SS 141~160
その『かみさま』はとても美しい方だった。
けれどその方の傍には誰も居ない。
『かみさま』だからと言って、誰も彼もが傍に近寄ることはなかったのだ。
僕はなんだか其のことが寂しい気持ちになってしまって、気が付けば僕の足はその方がいらっしゃる庭園へと赴いていた。
「か、かみさま!」
「はい?」
「……っ」
ああ、なんて綺麗な声なんだろう。まるで湖面を揺らすような、そんな声。
こんなにも美しい声を持つ方を、僕は人間だとは思えなかった。
「あの!これ!」
きょとりとされた顔をする『かみさま』に勇気を振り絞って差し出したのは、白百合の花。僕の大好きな花だ。
男なのに花が好きだなんて!って、母様には良く言われるけれども、好きなのだから仕方がない。
見た目も心も確かに男ではあるけれど、好きに男も女も関係ないと僕は思う。
ああ、話が逸れてしまった。
「え、ええと……かみさまはお花、お嫌いですか?」
「……はな」
ぱちり、と瞬きをする『かみさま』は、首を緩く振られた。
音が少し離れた僕の耳ですら拾いそうなほどに長い睫毛と、首を振ったことによって揺れた長い髪の色はまるで紅い曼珠沙華のよう。
綺麗だなあ、と、つい見つめてしまえば『かみさま』はジッと僕の手に持った白百合の花を見つめる。
花はお嫌いだったのだろうか?
不安な気持ちでいっぱいで、けれどここで逃げたら男が廃るような気がして。
今にも逃げ出してしまいたい気持ちを抑えて、引きそうになる足を踏み留まらせる。
「すきですよ」
「え、」
「花は、すきですよ」
「そ、そうなんですね!」
なんて気の利かない言葉だろうと思った。
『かみさま』はクスクスと鈴を転がすような声で笑われた。
「何を望みに来ましたか、人の子よ」
「へ?」
「私に望みなく逢いに来たのですか?」
「え、はい……すみません……」
「……いいえ。こちらこそ申し訳ありません。何故、私に逢いに来る者達はこぞって私に願いを乞う者達でしたので」
「……かみさまは、願い事を叶えることが出来るのですか?」
「出来る、と言ったらあなたも願いを乞うのですか?人の子」
その言葉にまるで希望は潰えたような色を見た気がした。
僕はあまり良くない頭で考える。
考えた先に出てきた答えは、ひとつだけ。
「かみさまが願い事を叶えてくださるのであれば、僕はひとつだけ願い事をしたいです」
「……なんでしょう」
色が失せて行く。あんなにも綺麗な緋色だったのに。ザッと風が吹いたあとのススキ野原のように色を失っていく『かみさま』に、僕は努めて微笑みながら言うのだ。
「僕の、友達になってください」
赤スグリのような紅い瞳は大きく見開かれ、縦に割れた金色の瞳孔はまるでお月様のよう。
驚いた、心底驚いた。
そんな顔をされるものだから、僕はおかしなことを口走ってしまったのかとオロオロとする。
「か、かみさま!申し訳ございません!何か僕は不敬を働いてしまったでしょうか!」
「いえ、……いいえ」
首を緩く振る『かみさま』のその双眸を緩めた。
僕にはその瞳に映る感情を把握することなんて到底出来なかった。
けれども『かみさま』が喜んでいるのだけは伝わってきた。
「人の子。あなたの願いを叶えます」
その言葉はきっと、幸せな未来への序章だったのだろう。
『かみさま』は僕のことを優しく名前で呼んでくださる。僕も『かみさま』のことを名前で呼ぶべきか悩んで、悩んで、知恵熱まで出したあとに「名前を教えてください」と土下座したのを覚えている。
『かみさま』は困ってしまったとばかりに頬を掻くと、静かな声でまるで内緒話でもするかのように仰られた。
「……ユリ、と。そう呼んでくださいな」
「ユリ、様?」
「友人に敬称を付けるのですか?」
「……っう、ゆ、ユリ」
そう言われてしまえば、友達になってくれと願った手前、断れなくて。
僕は照れながら『かみさま』の、ユリの名前を呼んだ。
そんな照れるような、なんとも言えない出来事があった日から、幾年月経った時だろうか?
