ご主人と吸血鬼

昔々の話をしましょう。
人間界に世にも珍しい吸血鬼の女がひとり、山奥で暮らしていました。
吸血鬼の女は特になんてことはない親子喧嘩で家を飛び出て、そのまま引っ込みがつかなくなり家に帰っていない。というのが理由ではありますが、それでも吸血鬼は人間界での暮らしに満足していました。
窮屈な掟も、自分を縛る家柄も、そうして何より困らない食事も。
何もかもがその女には魅力的だったのです。

だけどある日。
自分の家の前に倒れている人間の男を見たその時から、吸血鬼の人生の歯車は明らかに変わりました。

「おい、吸血鬼。お前、なんで人間の俺が血を食事に出来ると思ってんだよ。普通に米とか味噌汁とかないのかよ」

「私を吸血鬼と称しておきながら普通に食事すると思っているんですか?それとも今すぐ喰われたいと?」

「おお、怖いねぇ。まるで俺の命を握っているのがお前みたいな言い方だ」

「その通りでしょう?」

男に糧たる餌を、衣食住のすべてを与えているのは自分なのだから。
命を握っているのは誰だと?私に決まっている。
それを当たり前のように言えば、はあ、と溜め息を吐かれた。

「だからお前は世間知らずの馬鹿なんだよ」

「なっ。世間知らずは百歩置いておいても馬鹿じゃないです!」

「いんや、馬鹿だね。俺が保証する」

「人間の癖に……!」

「その人間に生かされておいてよく言うな。なあ、吸血鬼?」

「っく」

その通りではある。私たち吸血鬼は人間が居なければ生きていけない生き物だ。
でも面と向かって言われると大層ムカつくというものじゃないだろうか。
悔しさにギュッと拳を握り締めて、奥歯を噛む。

「ふはっ。ほんと、冗談の通じねぇ吸血鬼だな。お前は」

「は、……」

「俺はさ、別に。この世界が吸血鬼の支配する国になったって構わないとすら思ってんだよ」

「何故です?」

「――俺の大事なもの、全部奪われたから」

そう笑った人間とはそこそこ仲良く暮らしていたと思います。
まあ、一方的に人間が私を揶揄っている毎日を過ごしていたというのが正解な気もしますが。
そうしてそんな日々が過ぎていき、数カ月が経ったある冬の日、私は人間に聞きました。

「どうして人間は傷だらけで倒れていたのですか?」

それはずっと気になっていたことで。
でもずっと聞けなかったことでした。

「人間?」

人間は少し考えるような顔をして、そうしてふと口を開きます。

「なんでだと思う?」

「え、」

「なんてな。別に、大した理由じゃねぇよ。――恋人を探してたああなった。それだけだ」

「恋人……」

「なんだよ。居ちゃ可笑しいかよ」

「いえ、別に。あなたみたいな嫌味な人間を好いてくれるような奇特な人間も居るモノだと思って」

しかし人間がこんな山奥まで来たのは見たことがありません。
この人間の居っていることが正しいのかも分かりません。

今思えば、私は少しでも疑えば良かったのです。
ただの人間が、こんな化け物である吸血鬼と『普通』に暮らしている時点で。
すべてを疑えば良かったんです。
なのに、彼との生活が楽しくて。思っている以上に満たされて。
何もかも見ない振りをしていた。
それが結果、自分だけでなく人間のことも傷付けることになると、この時の私は分かっていなかったのです。


***


「なあ、吸血鬼」

「はい?なんですか。人間」

「お前、名前なんて言うの?」

「名前、ですか?」

「いい加減『吸血鬼』なんて呼ぶの、不便なんだよ」

「……」

「なんだよ。まさか、名前がないなんて居わないだろ?」

「いえ……」

名前は、私の魂を縛るモノ。
私を封じたいと願っていたり、私を滅したいと思っている者に知られてしまえば為す術はない。
吸血鬼にとって、否。魔物にとって名前というのは、そういうものなのだ。
だから言い淀んだ。
それを人間がどう解釈したのかは分からない。
分からないけれども、人間は引く様子がなかった。
知らないのだろうとも思った。
でも、エクソシストや祓い屋に私の存在を知られたら。
いい加減拠点を動かそうと言うこの時期にそんな話題が出た為に動揺した。

