SS 101~120

「言ったでしょ?」


そう声が聞こえて、びくりと身体が震える。
無意識に、膝に掛かっていた上掛けを胸元まで引き寄せた。
男は私のそんな態度には何の反応もせず、ただ優しい笑みを浮かべながら此方に歩み寄ってくる。
本能的な恐怖を感じて、僅かに後ずさった。
壁際にあるベッドの上では大した距離ではない。ほんの気休め程度だ。
けれど今は、その気休め程度でも男との間に物理的な距離が欲しかった。


「可哀想に。痛むだろう?」


男はそう言ってこめかみ辺りを撫でる。
触られた場所に鋭い痛みが走った。


「だから言ったのに。外は危険だって」


痛み顔を歪める私を無視して、男はベッドの縁に身体を此方に向けて腰掛けると、優しく、けれど的確に痛みを感じるように怪我をした場所を撫で続ける。
まるで仕置きのようだと思った。
事実、男にしてみたら仕置きなのだろう。
男の元から勝手に逃げ出した事への、罰のつもりなのだ。


「でも、これで分かってくれたよね?君を愛しているのはこの世界で俺しか居ないって」


君を守ってあげられるのは、俺しか居ないって。


囁くような声音には、男から逃げ出す前と寸分違わぬ甘さが含んでいる。


――だからこそ、怖かった。


自分が異様なまでに執着をされていることは知っていた。
ほんの少し、他へ目をやった。
それだけで、酷く責められた時もあったから。
暴力を奮われる訳ではない。
言葉で詰られる訳でもない。
ただただ、延々と。
男がどれだけ私を愛しているかを。
どれだけ他のモノが私に対して良い感情を持っていないかを。
だから私は男の愛を受け入れなければいけないのだと。


まるで刷り込むように。
何度も何度も告げられた。
甘ったるく、胸焼けさえ起きそうな声で。
心と身体に馴染むまで。


「もう俺から逃げるだなんて思わないよね?俺の側にずっと居てくれるよね?」


布団を握り締めていた両手を男はまるで壊れ物にでも触れるかのような優しさで握る。
まるで懇願でもされているかのようなのに、どうしてだか震えが収まらない。
ただとにかく怖くて恐くて堪らない。


なのに、


「……もう嫌だよ。君が傷ついていくのを見るのは」


――この手を振りほどくことが、どうしたって出来ない。


目を瞑れば、今でも鮮明に思い出す。
男の言い付けを破り、外に出たが為に浴びせられた、言葉と暴力の嵐を。
反論さえ許されず、何度も気味が悪いと、何故お前みたいなのが居るのだと言われた。
何度も石をぶつけられ、殴られた。
何度も何度も何度も。
どこに行っても、どこに居ても、居場所なんてなくて。
“ココ”しかなくて。
結局見付かって、男の元に連れ帰される時だって、反抗する気力さえなくなる程に痛くて、苦しくて、怖くて。


『外は危険だよ』


そう言った男の言葉が頭の中で反響し、そして同時に、外に対する恐怖と、男に対する恐怖がぐるぐると巡る。
もう何が怖くて、何が安全なのか、それすら曖昧だ。


「泣かないで。怖いことを思い出させちゃったね。ごめん。でも俺が守ってあげるから。君が誰からも傷つけられないように。君が泣かなくていいように。俺が君を、守ってあげるから」


男の顔が近付いてきたかと思うと、眦に口付けを落とされる。
それでも止まることのない涙は次から次へと零れ、その度に男は私の涙を啄む。


「――だから、もう」


眦から唇を離し、顔を離した男は私と視線を合わせると微笑んだ。
その目には有無を言わせないような気迫が籠っていて、無意識に身体が強張る。


「もう、何処にも居なくならないよね」


否定すら許されない声音だった。
けれど目の前でただひたすら私に愛を囁く男よりも、目に見える形で私を虐げる外の人間の方が余程怖くて。
壊れたかのように流れ続ける涙をそのままに、私は小さく「うん」と頷く。


「良い子」


幼子を誉めるかのように頭を撫でられる。
触れられた掌は先程のように痛みを与えない。
わざと痛むように触れられていたのだと気付いた。
きっと以前の私なら小さくとも響かなくとも抗議の声を上げていただろう。
「酷いわ」と。少し頬を膨らませながら。
けれど今は、いつ男が外の人間のように悪意を向けてくるか分からないから、男の服を少しだけ握り、縋るように男の胸に顔を埋めた。











「ようやく全部、手に入った」


長かった。
外にばかり興味を持つ彼女の心に、身体に、僕だけしか居ないのだと刷り込むまで本当に長かった。
けれどたまたま目を離した隙に屋敷から逃げ出してしまった彼女は、現実を知ったようだ。
当然だろう。
今まで当たり前のように優しく接してくれる人間しか彼女の周りには置いていなかったのだから。
初めて受ける悪意の数々に、彼女はどれだけ傷付いただろう。
ようやく見付けた時には、彼女の身体も心もぼろぼろで。
逃げ出して怒っていたというのに思わず「可哀想」だと言ってしまうくらいには酷い状態だった。
ああ、けれどその反面。
好機だとも思ってしまったのだから、僕も彼女を傷付けた奴等と変わらないか。


「ごめんね」


泣き付かれて眠ってしまった彼女の、少しだけ寄せられた眉間を親指で優しく撫でる。
そのまま彼女の日に透ければ溶けてしまうのではないかと思うくらい白い髪に傷に障らぬよう触れる。
紅い宝石のような瞳は、今は閉じられていて少しだけ残念だ。
そのまま視線を動かせば、焼けたことのない真珠のような肌に巻かれた清潔な白が目に入る。
それに何とも言えない怒りが湧いた。
彼女に傷を付けた人間は、調べ尽くした。
もう二度と陽の目を見せてはやらない。
僕の大切な宝物に傷を付けたのだから、当然の報いだろう。
ああ、でも。
彼女が二度と外に興味を抱かなくさせてくれたことには礼を言わなくてはいけないな。
ふ、と決して彼女には見せられないような笑みを浮かべていれば、彼女が腕の中で僅かに身動いだ。


「起きたの?」


声を掛けても返事はない。
どうやらまだ眠りの底から帰ってきてはいないようだ。


「ゆっくりおやすみ」


沢山たくさん傷付いた君は、きっともう、以前のように無邪気な笑顔を僕に見せてはくれないのだろう。


それでもいいと。
君の全てが欲しいのだと。
そう思って、覚悟していたけれど。


「少しだけ辛いね」


君に怯えられるのは。
思っていたより堪えるようだ。


「それでもね?」


嫌われても、傷付けても、怖がられてもいいから。
ずっとずっと、例えば君が死んでしまったって。


「あいしていたいと、思ってしまったんだ」


だから早く諦めて、僕と同じ場所まで堕ちてきて。
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