SS 121~140

「おや、坊ちゃん。おそようございます」


 ニコリともしない世話係の女が常と変わらない感情の浮かばない目をしながら朝の挨拶(とは認識したくないが)をしてきた。


「本日は朝から大事なテストがあらせられた筈ですが、このようなお時間に起きられて間に合うのですか?」


 続けて紡がれたその言葉に頬がひくりと引き攣るのを感じた。


「お前が起こしに来なかったから完璧間に合いませんけど!」


 八つ当たりめいているのは分かっている。だが「ああ、遅刻だなコレ……」と悟りを開けそうなほど静やかな、言ってしまえば諦めの境地を味わいながらの寝起きの最悪さを出来れば考慮して貰いたい。


「何故わたしが坊ちゃんを起こさねばならないのです?」

「本気で意味わかんないみたいな顔すんのやめてくんない?」

「本気で意味がわかりません」


 繰り返された言葉に思わず「お前オレの世話係だよね!?」という声が飛び出す。


「はい勿論。わたしは坊ちゃんのお世話を旦那様より任じられております」

「じゃあ起こそうよ! それもスズの仕事だろ!?」


 批難の声を上げれば「申し訳ございません」と、一切気持ちが込められていない平坦な声で謝罪された。


「確かに坊ちゃんの起床を促すのもわたしの仕事の内ではございますが……坊ちゃんも今年で十三歳。坊ちゃんのこれからを思えば、わたしがわざわざ起床を促さなくとも起きられるようになって頂かねばと、坊ちゃんの寝顔を三十分ほど見つめて考えた末の苦渋の決断なのです」


 ご理解くださいませ、と続けられた言葉に一瞬納得仕掛けたが、いや、待てと噛み砕いて理解した言葉の内容に直ぐ様異議を唱えた。


「オレが寝坊した原因ソレだよな!? 何してんのお前!?」
 オレの寝顔なんて見てて楽しいのかよ。しかも三十分も。と呟く。


 その声色にほんの少しの期待が込められたのは仕方がない。
 この鉄面皮で仕事放棄なんて当たり前の、オレを主人とも何とも思っていない金の亡者に限ってソレはないだろうと頭では分かっている。
 ……わかってはいるが。出会って五年。初めて会った時に見惚れ父に頼みに頼んで側に置けるようになったこの女がついにオレを意識してくれたのかもしれない、と。淡い期待だ。今にも露と消えてしまいそうな程の。
 そしてその淡くも縋りたくなるような期待は、やはりと言うべきか形すら残さず霧散した。


「ご気分を害してしまわれたようで申し訳ありません。あまりにも間抜け面して寝こけていたものですから、つい」

「まぬ……っ!」


 想い人からの通常通りの悪意ある口撃に思わず言葉を詰まらせる。悪意の塊すぎて、逸そオレが嫌いなんじゃないかとさえ思えてくる。
 ……そもそも好かれてる何て欠片すら思ってないけれど。


「なあ、お前実はオレのこと嫌いだろ」


 内心の心情をそのまま語れば、「滅相もございません」と即座に返された。


「ただわたしは「こんな阿呆面晒して寝ているなんて、寝首をかかれても知りませんよ」と思いながら見ていただけです」

「そんな事だろうと思ってたよコンチクショウ!」


 予想はしいた。だから傷なんてこれっぽっちも付いていない。五年の付き合いの中で言えばこんなもの軽いジョブですらないのだ。……決して。決して強がりなんかじゃないったらないンだからなっ!


「つーか何? それ暗殺宣言か何か?」


 暗殺なんて現代日本ではあまり馴染みがないような出来事ではあるが、家の規模や父や祖父が行っている事などを考えれば強ち他人事でもない出来事だ。オレ自身、誘拐未遂くらいなら何度も経験している。


