Another Story
それはある日のことだった。
大河が部活に赴いて、ようやく今日も解放されたと思った、そんな放課後。
軽快でありながらどこか静かで。それでも決して重厚感がないわけではない。
とても耳障りの良い、優しい音楽を耳が拾った。
「良い音……」
何処から聞こえて来るのだろう?
今居るのは本館校舎で、音楽室は特別棟の筈だけれども。
そんな疑問を持ちながら、私はその音に引き寄せらるようにふらふらと特別棟に向かう為の階段を上がっていく。
一番音が大きく鳴っている部屋を見付けた。
そこは記憶が正しければ空き教室だった筈だけれども。
「――誰だ」
不意に、中から声が聞こえた。それと同時に音楽が鳴りやむ。
私は隠れている意味もないかと思い、教室の中へとなるだけ静かに入っていった。
そこに居たのは綺麗に染まっている銀髪に、たくさんのピアスを付けた……所謂不良というやつだろうか?
男子生徒がピアノの前に座っていた。
その男子生徒は私を見ると少しだけ目を見張って、そうして口を開いた。
「……お前、放送室事件の女か」
「知っているの?」
「先輩には敬語を使え一年」
その言葉で彼が先輩だと判別出来た。
何せ現在の学年を表すカラーネクタイをしていなかったから。
今は一年生が青、二年生が緑、三年生が赤だったか。
「それはそれは申し訳ありません」
「誠意が伝わらねぇなぁ?」
「これでも誠心誠意謝っているのだけれども」
「そういうこと言うから昔から色々言われんだよ、お前」
「……昔から?」
私はこの先輩とやらと出逢ったのは初めての筈なのだけれども。
その疑問に答えるように、先輩は言いづらそうに言った。
「……昔、お前と同じコンクールに出たことがあるんだよ」
「……まさかとは思うけれども、カズサ・アズマヤ?」
「正解」
「そう。だからあんなにも心惹かれる音を奏でられたのね」
「んだよ、嫌味か。最優勝者め」
「嫌味ではないわ。あのコンクールの演奏は見事だったわ」
「……お前にコテンパンにされたけどな」
「ええ、あの時の審査員の耳を私は疑った覚えがあるもの」
あんなにも素敵な音を奏でられる人間を、まさか落選者にするだなんて、と。
そう言えば先輩は目をぱちくりさせながら、ふはっと吹き出すように笑った。
「ホント、嫌味なやつだな、お前は」
「だから、」
「――なんで消えたんだ」
「……ノーコメント」
「ピアノの音に釣られてくるってことは、まだピアノは嫌いになったわけじゃねんだろ?なんでやめたんだ」
「ノーコメントと言っているでしょう、カズサ・アズマヤ」
「ま、別に良いけどさ。お前がピアノやめてくれたお陰で世に出たピアニストは多い」
「……」
「責めてるわけじゃねぇぞ。事実は言ってるけどな」
「分かっているわ」
親の威光の話をされているのだと、理解くらいはしている。
私はたまたま世界的ピアニストの母を持ったが故にピアニストの道を志しただけの、母に比べたら天と地ほどの差がある人間だと。
理解しているし、それにピアノをやめた理由は他にある。
才能だけで諦める程、私は物分かりが良くなかったから。
誰よりも練習に練習を重ねて、スケジュール管理もしっかりしていた。
それでも――私はピアノをやめた。いえ、この言い方だと語弊があるわね。やめさせられた、の間違いなのだから。
「それで、お前はもう弾かねぇの?」
「もう三年は弾いてないわ」
「何があったか、なんて聞かないでおいてやるよ」
「……ありがとう」
「だから、先輩には敬語を使え」
「あなたとは幼馴染のようなものでしょう?」
「は?」
先輩は口をぽかんと開けて驚いた顔をする。私は何か可笑しなことを言ったかしら?
