ハイドランジア
物語というモノには『ハジマリ』がある。
ボクはその文章を目でなぞり、指でなぞり、そうして口元をふっと綻ばせた。
「ボクの人生には『オワリ』はあっても『ハジマリ』なんてないんだよ」
――人狼帝。
この魔界で魔女王、吸血鬼王と並び、三大王と呼ばれる魔王の側近中の側近。
なれど人狼帝は時には魔王にでさえ意見出来てしまう偉大な存在。
魔女王、吸血鬼王とは一線を画した存在だ。
そんな彼の元にボクは嫁ぐ予定だった。
まあ、もっとも。人狼帝の奥君候補はたくさん居たからその中のひとりでしかなかった。
その上、姉であるアイリスが気に入られたから他の『奥君候補』はすべて家に帰されてしまった。
もちろん、ボクも。
「姉であるアイリスは優秀だと言うのに、まったくお前と来たら」
それが父上、魔女王が帰って来たボクに吐いた最初の言葉だった。
「ハイドランジア。お前にはアイリス同様少しでも良い家柄の男と婚姻する義務がある。そうして子を生すことすらも女として生まれたお前の義務だ」
そう言うだけ言って去って行く父上に、ボクの心の歯車が少しずつ狂っていくのを何処かで感じた。
（ボクは、子供を生むこと以外では父上に必要とされていないの？）
そんな思考が過った瞬間、グッと何かがせりあげて来た。
屋敷の中の奥にある自室に駆けこんで、洗面所で吐くだけ吐いて。
その日は涙が止まらなかったのを、良く覚えている。
＊＊
「お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
そう言ってきたのは、家に帰ってきてから数日経ったある日の夕食時。
「喜べ。人狼帝の側近――弟のところだ」
「……恐れながら父上。人狼帝の弟君には確か奥君が居た筈ですが」
「そんなもの気にするな。お前が正室の座を奪ってやるつもりで行けばいい」
「……」
「なんだその目は。異論でもあるのか」
「……いえ、何も。何もありません」
「ならばさっさと準備をしておけ。明日には行って貰う」
「随分と早急ですね」
「ふん、遅いくらいだ」
そう言った父上はさっさと食事を済ませると、席を立ってしまった。
もう何も言うことはない。
そういう意思表示なのだ。
傍で食事をしていた母上は憐れそうにボクを見てきたけれども、何も声を掛けられることはなかった。
この家に『愛』という概念はない。
当然と言えば当然なのかも知れない。
人間の世界では嫌われものとして描かれる魔女が、愛など知る筈がないのだから。
＊＊
「はじめまして、ハイドランジア。良く来てくれたね」
「はじめまして、ギルバート様。こちらこそ受け入れてくださりありがとうございます」
「そんな堅苦しい呼び方をされると困るな。夫婦なんだし」
ギルバートのその言葉に、内心で笑いそうになった。
新しいオモチャが欲しいだけのただのお飾りで御下がりの女を、妻と呼ぶ。
この男はそういう男なのだと、はじめて会った時にはもう、彼への愛というのは生まれることはないのだろうなと思った。
「ハイドランジア？ここがきみの部屋。好きに使って貰って良いよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ俺は戻るから、夕食も出来ればここで過ごして欲しいな」
「構いませんよ」
「……え、」
「何か可笑しなことでも言いましたか？」
「……いや、なんでもないよ」
それじゃあ、と言って本当に去っていったギルバートの足音が完全に聞こえなくなるまで待って、ボクは寝台の上に横になった。
夕食はここで過ごして欲しい、ということは、この部屋から出るなということだろうか。
自分は愛しい正室と過ごすからと。
それはなんて……
「なんて楽なお飾り妻だろうね」
ボクはふっと口角を上げて、そうして眠りについた。
久方振りにゆっくり眠れたような気がした。
＊＊
目を覚ましたら夕刻だった。
コンコンというノック音を耳が拾う。
「はい」
「お食事をお持ち致しました」
「ありがとう」