「……なあ、吸血鬼」

「は、い」

「んだよ。そんな緊張して」

「いえ、だって……」

だって人間の顔が、あまりに能面のようだから。
まるですべての感情を押し殺しているかのように。

「俺に、恋人が居たって言ってたろ?」

「え、はい」

「あれ、嘘」

「は?」

「本当は、妹が居たんだ。その妹の首筋には、ふたつの穴が空いていた」

ああ、この人は。この為に私の傍に居たのか。
その時、唐突に理解した。
私を殺したい程に憎んでいるこの男は、ずっと機会を伺っていたのだ。
だが私もタダ殺されるのは性に合わない。

「あなたの言いたいことは理解しました。でも、私も死にたくないモノで」

「……っ!妹を殺しておいて!お前だけ死にたくないだなんて言うのか!?」

「私は……!」

「……お前をいつかこの手で殺すと決めた時から、俺の魂も人間のものではなくなっている」

「何言って……」

「なぁ?どうして妹だったんだよ……」

切なそうにそう言う人間は、苦しそうに胸の辺りを抑えながら言った。

「私は、」

「お前にとったら、人間は誰でも食糧なんだろ?」

「人間……」

「返せよ、吸血鬼。妹を、……返せよ!」

叫んだ人間はいつからか隠し持っていた包丁片手に襲い掛かって来る。
私は咄嗟に腕を前に自分を庇う動きをする。
そうして居ても、来る筈の衝撃は来ない。

「……ホント、お前冗談通じねぇのな」

「……にん、げん?」

目の前に居るのは確かに私の知っている人間なのに、その魂の形はナニかが違う。まるで獣や――魔獣のようなソレだ。

「ど、うして……」

「お前、ホント馬鹿。頼むから、――逃げろ」

「は……?何を、」

「もうすぐ此処に払い屋が来る。だから、逃げろ」

「何を、何をしたいんですか?あなたは……私をなじったり、包丁で襲ってみたり、逃げろと言ったり……何をしたいんですか!?」

そう言ったのに、人間は微笑むだけで何も言わずにただ一言。

「逃げろ」

それしか言わなかった。
私は確かに死にたくはない。払い屋なんて捕まったら何をされるかも分からない。
でも、私の心は?どうしようもない程に締め付けられるこの心を植え付けたのは、この人間なのに。

「いや、だ……」

「……」

「いや、です。人間、あなたは私にこんなものを植え付けた癖に、私だけ逃げろと?そう言うのですか!?」

「俺のことは気にするな。それに、妹のことも本当だ」

「じゃあ!どうして家の前で倒れていた時にボロボロだったんですか!?本当はナニかあったんじゃないんですか!?」

「……お前は、知らなくていいことだ」

「人間……!」

「……冬馬」

「え?」

「俺の名前。冬馬って言うんだ」

「……にん、げ……いやだ。どうして……」

ふるふると首を振る。
人間の身体が名乗った途端にどんどん崩れていく。
どうして?ただの人間だったあなたが、どうして?

「俺、お前のこと好きだった。好きになっちゃ、いけなかったのにな」

「……にんげ、ん」

「名前、呼べよ」

「……とう、ま」

「うん」

「冬馬……っ」

「うん」

「どうして……っ、こんなもの植え付けたくせに!どうして!」

そう叫ぶ頃には、人間の、冬馬の身体は完璧に崩れて、そうして消え去った。


後から知った話だった。
冬馬は妹を人質にされ、人体実験をされていたらしい。
吸血鬼や魔物に打ち勝つ為に、払い屋も必死だったということだが。
もっとも、自分が従順で居る間は妹には何もしないという契約を違反され、逆らった時に妹は殺され。自分は命からがらこの森に来たのだと。

――私を殺しに来た払い屋に聞いた話だ。


「冬馬。私、あなたを待つから」

何年、何百年経っても、あなたの魂を見付け出すから。
だからどうか、今度は。
幸せな平和な世で会いましょう?
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