SS 141~160

「わたしは思うのよ、この世界に救いはないのだと」

管に繋がれた手で、一枚の楽譜を撫でながらそう言えば彼はつらそうな顔をした。
つらいのは私なのに、どうしてあなたがそんな顔をするのかしら。

「僕が、絶対に治してあげますから……。だから、」

「もうね、遅いと思うんだぁ」

「……なんでそんなこと、」

「あなたも分かっているでしょう?わたしの命の残量がないって」

だってあなたはお医者様だものね。
憐れな小娘の茶番に付き合ってくれた、ただの優しい偽善者さん。
わたしはそんな偽善に救われました。

「ね、最後にわたしにキスしてくれないかなぁ」

「何、を……」

「それとも、好きでもない女には出来ない?」

誰とでも出来る人なのに、変なの。
クスクスと笑ったら、彼は悲しそうに眉を下げた。

「知ってるのよ、わたし」

「……ごめん」

「いいよ。許してあげる」

だってどうせわたしはもうすぐ死んでしまう身だから。
だからどうか、少しだけ。もう少しだけ。この憐れで幸せな時間をわたしにください。
居ない神様に祈ったって、無駄なことは分かりきっているけれども。

「それでもわたしは、あなたが大好きだったわ」

「……僕は、」

「返事は要らない。分かりきっている返事がいるわけがないわ」

「どうしてそう決めつけるんだ!」

「どうして?そんなの、決まっているじゃない」

わたしね、先生。

「嘘が見抜けるのよ」

「は、」

「人の嘘が見抜けるの。目を見れば分かるの」

そう言った先生は信じては居ないだろうに目を逸らす。
わたしはまたクスクスと笑った。

「せんせい、好きよ」

これは呪いだ。
先生にかけた、わたしからの呪いの言葉。
きっとこの恋されることに慣れ切っている先生には効かない、ただの小娘の戯言だけれども。

「僕の言葉くらい、聞いてくれてもいいじゃないか……」

「聞かないわ、先生。……他の患者さんも待っているのでしょう?わたし疲れちゃったから、少し眠るわ」

「……そう、ですか。分かりました。おやすみなさい」

そう言って先生は背を向けた。
わたしは微笑みを浮かべたまま、その背を見送る。
ゴロンとベッドに横になって、痛んでいた胸を抑えた。

「……ごほっ、」

吐き出した紅い華。これが紅葉だったなら良かったのに、今は生憎と冬だわ。
冬も好き。けれどももうあの雪原を踏み締めることは二度とないのでしょうね。

「は、ぁ、はァ……っ」

息が荒い、けれどもナースコールを押す気にはならなかった。
嘘が見えるのは本当。
人の顔色を窺っているうちに分かるようになってしまった。

「せ、んせ……」

霞む世界に、意識は遠くなっていく。

だからね、先生。
あなたの嘘も見抜いていたの。


「すきになってくれて、ありがとう……」


あなたが私のこと、本当に好きになってくれていたの分かっていた。
けれども言わせなかったのは、ままごとのような関係が楽しかったから。
……なんてね。嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるのだったかしら?
それは今までの人生の中で受けた痛みと、どちらが痛いのかしらね。

意識は霞んで、消えていく。わたしという存在が消えて逝く。


しあわせになってね、先生。


それが『わたし』という生き物の最期の思考だった。
開いていた窓から楽譜が舞い上がり、部屋の中で舞い踊る。




男が見たのは、少女が大事にしていた楽譜が献花のように少女を取り囲んでいる姿。
永遠の眠りについたその少女に縋りながら泣く、男はひとり。
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