「ユリ。ゆーり。こんなところで眠っていると踏んでしまいますよ?」
「……ふふ。あなたはそんなことをするような子ではないでしょう?」
「……僕は一昨日、成人した身なんですけど」
「私にとっては、出逢った頃と変わらぬように見えますよ?嗚呼、背は幾ばくが伸びましたね」
「怒りますよ?ユリ」
「ふふ、怖いですねぇ」
「ユリは今度、縁側に寝そべっていたら一度くらいな僕に踏まれてもいいと思います」
「それは嫌ですねぇ」
少しばかり考えたユリは、その曼珠沙華のような紅い髪を首を捻らせたことで揺らした。そのせいで白い結紐が解けようとしている。
どれだけ緩く縛っていたのですか?
と、問いたくなった。
ユリは案外ものぐさだ。
其れは長いことひとりで居たせいかも知れない。
けれども!と僕はユリの背後に座り、つげ櫛を手にすると、何も言わずにその髪に触れた。
「おや、結ってくれるのですか?」
「あなたのものぐさ具合があまりに目に余るものだったので」
「ふふ、嬉しいですねぇ」
「会話になっていませんよ、ユリ」
そんな会話をしながら髪を梳く。
その時間のなんと幸せなことか。
こんな時がずっと続けば良いのにと。
僕は願ってしまった。
心の隅で、こっそりとだけれども。
今思えば。この時、その言葉を口にしていたら『ユリ』は居なくならなかったのかも知れない。
**
「何故、ですか?」
その言葉はまさに寝耳に水。
僕はいつの間にか父母の間で交わされた取り付けで、婚姻をすることになったらしい。
しかも水面下で事は進んでいたらしく、僕は知らぬ相手とひと月後には夫婦らしい。
そんな話をユリにしたら、驚かれた。
「あなた、婚姻出来る歳になっていたのですか?」
「ユリ、僕もう成人してから二年も経って居ますよ?」
「おやまあ、人の時間とは無情なものですねぇ……」
「……ユリ」
「なんです?」
「もし、」
もし、もしもの話ですよ。
「ユリをお嫁さんにしたいと、僕が乞うたら、あなたは僕のお嫁さんになってくれますか?」
「……」
ユリは目を見張っていた。
それはもう、あの日見た時の数倍は大きいのではなかろうかと言うほどに。
いや。それは誇張ではあるのだけれども。それくらい、僕にはユリが驚いているように見えたのだ。
「ユリ?」
「白百合の、」
「え?」
「その願いは、──叶えられません」
ユリが何事かを呟いたあとに、瞼を伏せた。睫毛が微かに影を作る。白磁のような肌にその陰影が象られるのがとても美しくて、やはりユリは人ではないのだと、僕は久し振りに実感した。
「ユリ?」
「人の子の願いを叶えられるのは、ひとつのみ」
「え、」
「私とあなたは永遠に『友人』です」
そう微笑んだユリの顔はどこか悲しげで、僕は静かに、ただ、静かにユリの身体を抱き締める。
「ごめん、あなたを追い詰めてしまって、ごめんなさい」
ユリは僕の胸を押し返すかのように華奢な掌を胸元に置く。
力なんて大層なものは入っていないし、僕の身体はそこまでやわではないから、本気で抵抗でもされない限り離すことは出来ないだろう。
今、離してしまえば。
──ユリは、二度と僕の前に現れることはないと思ったから。
「ユリ、ごめんね」
それを最後に、僕はユリの赤い椿のような唇に口付けた。
口内にしょっぱい味がして、其れはどちらのモノだったのだろうか?と、柔らかな口付けの中、僕は考えていた。
そうして口付けが解かれたあと、ユリは悲しそうに眉を顰めて、僕の前から消えた。
「どうしたら良かったんでしょうね」
『友人』としての『ユリ』が好きだったのか、それとも『かみさま』としての彼女が憐れに思えたのか。
再び『かみさま』になったユリのことを今では、もう何も分からない。
「この世界にかみさまは居ますか?」
そんな言葉を誰も居ない庭に向かって紡いだ。
風に流されて消えてしまうような、か細い声だったけれども。
確かに、聞こえてくれたかなぁ?
「ユリ、ねぇ。知ってるよ」
僕、知ってるんだよ?
きみが名乗った名前は、僕の持ってきた『白百合』から持ってきたんでしょう?
名前のない『かみさま』だから、困った彼女が付けた、それだけのこと。
僕はゆっくりとした動作で腕を上げ、あの日ユリに口付けた唇にそっと触れた。
そこはもう僕の熱しか持って居ないけれども、それでも確かにユリの温度を感じたような気がした。
「あいしてる」
この世界にかみさまは居ますか?
