夢術廻戦

 花彼此家の当主はいつも大輪の花が咲くように笑っていた。
 けれども、時折一瞬だけ深い悲しみをその新緑の瞳に映すのだ。
 誰も知らないその感情を、誰もが見ないフリをしている其れを。
 当主もまた暴かれることを望まないのだろう。

 ――その吐息が止まる、その瞬間まで。

 わたしはただの傍仕えで、当主のことなど何も知らない。
 当主の傍仕えは幼い子供が務める。
 故に定期的に変わるので、深くを知ることはないのだ。
 なんでも、旦那様が酷く嫉妬深い御方なのだとか。
 わたしは旦那様にお会いした時にはそのような感想は抱かなかったが。

 花彼此の家には御子が居ない。だから、旦那様も色々言われているのだと同じく花彼此に仕える者に聞いた覚えがある。
 その者はその話をした数日後、不慮の事故で亡くなったが。
 当主に近づく者を制限したところで、何も変わらないとは思うのだけれども。
 わたしのような下賤の者には分からない世界がそこにはあるのだろうなぁ、と思うことしか出来なかった。

 ある日、花彼此家の門の前に人が立っていた。

 雪のようなさらりとした髪に、明るめの紫の瞳が印象的な男性で、その男性はぺこりと頭を下げるとまるで入ってもいいか? とでも言うかのような瞳をわたしに向ける。

「あ、あの……どちら様ですか?」
「……しゃけ」
「しゃ、しゃけ⁉」

 この人はふざけてそんな言葉を発しているのだろうか?
 むむ、とわたしは眉を顰めたが、目の前の男性はとてもじゃないけれどもふざけた様子はなかった。
 まるでその言葉しか喋れない人みたいな……あれ? そんな御方が確か術師に居たとかなんとか聞いたことがあるような?
 わたしは記憶を引っ張り出すように首を捻る。
 確か、そう。アレは確か当主が仰ったのだ。

『あなた、高専に興味があるの?』
『ひゃ、ひゃい⁉ あ、当主様! ……あの、ええと……』
『あはは、大丈夫。今は私しか居ないから』

 軽やかに笑われた当主はそれで? 興味あるの? と再度問う。

『わ、わたしは花彼此家に骨を埋める覚悟で生きていますので!』
『そういう、建前とかいいよ。あるんでしょ? 興味』

 うっ、とわたしは息が詰まる思いをしながら頭を一度縦に振りました。
 花彼此家は何故か高専を毛嫌いしている節があるけれども、当主はそうではないのだろうか? 周囲の人たちは高専の悪口しか言わないからまさか当主からそんな言葉を貰うとは思わなかった。

『私もね、通ってたのよ。高専』
『え⁉ ほ、本当ですか⁉』
『うん。本当』

 当主が通うくらいの場所なのに、どうして毛嫌いされているのだろうか?
 その思いが伝わったのだろうか? わたしの心の中を見抜いたのだろか?
 どちらにせよ、当主は大輪の薔薇のように笑みながら言う。

『好きなところに行けるうちに、行けばいいんだよ』
『で、でも! そんなことしたらお家が……!』
『ああ、あなた家のことを心配して行きたいと言えなかったの?』
『……はい』
『なら、大丈夫よ』

 当主はそう仰ったあと、すぐにわたしがその年頃になったら高専に行けるようにと入学手続きを進めてくれた。
 あまりにすんなりと進むものだから、一体どんな手を使ったのだろうかと聞いても、にっかりと笑う当主は答えてはくれなかった。
 そう、それで確かその話の続きのように。
 余談のように話してくださったのだ。

『同級生にね、呪言師が居たんだぁ。おにぎりの具しか喋れないんだけどね』

 そう話された時の当主の顔が、瞳が、不意に見る切なそうな表情と重なって。
 ああ、そうかこの人が。この男性が。

「申し訳ありません。あの、当主に御用でしたら、当主は一週間前に逝去致しまして……」
「しゃけ」

 まるで知っている、とばかりにそう言う男性。おにぎりの具で喋る、呪言師。
 きっと彼が狗巻家の当主であり、当主がずっと会いたがっていた――狗巻棘様だ。

「その、弔問はすべてお断りしておりまして……」
「おかか」
「え、ええと……」

 しゃけ、以外の言葉を初めて聞いた。
 いやそもそもおにぎりの具で話す人に初めて会っているわけだが。

「それは、一体……」

 どういう意味で? 問おうとして、狗巻様はスッと門の方を見てふと柔らかく微笑む。
 あ、この顔似てる。当主がたまに見せる本当に信頼してる人にしか見せない時の顔と。

「……やっと、」
「え?」

 狗巻様は不意に何かを喋られた。呪言師は言葉を紡げないのではなかったのか? ま、まさかわたし何かしてしまったとか⁉

「ごめんなさ……っ」

 反射的に謝るけれども、狗巻様は聞いていないとばかりに門だけを一心に見つめて、そうしてまた男性にしては綺麗な唇を開く。

「やっと、言える」

 その表情が、言葉が、あまりに感情が籠っていて、わたしは何故だか泣き出したくなってしまった。

「――舞宵」

 当主の名だ。誰も、旦那様だって呼ばなくなって久しい、禁句の名。――当主の真名。
 其れをまるで今までずっと呼び続けてきた恋人にでも話し掛けるかのように甘い声音で、でも何処か切なく狗巻様は呼ぶのだ。
 名を呼ぶということは、その人を縛るということだ。
 でも、縛りたくとも縛れない。当主はもう荼毘に付されてしまったから。この世にはもう魂がないから。
 まるで其れを狙っていたかのような狗巻様に、わたしは一体どうしたらいいのかと狼狽える。
 そんなわたしなんか気にしない狗巻様は空に向かって口を開けた。

「あいしてる」

 叫ぶわけでも、吠えるわけでもない。
 でも、それはスッと心に染み渡っていく。
 聞くだけで、その言葉をずっと伝えたかったのだと分かるのだ。
 たった一言。その言葉だけを抱えて生きていたのだろうと。
 狗巻様は満足そうに笑って、そうして不意にこちらを見やるとぺこりとまた一礼して去って行かれた。
 ああ、きっとお二人は心を通わされていたのだろう。離れていても、お互いを感じられなくとも。ただ二人の想い出だけを胸に抱えて生きてこられたのだろう。
 それはなんて……、

(なんて、呪いみたいな恋なのだろう)

 忘れてしまえれば、互いは互いの幸せがあっただろうに。
 それでも二人は楽な道を選ばなかった。
 修羅のような茨の道を選択したのだ。
 互いだけのことだけではない、すべてのことを考えて。
 其れはまだ幼いわたしには分からない感情だけれども。
 いつかわたしも、そんな相手に出会えるのだろうか?

 狗巻様が見ていたように、空を見上げる。
 そこには大輪の薔薇のような笑顔を浮かべる当主が見えたような気がして、そっとその笑顔を閉じ込めるように瞼を閉じた。




(ね、棘くん)
(ツナマヨ?)
(私、もう棘くんの傍には居られないんだけどさ)
(……おかか)
(あはは、そう言ってくれるだけで私は幸せなんだけど。でも、)

 どうか、一個だけ「お願い」してもいいかな?

(私が死んだら、どうか。……どうか、私に伝えて? あなたの本当の気持ちを)
(……しゃけ)
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