ハイドランジア

「ギルバート様」

切なそうな声が背後から響いた。
その声には聞き覚えがあった。

「……」

けれどもその声には答えずに、留めた歩みを再度進める。
だって、この先には愛おしい妻が居るのだから。
この世界で何よりも、誰よりも、愛おしいヒトが。

「ギルバート様!何故、何故……」

啜り泣く声に、けれどもこの心はどうしたって揺らがない。

(嗚呼、早くランに会いたいなぁ……)

背後で崩れ落ちたような音が聞こえたけれど、俺は見向きもしないで。
俺のすぐ後ろに控えていた執事がどうにかするだろうと『愛しい妻』の居る部屋に急いだ。


**


「遅い」

「ふふ、ごめんね。ラン」

「……別に、良いよ」

「ラン?」

いつもだったらもう少し拗ねてくれるのに。一体どうしたって言うのだろうか?

「あの人に会ったんだね」

「……確かに会ったけど、言葉も交わしてないよ?」

「そう……」

「ラン。どうしたの?ヤキモチ妬いちゃた?」

「違う」

クッションを抱えてベッドに座っているランの何処が拗ねていないのだろうかと思ったけれども、そこには言及しなかった。

「俺が愛してるのは、ハイドランジアただひとりだよ」

「……別に、そういうことが聞きたいわけじゃない」

「え?」

「ボクは、別にギルバートが誰を好きでも、誰を愛していても良いんだよ」

微かに笑ったハイドランジアの、その笑顔の意味が分からなくて首を傾げる。
きゅうっと胸が痛くなるような、そんな笑顔を浮かべる癖して、ハイドランジアは何も感じていないかのように言うのだ。
……いや、実際本当に何も感じて居ないのだ。
ハイドランジアの心は壊れている。正確には、心の歯車とでもいうのだろうか?それが少しだけ狂ってしまっているのだ。
狂った歯車はバラさない限りは直らない。
そんな真似を生きているモノには出来ない。
ハイドランジアは心が狂ったまま、生き続けなければいけないのだ。

「俺は、どんなハイドランジアでも愛してる」

例えばハイドランジアが俺を見てくれなくても。

「ギルバートは……変わり者だね」

「ふふ。俺が優しいのはラン限定だよ」

「なら、さ」

「なぁに?」

その言葉は、きっと。
聞いてはいけなかった言葉なのかも知れない。


「――ボクと別れてよ」


時が、止まったような気がした。
正確には俺の中での時がだけど。
でも、どうして?どうしてそんな意地悪言うの?

「ラン、そういう拗ね方は可愛くないよ」

「拗ねたから言ったわけじゃないよ」

「……本気ってこと」

「ボクは所詮、人狼帝の妻になり損ねた『おさがり』だから」

ギルバートの幸せを壊すべきではなかったんだ。
切なそうにそう言うランに、熱がカッと全身を巡ったような気がした。
俺の想いは何も伝わって居なかったということ?
俺がどんな想いでランを求めたか知らないってこと?

「ふ、はは」

「ギルバート?」

「ラン」

ねぇ、どうして。俺はランのお願いなら何だって叶えてきた筈だよ。
それでも離れて行くというのなら――

「ラン。ハイドランジア。決して俺の傍から離れられると思わないでね」

「ボクは別に……」

「離れたいとは思ってない?なら、どうして俺を信じないの。どうして俺のことを愛してくれないの」

「だっ、て……」

「『おさがり』だからナニ?ランのことを結局求めたのは俺だ。ランが俺を選んだんじゃない。俺がランを選んだんだよ」

「……」

ベッドに腰掛けているランを押し倒しながら、腹に手を宛がう。
その腹を優しく撫でながら、ランが嫌がっていた言葉をソッとその形良い耳に口付けて吐いた。

「子供、作ろうか」

「っ、い、やだ!」

「嫌でも何でも、作る。俺がそう決めた」

ヤダヤダと首を振るランに、俺は格段に優しく腹を撫でた。

「ランが嫌がっても。絶対、孕ませる」

にこりと笑った俺の言葉に、ランは血の気の失せた顔を見せた。
優しく口付けをして。その身体を暴いていく。


本当はランが求めるまで子供は欲しかったけれども、作る気はなかったんだ。
けれどもう、限界だ。
ランを繋ぎ留めておくためならば、俺は子供さえも利用してやる。


「あいしてるよ、ハイドランジア」


決してきみを、逃がさない。
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