れた黒曜石のようなショートボブの髪に空のような青い瞳を持った。
その女のことを心底愛していた。
仕事柄、顔形の整った女は良く見るがあそこまで自分好みの女というのも珍しかった。
ファンの子が整形でもしたのかと、一瞬脳裏に過ったほどには好みで。
見掛けた瞬間、それが罠でもなんでもいいから自分のモノにしたくなっていた。

接触をして、その日のうちに想いを伝えたその女。
彼女は困ったような顔をしながら、何処か面白いモノでも見るような目で俺に言う。

「アタシはアナタだけの女にはなれないわよ?」

「それでも良い。俺は、お前が欲しい」

「そう……」

少し悩んだ素振りを見せながら、女は自分のことをスピカと名乗った。

「スピカ……」

それが偽名であることはなんとなく分かった。
けれども手放したくなくて。
一度、二度、と反芻するように女の名前を呼ぶ。

「アタシはアナタにすべてはあげられない。だから、アタシもアナタのすべては要らないわ」

「そうか……それでも、俺はお前の為ならなんでもするかも知れないな」

「そう。それは面白いわね――ジン」

「俺はお前に名乗ったか?」

「名乗られたかも知れないし、知っていたかも知れない。事実なのはアタシはアナタの名前を呼んだ。それだけよ」

「変な女だな、お前は」

「アナタも大概可笑しな男だと思うけれどもね?」

口元を三日月に歪めるその女は、心底楽しそうに笑う。その様はまるでチェシャ猫のようで。
頭の中では警鐘が鳴るのだ。この女に関わってはいけないと。
けれども同時に思うのだ。必ずこの女を傍に置きたいと。

――結局、結婚をしても本当の名前すら明かさなかったな。

スピカは二人の子供を生んで数年後。上の子が六才になったある日。
俺と下の子を置いて居なくなった。
愛していたのは俺だけだったのかも知れない。
この六年、ひと時も愛された瞬間などなかったのかも知れない。
それでも俺は、お前を想う。
まだ母親恋しい年頃の娘を可哀想だと思いながら、それでも。

「居なくなるのなら、居なくなると言え」

そうしたら、何がなんでも引き留めたのに。
居ないなら、引き留められないじゃないか。

ギュッと唇を引き結ぶ。
嗚咽すらも飲み込んで、置いて行かれたことに気が付かない娘を抱き締めて。
この子だけは、どうか。誰にも連れ去られないように、と。
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