この世界に、あなたは居ますか?
けれどその方の傍には誰も居ない。
『かみさま』だからと言って、誰も彼もが傍に近寄ることはなかったのだ。
僕はなんだか其のことが寂しい気持ちになってしまって、気が付けば僕の足はその方がいらっしゃる庭園へと赴いていた。
「か、かみさま!」
「はい?」
「……っ」
ああ、なんて綺麗な声なんだろう。まるで湖面を揺らすような、そんな声。
こんなにも美しい声を持つ方を、僕は人間だとは思えなかった。
「あの!これ!」
きょとりとされた顔をする『かみさま』に勇気を振り絞って差し出したのは、白百合の花。僕の大好きな花だ。
男なのに花が好きだなんて!って、母様には良く言われるけれども、好きなのだから仕方がない。
見た目も心も確かに男ではあるけれど、好きに男も女も関係ないと僕は思う。
ああ、話が逸れてしまった。
「え、ええと……かみさまはお花、お嫌いですか?」
「……はな」
ぱちり、と瞬きをする『かみさま』は、首を緩く振られた。
音が少し離れた僕の耳ですら拾いそうなほどに長い睫毛と、首を振ったことによって揺れた長い髪の色はまるで紅い曼珠沙華のよう。
綺麗だなあ、と、つい見つめてしまえば『かみさま』はジッと僕の手に持った白百合の花を見つめる。
花はお嫌いだったのだろうか?
不安な気持ちでいっぱいで、けれどここで逃げたら男が廃るような気がして。
今にも逃げ出してしまいたい気持ちを抑えて、引きそうになる足を踏み留まらせる。
「すきですよ」
「え、」
「花は、すきですよ」
「そ、そうなんですね!」
なんて気の利かない言葉だろうと思った。
『かみさま』はクスクスと鈴を転がすような声で笑われた。
「何を望みに来ましたか、人の子よ」
「へ?」
「私に望みなく逢いに来たのですか?」
「え、はい……すみません……」
「……いいえ。こちらこそ申し訳ありません。何故、私に逢いに来る者達はこぞって私に願いを乞う者達でしたので」
「……かみさまは、願い事を叶えることが出来るのですか?」
「出来る、と言ったらあなたも願いを乞うのですか?人の子」
その言葉にまるで希望は潰えたような色を見た気がした。
僕はあまり良くない頭で考える。
考えた先に出てきた答えは、ひとつだけ。
「かみさまが願い事を叶えてくださるのであれば、僕はひとつだけ願い事をしたいです」
「……なんでしょう」
色が失せて行く。あんなにも綺麗な緋色だったのに。ザッと風が吹いたあとのススキ野原のように色を失っていく『かみさま』に、僕は努めて微笑みながら言うのだ。
「僕の、友達になってください」
赤スグリのような紅い瞳は大きく見開かれ、縦に割れた金色の瞳孔はまるでお月様のよう。
驚いた、心底驚いた。
そんな顔をされるものだから、僕はおかしなことを口走ってしまったのかとオロオロとする。
「か、かみさま!申し訳ございません!何か僕は不敬を働いてしまったでしょうか!」
「いえ、……いいえ」
首を緩く振る『かみさま』のその双眸を緩めた。
僕にはその瞳に映る感情を把握することなんて到底出来なかった。
けれども『かみさま』が喜んでいるのだけは伝わってきた。
「人の子。あなたの願いを叶えます」
その言葉はきっと、幸せな未来への序章だったのだろう。
『かみさま』は僕のことを優しく名前で呼んでくださる。僕も『かみさま』のことを名前で呼ぶべきか悩んで、悩んで、知恵熱まで出したあとに「名前を教えてください」と土下座したのを覚えている。
『かみさま』は困ってしまったとばかりに頬を掻くと、静かな声でまるで内緒話でもするかのように仰られた。
「……ユリ、と。そう呼んでくださいな」
「ユリ、様?」
「友人に敬称を付けるのですか?」
「……っう、ゆ、ユリ」
そう言われてしまえば、友達になってくれと願った手前、断れなくて。
僕は照れながら『かみさま』の、ユリの名前を呼んだ。
そんな照れるような、なんとも言えない出来事があった日から、幾年月経った時だろうか?