「ご安心ください。そんな面倒くさそうな上、給金の出ないことは致しません」


 間を置かず答えられた言葉に「金の亡者かお前は」と吐き捨てる。


「お金は大切ですよ。何をするにも必要です」

「そりゃそうだけどな」


 それよりもっと大切なモノがあるだろ、なんて言った所で、この金の亡者には一ミリも響かないだろう。
 そうこうしている内に「坊ちゃん」とスズの平坦な声で呼ばれた。


「なんだよ」

「お仕度ができました。学校まで最速でお運びしますので、一先ずわたしの首に掴まって頂けますか?」

「……いつの間に」


 気付いたら慌てて着替えたために乱れていた制服が綺麗に整えられていた。スズは片手にランチボックスを持ちながら「本日の朝食はお時間が無い為卵サンドと野菜ジュースに変えさせて頂きました」と温度の感じられない声音で告げる。
 気付かなかったオレもオレだが、相も変わらずスズの手際の良さには舌を巻く。だがオレが野菜嫌いなことを知っていて尚、野菜ジュースを用意するこの女の性格の悪さはどうにかならないものか。
 恐らく飲みやすさなんて微塵も考えられていないだろう。何故ならオレの嫌そうな顔を見たいから。まあ、これもある種の愛情表現だと思えば耐えられるが、……野菜ジュースはどうしても飲まなければいけないだろうか。


「坊ちゃんがくだらないことを申し上げている間に、でございますよ」
「そりゃ、どーも。つか首に掴まれって、」


 なんだよ。と言葉になる前にスズが口を開いた。


「坊ちゃんに玄関まで向かって頂くよりもわたしがお運びした方が幾分か早いですから」

「それは何か? オレの足が短いとか言いたいのか?」

「そうですね。坊ちゃんの足は平均的な男子中学生のそれよりは僅かに短いかと」

「身長も足もこれから伸びるんだよ! すぐにお前の背なんて抜いてやるからな!」

「それはそれは。楽しみにしております」
「馬鹿にしてるよな!?」

「わたし如きが坊ちゃんを馬鹿になんて致しませんよ。それよりも坊ちゃん。そろそろ向かいませんと本当に間に合わなくなりますが宜しいのですか?」

「いや、だから、……オレも男なんだが」


 首に掴まって運ばれる方法をオレは一つしか知らない。だから暗にそんな恥ずかしい真似が出来るかと拒否していたのだが、スズはキョトンと目を丸くさせるだけだ。


「勿論存じておりますが」


 ああ、それとも実は坊ちゃんでなくお嬢様であったというオチですか? と訊いてきたスズに「んな訳あるか!」と返す。


「そうじゃなくてなっ」


 十三歳にもなって、クラスの女子が「お姫様抱っこって憧れるよね~」なんて頬を赤らめながら言っていた格好で、仮にも想い人に運ばれるオレの気持ちにもなってくれと、想いを伝えてもいないのに身勝手にも思う。
 ――だが勿論、口にしていない事を金にしか関心を持たない女に伝わる訳もなく。意味が分からないと暫くパチパチと瞬きをしていたスズは、ああ、と声を上げる。


「ひょろひょ、大変痩躯であらせられる坊ちゃんを抱えて走るくらい訳ありませんから体重を気にしていらっしゃるようならお気になさらないでください」

「おい。殆ど本音出てんぞ。つーかそんな女子みたいなことを誰が気にするか!」

 合点がいったとばかりに斜め上の方向の解釈をしたスズに思わず突っ込む。
 大体ひょろくねぇよ。ちょっと肉付きが悪いだけだ。


「まあまあ坊ちゃん。ではしっかり掴まっていてくださいね」

「おい。誤魔化すな」

「大丈夫です。落として怪我なんてさせません。わたしの給金に響きますから」

「だから! 最後の一言がなければオレはお前を見直したのに……!」

「見直されたいと思っておりませんのでそんな気遣いは無用です」

 感情の見えない声を発したスズ。それでも何処か呆れたように感じるのは、そこそこ長い付き合いが為せる技なのか。それともただのオレの錯覚なのか。……後者の方が当たっていそうだとか気付いたら負けだ。
 恥ずかしさやら居た堪れなさやらで頭を抱えているオレを、金勘定をしている時以外にはピクリとも動かさない顔で待つスズ。
 けれどそれもほんの数秒で、


「では行きましょうか」


 やはり感情の読み取れない平坦な声で、オレの身体をひょい、と、まるで小物か何かでも持ったかのような気軽さで抱えたスズは、宣言通り玄関までオレをお姫様抱っこで抱えて歩き、車に乗せれば制限速度? 何それ美味しいの? と言わんばかりに、本当に最速で学校まで送り届けた。
 正直お姫様抱っことか遅刻とかがどうでも良くなるくらいには、うん。死ぬかと思った。









(つーか本当に軽々と運びやがって! スズよりデカくなって絶対見返してやる……!)

(少食の坊ちゃんが詰め込むように食事を摂ってるなんて……、これで好き嫌いも無くして頂いたらわたしの給金が増えるんですがねぇ)
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