SS 61~80

少しの間出張に行っていた俺を出掛ける時に玄関で見送った妻は、その時と寸分違わぬ格好で虚ろな瞳をしながらだらりと力無く玄関に座り込んでいた。
玄関を開けた先にその姿を見たときは驚きのあまり鞄を投げ飛ばしてしまった。大事な書類が入っていたとかそんな事は気に掛けていられない。
彼女に駆け寄って抱き起こす。


「棗!」


数度身体を揺すれば段々と焦点が合っていく棗の顔を見つめながら、尚も棗の名を呼ぶ。


「……あなた?」


水分を含まない掠れた声に、食事は愚か水分すらも摂っていなかったことが伺えた。
目の下に酷い隈があるから、もしかしたら眠っていなかったのかもしれない。


「おかえりなさい」

「そんなことはいい。“また”お前は俺を待っていたのか?」

「あ、……ごめんなさい」

「悪いと思っているなら、せめてこんな寒い玄関なんかじゃなくて部屋に居てくれ」


はあ、と溜め息を吐いた俺の言葉に申し訳なさそうに眉を下げる。
けれど「玄関に居ればあなたが帰ってくるのが直ぐにわかるから」と言った棗を見て、恐らくこれから先も彼女は俺が出張で家を開ける度に待っているのだろう事が用意に想像がついた。


こういった棗の行動は最早俺にとってはなんてことはない。
慣れてしまったと言えばそれまでだが、それで片付けてしまうにはそれはそれは複雑な感情が交ざっていることだろう。



何故なら俺は、こんな世間一般論からすれば精神病院に突っ込まれていても可笑しくないだろう棗の行動が嬉しくて堪らないのだから。



「あなた」

「ん?なんだ」

「好きです。好きなんです。あなたが居なければ生きていけないくらいに大好きなんです」


そう言って恍惚とした表情を俺に向ける棗。
その右手首からはだらだらと床に向かって多少とは言い難い血を流している。
少し目を離した隙に切ってしまったらしい。
別に死にたくてとか、俺に構って欲しくてだとかそんな理由で切っているわけではない。
ただ、俺の事が好きで好きでどうしようもなくなると、その思いを刻み付けるように棗は自身の身体を切り刻むのだ。

そんな愛らしい理由だと知って、どうして止めてやれる?
友人は棗の行動を異常だと言い早めに病院に連れていってやれと煩いが、俺には可愛くてしょうがない行動だ。


俺が好きだから。
それを抑えられなくなった回数分、棗の身体には俺を愛する傷が付けられていく。
それは恐らく一生消えない傷で、棗と俺との愛をこの目で確かに確かめる大切な傷だ。



だから俺はいくら棗が異常であろうとなんであろうとその行動を制限したりなんかしない。
棗がしたいようにさせてやればいい。




そう笑って今日も棗の身体に傷が付いていくのを静かに見守っていた。
その傷の手当てをするのは俺だけの特権だから、優しく愛撫を施すように棗の肌に触れ、白い肌に更に真白い包帯を巻いていく。
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