誇り抱く桜の如く

「おい」

部屋の中に入ってきた馴染んだ気配に、不意に呼ばれる。
わたくしは窓辺の椅子に腰掛けた状態でぼんやりとした頭をゆるく動かし、声の主を見やった。

「……あらあら、まあまあ。天帝ではありませんか。どうかしましたか? こんな夜も深い時刻に女の部屋に」

天帝が――否、男が夜も深いこんな時間に部屋に訪れた意味など馬鹿ではあるまいし、分かってはいる。
分かっていて、けれども意地悪く聞いているのだ。
それは別段、可愛らしい感情からではないことは確かだった。

「……っ、夫が、妻の部屋に訪れて何が悪い」

「ふふ。側室の部屋などに来ずとも、他の側室や……ああ、御正室様が特に貴方様のお相手をしてくださいますでしょう? あの方は貴方様に惚れ込んでいますから」

現在の天帝の正室の顔を思い出して、一瞬だけ吐き気がした。
香る鈴と書くあの方は、その名の通り鈴のように煩くて、着物に焚きしめた香の匂いは臭くて敵わない。
天帝は何か言いたそうな、苦しそうな顔をしていた。
……本心を言うなれば、今すぐにでも彼の方を抱き締めて差し上げたい。
触れたい。触れて、この方がわたくしを求めてくださるのを感じ取りたい。
けれども、それは出来ないのだ。

「私は……っ」

わたくしは心をすぅっと氷のように冷めさせる。

「わたくし。そんな気分ではありませんの。ご命令とあれば致しますが……どうします?」

高飛車な言葉。本来ならば許されないその態度に、けれども天帝はつらそうに眉を顰めて踵を返した。

「……日を改めよう」

「そうですか。幾度来ても同じではありますが、……それではおやすみなさいませ。天帝」

「……っ」

部屋を出て行く天帝は拳を硬く握り締めていた。
それをわたくしは窓辺の椅子に腰掛けたまま、にこやかに送り出した。
仕方がないでしょう?
笑っていなければ、心が壊れてしまいそうなのですもの。

(いえ、もう壊れているのかも知れませんね)

ずっと昔。
わたくしが大切なものを守る為に吐いた嘘から、わたくし達の関係は崩れてしまった。
とても哀しいけれども、それでいいのだと。そうでなければ困るのだと。微笑みを深くした。

わたくしはただ、守りたいものの優先順位を変えた。
ただ、それだけの話なのだから。


◆◇◆


天帝が部屋を去ってから半刻程経った頃。
ぼうっとただ天帝が去った扉を未練がましく見ていたわたくしは、その気配に気付いた。

「翠凛」

「バレちゃった。さすが母様だね!」

「ふふ。子の気配に気付けぬほど、わたくしは耄碌してはいませんよ」

予想通り扉から顔を覗かせたのは、わたくしと揃いの金糸の髪を持つ少年。
翠凛と呼ばれた少年は、とことこと軽やかな足取りで窓辺に座っているわたくしに近付いて来る。

「どうしました? こんな時間に」

「月がとても綺麗で、母様と一緒に見たくなったんだ」

「あらまあ、それは嬉しいことですね」

先程まで何を見ていたのかと問われ兼ねないけれども、今日は大きな満月が夜空に輝いていた。

「嗚呼、綺麗ですね」

「……」

「翠凛?」

黙り込んだ翠凛は、ただわたくしを一心に見ていた。
わたくしは首をこてりと傾げる。

「母様の髪、月の光にあたるととても綺麗だね」

照れたようにそう言った翠凛に、わたくしは大きく目を見開いた。

『お前の髪は月の光に透けると格段に美しいな』

且つて、今のように二人で窓辺に座りながら月を眺めた時があった。
わたくしの長い髪を掬い、愉しそうに口付けながらそう言ったあの方に、翠凛はとても似ていた。
似ていたけれど――でも違うのだ。

「母様? どうしたの? とても哀しそうな顔をしてる……」

「なんでもないのですよ。……嗚呼、もう遅いですね。寝ましょうか」

「……母様と一緒に寝てもいい?」

「構いませんよ」

ニコリと笑ってそう言えば、翠凛はパァっと顔を明るくさせた。

(嗚呼、この子にはこの世界は酷な場所なのですね)

そう、気付いてしまった。
表向きには良くされているようで、この子は天帝の正室やそれを取り囲む者達に虐げられているのだろう。
けれども翠凛は表には出さない。
きっとそれもこの子を虐げる者達には気に入らないのでしょうけれど……。

(わたくし『達』の子は強いですね)

わたくしは夜空の下に咲いている花に語り掛けるかのように微笑んだ。

「母様。寝る前のお話聞かせて?」

「良いですよ」

寝台に入るのを見守ってから、その横に横たわる。
翠凛が寝る前に強請る話はいつも決まっている。
それはわたくしにとっての記憶の反芻でもあった。

「――ほんの少しだけ昔のことでした」

とあるところに忌み子が二人。
ひとりは足枷なく自由に歩き回ることの出来た『陽』の子。
ひとりは地を踏むことすら許されなかった『陰』の子。

「その二人は与えられた立場は違えど、仲良く過ごしていました」

無表情にいつも書物に向かってばかり居た『陰』の子は、ある日とある男性に出逢いました。
その男性との出逢いがその子の運命を大きく変えたのです。
地を踏むことさえ許されていなかった『陰』の子は、この天界で『闘神』と呼ばれる、何処か掴み所のない男性に恋をしました。

二人は引かれ会うように惹かれ合い、結ばれます。
二人にとって、それはとても幸せな日々だったのでしょう。
『陰』の子は笑顔を見せることが増えてきました。
そうして二人は約束をしたのです。

「ずっと共に在ろうと。何があっても傍に居ようと」

闘神は『陰』の子に求婚をし、『陰』の子は是と頷きました。

「その幸せは、ほんの少しだけ続きました」

そこまで話して、小さな寝息が聞こえてきたのを感じて口を閉じる。
起こさないように翠凛を抱き上げて寝所に寝かせた。
重くなった子に、その寝顔の面影に、涙が溢れて来そうになったのをグッと堪える。

(幸せは、続くとばかり思っていました)

二人の幸せは長くは続きませんでした。
闘神は『とある出来事』から当時の天帝に反逆し、天帝を殺害。
その場で捕縛され斬首されました。
『陰』の子は闘神との約束通り、同じ場所に逝きたいと天界では禁忌とされている自害をし、その尊き命を絶ったのです。

「水仙」

今でも瞼を閉じれば思い出す。
最期に見た、晴れやかな笑顔を。
受け取った、二人にとっての愛の結晶を。

「わたくしも守ります。何があっても」

例えわたくしの想いが暗雲に隠されても。
貴方達の大切な生きた証は、あの日交わした約束を、わたくしは絶対に守ります。

「今、貴方達は笑えていますか?」

窓辺から見える星空。
下草に隠れている水仙に、わたくしはただ静かに問い掛けました。
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