誇り抱く桜の如く

暗闇の中をただ揺蕩うように、身を任せながら『その場』にわたくしは居ました。
足元も見えない暗闇なのに本能的な恐怖すら抱かない。
そのことを不審に思っても、わたくしは瞼を閉じる。
なんだかとても重たいのです。
なんだかとても眠いのです。

わたくしはこのまま眠っても良いのでしょうか?

嗚呼、何も思い出せない。
自分の名も、生い立ちも、役割も。

『本当に?』

「え?」

瞼を開けた先、そこに立っていたのは金色の短い髪に紫水晶の瞳を持った女性。
何故だか泣き出したくなった。

『貴女は本当にすべてを捨ててもいいの?』

「捨てるも何も、最初から何も持っては居ませんよ」

衣服を確かめるような仕草をすれば『相変わらず貴女は天然だね』と笑われた。

『貴女を待っている人達が居るよ』

「わたくしを?」

『耳を傾けて。そうすればきっと、大切なことを思い出す』

「……」

女性の言うように耳を傾けて見る。
自然と降りた瞼は、聴覚の感度を上げる為か。
最初は何も聞こえなかった。
けれども少しずつ、少しずつ、何かが聞こえてきた。

(……す、……ん)

(す、れ……)

(睡蓮!)

「……睡蓮」

嗚呼、そうです。わたくしの名前。
それにこの声は――

「劉桜様……」

『思い出した?』

「はい。はい。思い出しました。わたくしは現天帝劉桜の三番目の妻にして、正妻であったこと。わたくしには愛おしい息子が居ること。そうして、」


わたくしは目の前で微笑む女性を見やる。
懐かしい筈です。
つう、と涙が頬を伝うのを感じました。

「貴女はわたくしの、大切な妹だと言うこと」

『うん。そう。姉上のことを三番目くらいには思っている、姉上のことが大好きな水仙だよ』

「ふふ、三番目なのですか」

分かっていて聞いている。
その意図が伝わったのか、水仙は微笑んだ。

『俺には大切な夫と大切な息子が居るからね。……まあ、姉上には色々丸投げしちゃったけど』

苦労をかけてごめんね。

謝られて、わたくしは「いいえ」と答えた。

「苦労だなどと思っては居ません。昔も今も……これからも。大切な妹が産んだ子なのです。何を以て苦労だなどと思いますでしょうか」

『ありがとう。ねえ、でも姉上』

「はい?」

『俺のことを大事に想ってくれるのはいいけど、本当はもっと大事にしたい人が居るんじゃない?』

「……ふふ。水仙には誤魔化せませんねぇ」

『うん。だって姉上の妹だから』

だから、と水仙は言う。

『ここに来るのは、うんと先にしてね?まだまだ来ないで。俺は簡単に来ちゃったけど、姉上には長く長く、そっちに居て欲しいんだ』

「水仙の望みですか?」

『どっちかって言うと。姉上を想って今も生きている人達の望み、かな?』

「まあ、水仙は望んではくださらないのです?」

『そんなの言わなくても分かるでしょ』

「……ふふ。はい」

『あっちに向かって真っ直ぐ進んで。そうしたらそこが出口だから』

「ありがとうございます。……また、逢う日まで貴女は此処に居てくださいますか?」

『うん。俺達はずっと此処に居るよ』

さあ。早く。道が閉じる前に。

水仙が指を指した。
ぶわっと桜並木が道を指し示すように姿を表す。
それはそれは綺麗で、美しくて。
あまりに生き生きとしているものですから、わたくしは少しだけ見とれてしまいました。
けれどもわたくしの名を煩いくらいに呼んでくれる方がいらっしゃるから。

わたくしは足を一歩、踏み出しました。

『またね、姉上』

耳にそれだけを残して、水仙の声は聞こえなくなりました。


代わりに感じたのは、右手を痛いほどに握られている感触。


「……っ、う」

「睡蓮!」

「かあさま!」

「翠凛に、劉桜さま?……わたくし、帰って来れたのですね……」

ぼうっとしていれば抱き締められた。

「劉桜様?」

「良かった、良かった、睡蓮。無事で何よりだ……っ」

「劉桜様……」

その時に気付いた。
わたくしが劉桜様のお名前を呼んでいることに。
劉桜様がわたくしの名前を呼んでくださっていることに。

「どうして、名を呼んでくださるのですか?」

「睡蓮」

「はい」

「もう何もかも捨ててでも、俺はお前を離さない。お前も、お前が産んだと言った翠凛も。二人とも大事な俺の家族だ」

嗚呼、嗚呼。
その言葉を、わたくしは欲していたのですね。
両目から零れる涙がぽろぽろと止まらない。

「お前はまだ、俺を想っていてくれているか?」

「……そうですね」

ええ、そうですね。
瞼を閉じて広がる薄桃色の景色。
わたくしは笑みを浮かべて言った。

「桜、綺麗ですねぇ。劉桜様」

「……答えになっていない」

「あら、忘れてしまいましたの?」

「忘れてはいない。忘れてはいないが、またそのはぐらかしに合うのか。俺は」

はあ、と溜め息を吐かれた劉桜様はわたくしの背に回した腕を一度離す。
離れていく温もりが既に恋しい、だなんて。
わたくしは貪欲になったものです。

「翠凛」

「は、はい!」

「おいで」

劉桜様が翠凛の名を呼びながら片腕を広げる。
迎え入れるようなその仕草に、少し離れた位置に居た翠凛は泣き出してしまいそうな顔をしながら駆け寄ってきた。

「俺がお前の父だ。よぉく覚えておけ。翠凛」

「はい……っ!はい!父様!」

子供ながら大人びて居た翠凛が真の子供のように泣きじゃくり。
それを見てぽろぽろと涙を零すわたくし。
そうして幸せそうな表情をなさっている劉桜様。


嗚呼、これが――幸せなのですね。
もう二度と、失くさないように。
わたくしは噛み締めるように劉桜様の胸に縋り付いた。
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