食事を運んできたメイドが淡々とボクの前に食事を広げていく。
肉が多いような気がした。肉でもつけろということか、それとも人狼の主食が肉だからか。
（どちらもな気がする）
そんなことを考えていたらメイドは頭を下げた。
「お食事が終わられたらまた来ます」
「分かった」
食事が終わったら、ね。
つまりはこの部屋は監視されているということか。
まあ、何かをするつもりもないから関係ないけれども。
「……美味しい」
美味しい、けれども。
ひとり部屋で食べるのは、とても寂しいなぁ。
食事を終えて湯浴みをする。
温かな湯に浸かりながらボクは考えた。
「ボクは捨てられなければいい。ただ、ここに居ればいい」
まるでお人形さんのようだ。
「はは、」
ちゃぷりと口元まで湯の中に浸かった。
嗚呼、本当に。お人形さんのようだ。
「……っぅ、あ」
後にも先にも、ボクが声を上げて泣いたのはこれが最後だったように思う。
＊＊
「ハイドランジア様。ギルバート様がお待ちです」
寝台の上で目を閉じて、少しだけ眠っていたら聞こえた声。
数日過ごして分かった、彼女はボクの世話係兼、見張り役だ。
ボクが何かをしない為に。
はは。と内心で笑いが込み上げてきそうだった。
「ハイドランジア様。お急ぎを」
「分かってる」
何故呼ばれたのかなんて分からない。
けれどもボクは急かすメイドの声に応えるように身支度を整えた。
ギルバートに呼ばれた部屋に向かいながら、ボクはメイドに話を掛ける。
「どうしてギルバート様はわたしを呼んでるのかな？」
「ご冗談でしょうか……？」
「……ふぅん？」
訝しむような顔に、ボクは真意を悟った。
つまりはそういうことだ。
ギルバートは恐らく父上の言葉によりボクと閨を共にしなくてはならなくなったのだろう。
それはなんて……
（可哀想なヒトだなぁ……）
愛する妻が居るのに、他の女を抱かなくてはならないだなんて。
本当に可哀想。
その夜、ボクの破瓜は好きでもない男によってあまりに優しく、なれど残酷に、散らされた。
ボクはその文章を目でなぞり、指でなぞり、そうして口元をふっと綻ばせた。
「ボクの人生には『オワリ』はあっても『ハジマリ』なんてないんだよ」
――人狼帝。
この魔界で魔女王、吸血鬼王と並び、三大王と呼ばれる魔王の側近中の側近。
なれど人狼帝は時には魔王にでさえ意見出来てしまう偉大な存在。
魔女王、吸血鬼王とは一線を画した存在だ。
そんな彼の元にボクは嫁ぐ予定だった。
まあ、もっとも。人狼帝の奥君候補はたくさん居たからその中のひとりでしかなかった。
その上、姉であるアイリスが気に入られたから他の『奥君候補』はすべて家に帰されてしまった。
もちろん、ボクも。
「姉であるアイリスは優秀だと言うのに、まったくお前と来たら」
それが父上、魔女王が帰って来たボクに吐いた最初の言葉だった。
「ハイドランジア。お前にはアイリス同様少しでも良い家柄の男と婚姻する義務がある。そうして子を生すことすらも女として生まれたお前の義務だ」
そう言うだけ言って去って行く父上に、ボクの心の歯車が少しずつ狂っていくのを何処かで感じた。
（ボクは、子供を生むこと以外では父上に必要とされていないの？）
そんな思考が過った瞬間、グッと何かがせりあげて来た。
屋敷の中の奥にある自室に駆けこんで、洗面所で吐くだけ吐いて。
その日は涙が止まらなかったのを、良く覚えている。
＊＊
「お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
そう言ってきたのは、家に帰ってきてから数日経ったある日の夕食時。
「喜べ。人狼帝の側近――弟のところだ」
「……恐れながら父上。人狼帝の弟君には確か奥君が居た筈ですが」
「そんなもの気にするな。お前が正室の座を奪ってやるつもりで行けばいい」
「……」
「なんだその目は。異論でもあるのか」
「……いえ、何も。何もありません」
「ならばさっさと準備をしておけ。明日には行って貰う」