「カズサ・アズマヤは私の出たコンクールの殆どすべてに出場しているじゃない」
「……っんなもん黒歴史だ!」
「あまり大きな声を出されると驚くのだけれども」
「お前が変なこと言い出すからだろォが」
「そこまで変なことを言ったかしら?」
「人をストーカー呼ばわりしておいて何言ってんだ」
ストーカーだとは一言も言っていないのだけれども、まあ、彼がそう思ったのならばそうなのかも知れないわね。
「不快にさせてごめんなさい」
「えらく下手に出るようになったもんだな」
「そうかしら?」
「オレが知ってる瑠璃葉・アーウィンクは、もっと人の心がなかった」
「それこそ酷い言い方ね」
「――なのにお前の演奏は綺麗だった。澄んだ湖を揺蕩っているみたいな気分にすらなって、いっそ怖気すらしたな」
「褒めているのかしら?それとも貶しているのかしら?」
「どっちもだよ」
先輩はそれだけ言うと椅子から立ち上がる。
私はそれをなんとなく目で追った。
近付いて来る先輩は何処か楽しそうで、私はきょとりと首を傾げる。
キシリと床を軋ませながら教室の入り口で立って居る私に向かって歩いてくる先輩の顔があと数cmで触れる、と思った瞬間。
後ろにグンっと引っ張られた。
「ザンネン」
「おっまえ!人のオンナにナニしてんねん!」
「まだしてねぇよ、一年坊主」
「……大河?」
私を抱き締めているのは部活に意気揚々と向かった筈の大河だった。
どうしてここに?
そう言おうとして、けれどもその言葉は飲み込まれた。
「仕返しだよ」
「仕返して、なんのや」
「小松大河。テメェ昔、オレの女寝取ったろ」
「そんなん居過ぎて分からへんし、そもそもこの学園に来てからは瑠璃葉一筋なんで分からへんわ」
「もっと昔だよ、アレは……そうだな。二年前だ」
「粘着シートかなんかですかアンタ!そこまで昔のこと覚えてませんわ!」
「そりゃそうだよなァ?ヤリ捨てだったみてぇだし」
ただなァ。オレはそれが気に食わねぇ。
「一度手に入れた女が誰かの手によって穢される。そんで捨てられる。そんな思い、お前はいつもする側だもんなァ」
「あー!あー!瑠璃葉には聞かせられませんわ!」
「いえ、バッチリ聞こえているのだけれども」
「あかん!耳塞ぐん忘れてた!」
「アホなのかしらあなたは」
「瑠璃葉・アーウィンク」
「何かしら?カズサ・アズマヤ」
先輩は私に向かって微かに微笑みながら言う。
「お前は凄いよ。いつだって人を魅了する」
音楽でも、その人間性でも。
「だからオレはお前をめちゃくちゃにしたくなる。壊したくなる。――俺のモノにしたくなる」
なァ、と先輩は尚も問い掛けるように声を発するのだ。
「お前、恋人がクズ野郎だって知って嫌にならねぇの?」
「それこそ何故、と私だったら問うわ」
なんで、と小さく呟いた先輩に私はピクリとも表情を変えないまま、言った。
「私は大河の『恋人』だもの」
「瑠璃葉……!なんか嫌な刺さり方したけど恋人の認識はあったんやね!もう死んでも本望やわ!」
「あなたのそのすぐ死にたがる癖はどうにかならないのかしら?」
「治りませんなァ」
ハハっと笑った大河は私を抱き締めたままの状態で先輩に言った。
「ちゅーことで、瑠璃葉はあげられません!」
「そもそも私はモノではないもの」
「……瑠璃葉・アーウィンク」
「何かしら?」
「お前、こっちの道に戻ってくる気はねぇの?」
「……気分次第ね」
「そうか」
そうか、とだけ呟いて先輩は私達を見て笑った。
その笑顔は何処か安堵したような顔だった。
「それが聞けて良かった」
「そう」
「ああ、それが聞きたくてオレはお前を釣ったからな」
「まんまと釣られたわ」
「はは、結局お前は逃げらんねぇんだよ。ピアノからはな」
「――あなたは逃げたくせに」
「……まぁな」
そんな話をしていたら、先輩の身体がどんどん透けていくのが視認出来た。
いえ、そもそも視認出来てはいけないモノなのだ、彼は。
大河が緊張したように身体を強張らせているのが伝わってくる。
「る、瑠璃葉さん?アレは一体、何が起きて……」
「はは。まァ、なんだ。また盆にでも逢おうぜ」
「なんっ……!」
その言葉を最後に私と大河は空き教室から弾き出されていた。
カズサ・アズマヤは既にこの世界には居ない存在だ。
一年前に事故で亡くなっている。
その更に一年前、要は二年前に指を骨折して治療中だったと聞いていた。
そんなことを大河に話せば、大河は「嘘やん!」と騒いでいたけれども。
「本当よ?」
と、私は特別棟の階段から降りながら言った。
これはうだるような暑い夏……ではなく。
凍えるほど寒い冬に起きた、とある出来事であった。
大河が部活に赴いて、ようやく今日も解放されたと思った、そんな放課後。
軽快でありながらどこか静かで。それでも決して重厚感がないわけではない。
とても耳障りの良い、優しい音楽を耳が拾った。
「良い音……」
何処から聞こえて来るのだろう?
