短編置き場(ほの庭)

柔らかな風が吹き抜ける春の頃。
キスケの誕生日が近いね、と話していたような、そんなある日。
穏やかな顔をしたキスケが不意に言った。

「てめぇは後悔してねぇのか」
「何を?」

何を後悔するというのだろうか。何がキスケの中で引っ掛かっているのだろうか。
付き合いはそれなりに長く、今年で五十年を迎えた。
キスケの肌には皺が刻まれている。それだけの年月、この村で暮らした。
あの日から変わろうとしているこの村の中でも、キスケの芯は変わらなかった。
相変わらず口は悪いし、相変わらず酒が好き。冬でも夏でも酒瓶片手に危険がなくなった夜の空の下、寝ている日もある。
そんなキスケに聞かれた後悔。キスケは一体、何に対してアメが後悔していると感じたのだろうか。

「俺はもう、そこまで長くねぇ」
「……うん」

それは分かる。分かっている。
自身が神としての魂を持っている故なのだろう。キスケからは死が近づいている者特有の匂いがする。
嫌だと思ったけど、人間は生まれたら必ず死に向かって歩いていく。それが自然の摂理で、その摂理を壊してはならない。
どの口が言うのだろうか、という話ではあるのだが。願われなければ動けない。それもまた神としての厄介なところである。
もしかしてキスケは願ってくれるのだろうか。アメとこれからずっと生きてくれると。その対価は相応のものになってしまうけれども。その身体を捨てて、アメと生きてくれるのだろうか?
一瞬の淡い期待、それはすぐさま打ち破られることになる。

「死ぬ前に話しておかないとと思ったんだ。俺はてめぇを残して逝く身だしな」
「……キスケ?」

ああ、一緒には生きてくれないのか。少しだけ残念で、けれどもキスケが神の道に入らなくて良かったとどこか安心している自分もいる。
結局のところ、アメは人間のキスケが好きなのだ。……だからといって、好きな人の死をそう簡単に受け入れられることではないけれども。

「キスケ、本当はアメに何を言いたいの?」
「……いや、」
「キスケ。お願い、言って」

たぶん、これが最後。キスケとお喋り出来る、最後の日。
キスケもそれを察したのだろう。ハッと目を見張ってから覚悟を決めたように頷くと、柔らかな声で「アメ」と腕を広げながら呼ばれた。

「なあ、久しぶりに一緒に寝ねぇか」
「それはお願い?」
「ああ、お願いだ」
「……わかった」

お願いは契約ではないから強制力はない。けれどもキスケの為ならなんだって叶えたくなる。人間に恋焦がれなければこんな感情知ることはなかっただろう。
キスケが待っている布団の中に潜り込む。そうしたらいつもみたいに抱き込まれた。すっぽりと湯たんぽみたいにされるのは不服だが、キスケの腕の中に居ると胸がポカポカする。
これが嬉しいという感情なのだと、キスケに教わった。色々なことをキスケに、村の人たちに教わった。
優しい感情も、嫌な思いも。たくさんたくさん教わった。

「なあ、アメ」

ゆったりとしたキスケの口調。お酒も飲んでいないのに変なの。

「俺と、生きてくれてありがとう」
「……キスケ?」

甘い甘い匂いが辺りに満ちる。ああ、逝ってしまう。キスケが逝ってしまう。

「キスケ……」

なんと言えばいいのだろう。こういう時、何を言えばいいのだろう。
微睡みの中に居るキスケに、なんと声をかけたらいいのだろう。
考えに考えて、焦って仕方がない気持ちのままに、その言葉を思いついた。

「いってらっしゃい、キスケ」

アメね、キスケに会えてとっても幸せだったよ。だからこちらこそありがとう。
また巡ってきて。何度も何度でも巡って、またアメのところに帰ってきてね?
その日まで――

「おやすみなさい」

穏やかな顔で眠るキスケは今、どんな夢を見ているのかな?
幸せな夢がいい。たくさんたくさん幸せな夢を見て、どうかまたアメのところに帰ってきたら教えてね。
ずっと、ずーっと、――待ってるよ。
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