「ユリ。ゆーり。こんなところで眠っていると踏んでしまいますよ?」
「……ふふ。あなたはそんなことをするような子ではないでしょう?」
「……僕は一昨日、成人した身なんですけど」
「私にとっては、出逢った頃と変わらぬように見えますよ?嗚呼、背は幾ばくが伸びましたね」
「怒りますよ?ユリ」
「ふふ、怖いですねぇ」
「ユリは今度、縁側に寝そべっていたら一度くらいな僕に踏まれてもいいと思います」
「それは嫌ですねぇ」
少しばかり考えたユリは、その曼珠沙華のような紅い髪を首を捻らせたことで揺らした。そのせいで白い結紐が解けようとしている。
どれだけ緩く縛っていたのですか?
と、問いたくなった。
ユリは案外ものぐさだ。
其れは長いことひとりで居たせいかも知れない。
けれども!と僕はユリの背後に座り、つげ櫛を手にすると、何も言わずにその髪に触れた。
「おや、結ってくれるのですか?」
「あなたのものぐさ具合があまりに目に余るものだったので」
「ふふ、嬉しいですねぇ」
「会話になっていませんよ、ユリ」
そんな会話をしながら髪を梳く。
その時間のなんと幸せなことか。
こんな時がずっと続けば良いのにと。
僕は願ってしまった。
心の隅で、こっそりとだけれども。
今思えば。この時、その言葉を口にしていたら『ユリ』は居なくならなかったのかも知れない。
**
「何故、ですか?」
その言葉はまさに寝耳に水。
僕はいつの間にか父母の間で交わされた取り付けで、婚姻をすることになったらしい。
しかも水面下で事は進んでいたらしく、僕は知らぬ相手とひと月後には夫婦らしい。
そんな話をユリにしたら、驚かれた。
「あなた、婚姻出来る歳になっていたのですか?」
「ユリ、僕もう成人してから二年も経って居ますよ?」
「おやまあ、人の時間とは無情なものですねぇ……」
「……ユリ」
「なんです?」
「もし、」
もし、もしもの話ですよ。
「ユリをお嫁さんにしたいと、僕が乞うたら、あなたは僕のお嫁さんになってくれますか?」
「……」
ユリは目を見張っていた。
それはもう、あの日見た時の数倍は大きいのではなかろうかと言うほどに。
いや。それは誇張ではあるのだけれども。それくらい、僕にはユリが驚いているように見えたのだ。
「ユリ?」
「白百合の、」
「え?」
「その願いは、──叶えられません」
ユリが何事かを呟いたあとに、瞼を伏せた。睫毛が微かに影を作る。白磁のような肌にその陰影が象られるのがとても美しくて、やはりユリは人ではないのだと、僕は久し振りに実感した。
「ユリ?」
「人の子の願いを叶えられるのは、ひとつのみ」
「え、」
「私とあなたは永遠に『友人』です」
そう微笑んだユリの顔はどこか悲しげで、僕は静かに、ただ、静かにユリの身体を抱き締める。
「ごめん、あなたを追い詰めてしまって、ごめんなさい」
ユリは僕の胸を押し返すかのように華奢な掌を胸元に置く。
力なんて大層なものは入っていないし、僕の身体はそこまでやわではないから、本気で抵抗でもされない限り離すことは出来ないだろう。
今、離してしまえば。
──ユリは、二度と僕の前に現れることはないと思ったから。
「ユリ、ごめんね」
それを最後に、僕はユリの赤い椿のような唇に口付けた。
口内にしょっぱい味がして、其れはどちらのモノだったのだろうか?と、柔らかな口付けの中、僕は考えていた。
そうして口付けが解かれたあと、ユリは悲しそうに眉を顰めて、僕の前から消えた。
「どうしたら良かったんでしょうね」
『友人』としての『ユリ』が好きだったのか、それとも『かみさま』としての彼女が憐れに思えたのか。
再び『かみさま』になったユリのことを今では、もう何も分からない。
「この世界にかみさまは居ますか?」
そんな言葉を誰も居ない庭に向かって紡いだ。
風に流されて消えてしまうような、か細い声だったけれども。
確かに、聞こえてくれたかなぁ?
「ユリ、ねぇ。知ってるよ」
僕、知ってるんだよ?
きみが名乗った名前は、僕の持ってきた『白百合』から持ってきたんでしょう?
名前のない『かみさま』だから、困った彼女が付けた、それだけのこと。
僕はゆっくりとした動作で腕を上げ、あの日ユリに口付けた唇にそっと触れた。
そこはもう僕の熱しか持って居ないけれども、それでも確かにユリの温度を感じたような気がした。
「あいしてる」
この世界にかみさまは居ますか?
この世界に、あなたは居ますか?