今居るのは本館校舎で、音楽室は特別棟の筈だけれども。
そんな疑問を持ちながら、私はその音に引き寄せらるようにふらふらと特別棟に向かう為の階段を上がっていく。
一番音が大きく鳴っている部屋を見付けた。
そこは記憶が正しければ空き教室だった筈だけれども。
「――誰だ」
不意に、中から声が聞こえた。それと同時に音楽が鳴りやむ。
私は隠れている意味もないかと思い、教室の中へとなるだけ静かに入っていった。
そこに居たのは綺麗に染まっている銀髪に、たくさんのピアスを付けた……所謂不良というやつだろうか?
男子生徒がピアノの前に座っていた。
その男子生徒は私を見ると少しだけ目を見張って、そうして口を開いた。
「……お前、放送室事件の女か」
「知っているの?」
「先輩には敬語を使え一年」
その言葉で彼が先輩だと判別出来た。
何せ現在の学年を表すカラーネクタイをしていなかったから。
今は一年生が青、二年生が緑、三年生が赤だったか。
「それはそれは申し訳ありません」
「誠意が伝わらねぇなぁ?」
「これでも誠心誠意謝っているのだけれども」
「そういうこと言うから昔から色々言われんだよ、お前」
「……昔から?」
私はこの先輩とやらと出逢ったのは初めての筈なのだけれども。
その疑問に答えるように、先輩は言いづらそうに言った。
「……昔、お前と同じコンクールに出たことがあるんだよ」
「……まさかとは思うけれども、カズサ・アズマヤ?」
「正解」
「そう。だからあんなにも心惹かれる音を奏でられたのね」
「んだよ、嫌味か。最優勝者め」
「嫌味ではないわ。あのコンクールの演奏は見事だったわ」
「……お前にコテンパンにされたけどな」
「ええ、あの時の審査員の耳を私は疑った覚えがあるもの」
あんなにも素敵な音を奏でられる人間を、まさか落選者にするだなんて、と。
そう言えば先輩は目をぱちくりさせながら、ふはっと吹き出すように笑った。
「ホント、嫌味なやつだな、お前は」
「だから、」
「――なんで消えたんだ」
「……ノーコメント」
「ピアノの音に釣られてくるってことは、まだピアノは嫌いになったわけじゃねんだろ?なんでやめたんだ」
「ノーコメントと言っているでしょう、カズサ・アズマヤ」
「ま、別に良いけどさ。お前がピアノやめてくれたお陰で世に出たピアニストは多い」
「……」
「責めてるわけじゃねぇぞ。事実は言ってるけどな」
「分かっているわ」
親の威光の話をされているのだと、理解くらいはしている。
私はたまたま世界的ピアニストの母を持ったが故にピアニストの道を志しただけの、母に比べたら天と地ほどの差がある人間だと。
理解しているし、それにピアノをやめた理由は他にある。
才能だけで諦める程、私は物分かりが良くなかったから。
誰よりも練習に練習を重ねて、スケジュール管理もしっかりしていた。
それでも――私はピアノをやめた。いえ、この言い方だと語弊があるわね。やめさせられた、の間違いなのだから。
「それで、お前はもう弾かねぇの?」
「もう三年は弾いてないわ」
「何があったか、なんて聞かないでおいてやるよ」
「……ありがとう」
「だから、先輩には敬語を使え」
「あなたとは幼馴染のようなものでしょう?」
「は?」
先輩は口をぽかんと開けて驚いた顔をする。私は何か可笑しなことを言ったかしら?
