SS 41~60

酷く哀しげな顔だと思った。
どうしてそう思ったのかなんて分からないし、どうやら俺は記憶喪失らしいので分かりようもないのだけれど。
それでも彼女の顔を、俺は確かに哀しそうな顔だと思ったのだ。
今にも壊れてしまいそうな儚さを漂わせて、それでも気丈に振る舞おうとする。
そんな風に、俺には見えた。


「…本当に、何も覚えていないの?」

「……すみません」

「……そっか」


他人行儀な言葉遣いに、傷付いたような色を浮かべた。ように見えた。
それはたった一瞬のことで、俺の見間違いかも知れないけれど。
どうしてだか、胸の中心、心臓の辺りがチクリと痛んだ。それも気がしただけで、実際は気のせいなのかも知れないけれど。


「……忘れちゃったんならしょうがないよね」


私が居てもどうしようもないから、もう帰ります。

そう言った彼女の諦めの色を交えた言葉の中に喜色を感じたのは何故だろうか?
頭の片隅で「引き止めろ!」と声がした。
後悔するぞ、と。

けれど俺にはその警告のような言葉の意味なんて分かるわけもない。
全て忘れてしまったのだから。
分かっているのは自分の名前と住所、後は生活雑貨くらいのものだ。
だから分かりようもない俺は、頭の中に響く必死な引き止めの声に耳を貸さず、「こんな時間まですみませんでした」と今までの時間を拘束してしまったことを詫びるのみ。
引き止めの言葉は出てこない。引き止める必要が分からないのだから当然か。
彼女は少しだけ哀しそうな顔をして、けれど何処か吹っ切れたように笑って。


「それでは」


――さようなら。


そう口にして背を向ける彼女。
俺はその背中を見送る。
白い壁の向こう側に吸い込まれるように消えたのを見て、ああ、と声が漏れ出た。


「……なんで…」


ぽろぽろと剥がれ落ちるように瞳の中から目尻を伝って涙が頬を伝う。
唇に到達した雫が口内に滲み、塩の味がした。


何故だかとても哀しくなった。
彼女に「さよなら」と言われた瞬間。
とてつもない寒気が胸の隙間を吹き付けるように襲ったのだ。


「    」


彼女の名前を震える唇で紡いだ。その筈だ。
曖昧なのはしょうがない。
その名前が本当に彼女の名前か確信が持てないのだから。
彼女のことを、俺は何一つ覚えてはいないのだから。
20/20ページ