「随分と早急ですね」
「ふん、遅いくらいだ」
そう言った父上はさっさと食事を済ませると、席を立ってしまった。
もう何も言うことはない。
そういう意思表示なのだ。
傍で食事をしていた母上は憐れそうにボクを見てきたけれども、何も声を掛けられることはなかった。
この家に『愛』という概念はない。
当然と言えば当然なのかも知れない。
人間の世界では嫌われものとして描かれる魔女が、愛など知る筈がないのだから。
＊＊
「はじめまして、ハイドランジア。良く来てくれたね」
「はじめまして、ギルバート様。こちらこそ受け入れてくださりありがとうございます」
「そんな堅苦しい呼び方をされると困るな。夫婦なんだし」
ギルバートのその言葉に、内心で笑いそうになった。
新しいオモチャが欲しいだけのただのお飾りで御下がりの女を、妻と呼ぶ。
この男はそういう男なのだと、はじめて会った時にはもう、彼への愛というのは生まれることはないのだろうなと思った。
「ハイドランジア？ここがきみの部屋。好きに使って貰って良いよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ俺は戻るから、夕食も出来ればここで過ごして欲しいな」
「構いませんよ」
「……え、」
「何か可笑しなことでも言いましたか？」
「……いや、なんでもないよ」
それじゃあ、と言って本当に去っていったギルバートの足音が完全に聞こえなくなるまで待って、ボクは寝台の上に横になった。
夕食はここで過ごして欲しい、ということは、この部屋から出るなということだろうか。
自分は愛しい正室と過ごすからと。
それはなんて……
「なんて楽なお飾り妻だろうね」
ボクはふっと口角を上げて、そうして眠りについた。
久方振りにゆっくり眠れたような気がした。
＊＊
目を覚ましたら夕刻だった。
コンコンというノック音を耳が拾う。
「はい」
「お食事をお持ち致しました」
「ありがとう」
食事を運んできたメイドが淡々とボクの前に食事を広げていく。
肉が多いような気がした。肉でもつけろということか、それとも人狼の主食が肉だからか。
（どちらもな気がする）
そんなことを考えていたらメイドは頭を下げた。
「お食事が終わられたらまた来ます」
「分かった」
食事が終わったら、ね。
つまりはこの部屋は監視されているということか。
まあ、何かをするつもりもないから関係ないけれども。
「……美味しい」
美味しい、けれども。
ひとり部屋で食べるのは、とても寂しいなぁ。
食事を終えて湯浴みをする。
温かな湯に浸かりながらボクは考えた。
「ボクは捨てられなければいい。ただ、ここに居ればいい」
まるでお人形さんのようだ。
「はは、」
ちゃぷりと口元まで湯の中に浸かった。
嗚呼、本当に。お人形さんのようだ。
「……っぅ、あ」
後にも先にも、ボクが声を上げて泣いたのはこれが最後だったように思う。
＊＊
「ハイドランジア様。ギルバート様がお待ちです」
寝台の上で目を閉じて、少しだけ眠っていたら聞こえた声。
数日過ごして分かった、彼女はボクの世話係兼、見張り役だ。
ボクが何かをしない為に。
はは。と内心で笑いが込み上げてきそうだった。
「ハイドランジア様。お急ぎを」
「分かってる」
何故呼ばれたのかなんて分からない。
けれどもボクは急かすメイドの声に応えるように身支度を整えた。
ギルバートに呼ばれた部屋に向かいながら、ボクはメイドに話を掛ける。
「どうしてギルバート様はわたしを呼んでるのかな？」
「ご冗談でしょうか……？」
「……ふぅん？」
訝しむような顔に、ボクは真意を悟った。
つまりはそういうことだ。
ギルバートは恐らく父上の言葉によりボクと閨を共にしなくてはならなくなったのだろう。
それはなんて……
（可哀想なヒトだなぁ……）
愛する妻が居るのに、他の女を抱かなくてはならないだなんて。
本当に可哀想。
その夜、ボクの破瓜は好きでもない男によってあまりに優しく、なれど残酷に、散らされた。