「カズサ・アズマヤは私の出たコンクールの殆どすべてに出場しているじゃない」
「……っんなもん黒歴史だ!」
「あまり大きな声を出されると驚くのだけれども」
「お前が変なこと言い出すからだろォが」
「そこまで変なことを言ったかしら?」
「人をストーカー呼ばわりしておいて何言ってんだ」
ストーカーだとは一言も言っていないのだけれども、まあ、彼がそう思ったのならばそうなのかも知れないわね。
「不快にさせてごめんなさい」
「えらく下手に出るようになったもんだな」
「そうかしら?」
「オレが知ってる瑠璃葉・アーウィンクは、もっと人の心がなかった」
「それこそ酷い言い方ね」
「――なのにお前の演奏は綺麗だった。澄んだ湖を揺蕩っているみたいな気分にすらなって、いっそ怖気すらしたな」
「褒めているのかしら?それとも貶しているのかしら?」
「どっちもだよ」
先輩はそれだけ言うと椅子から立ち上がる。
私はそれをなんとなく目で追った。
近付いて来る先輩は何処か楽しそうで、私はきょとりと首を傾げる。
キシリと床を軋ませながら教室の入り口で立って居る私に向かって歩いてくる先輩の顔があと数cmで触れる、と思った瞬間。
後ろにグンっと引っ張られた。
「ザンネン」
「おっまえ!人のオンナにナニしてんねん!」
「まだしてねぇよ、一年坊主」
「……大河?」
私を抱き締めているのは部活に意気揚々と向かった筈の大河だった。
どうしてここに?
そう言おうとして、けれどもその言葉は飲み込まれた。
「仕返しだよ」
「仕返して、なんのや」
「小松大河。テメェ昔、オレの女寝取ったろ」
「そんなん居過ぎて分からへんし、そもそもこの学園に来てからは瑠璃葉一筋なんで分からへんわ」
「もっと昔だよ、アレは……そうだな。二年前だ」
「粘着シートかなんかですかアンタ!そこまで昔のこと覚えてませんわ!」
「そりゃそうだよなァ?ヤリ捨てだったみてぇだし」
ただなァ。オレはそれが気に食わねぇ。
「一度手に入れた女が誰かの手によって穢される。そんで捨てられる。そんな思い、お前はいつもする側だもんなァ」
「あー!あー!瑠璃葉には聞かせられませんわ!」
「いえ、バッチリ聞こえているのだけれども」
「あかん!耳塞ぐん忘れてた!」
「アホなのかしらあなたは」
「瑠璃葉・アーウィンク」
「何かしら?カズサ・アズマヤ」
先輩は私に向かって微かに微笑みながら言う。
「お前は凄いよ。いつだって人を魅了する」
音楽でも、その人間性でも。
「だからオレはお前をめちゃくちゃにしたくなる。壊したくなる。――俺のモノにしたくなる」
なァ、と先輩は尚も問い掛けるように声を発するのだ。
「お前、恋人がクズ野郎だって知って嫌にならねぇの?」
「それこそ何故、と私だったら問うわ」
なんで、と小さく呟いた先輩に私はピクリとも表情を変えないまま、言った。
「私は大河の『恋人』だもの」
「瑠璃葉……!なんか嫌な刺さり方したけど恋人の認識はあったんやね!もう死んでも本望やわ!」
「あなたのそのすぐ死にたがる癖はどうにかならないのかしら?」
「治りませんなァ」
ハハっと笑った大河は私を抱き締めたままの状態で先輩に言った。
「ちゅーことで、瑠璃葉はあげられません!」
「そもそも私はモノではないもの」
「……瑠璃葉・アーウィンク」
「何かしら?」
「お前、こっちの道に戻ってくる気はねぇの?」
「……気分次第ね」
「そうか」
そうか、とだけ呟いて先輩は私達を見て笑った。
その笑顔は何処か安堵したような顔だった。
「それが聞けて良かった」
「そう」
「ああ、それが聞きたくてオレはお前を釣ったからな」
「まんまと釣られたわ」
「はは、結局お前は逃げらんねぇんだよ。ピアノからはな」
「――あなたは逃げたくせに」
「……まぁな」
そんな話をしていたら、先輩の身体がどんどん透けていくのが視認出来た。
いえ、そもそも視認出来てはいけないモノなのだ、彼は。
大河が緊張したように身体を強張らせているのが伝わってくる。
「る、瑠璃葉さん?アレは一体、何が起きて……」
「はは。まァ、なんだ。また盆にでも逢おうぜ」
「なんっ……!」
その言葉を最後に私と大河は空き教室から弾き出されていた。
カズサ・アズマヤは既にこの世界には居ない存在だ。
一年前に事故で亡くなっている。
その更に一年前、要は二年前に指を骨折して治療中だったと聞いていた。
そんなことを大河に話せば、大河は「嘘やん!」と騒いでいたけれども。
「本当よ?」
と、私は特別棟の階段から降りながら言った。
これはうだるような暑い夏……ではなく。
凍えるほど寒い冬に起きた、とある出来事であった。