夢術廻戦

 忘れられる側と忘れる側。
 果たしてそれはどちらがつらいのだろうか?
 そんな考えに答えなんてないとわかっていても、私は――

「狗巻くん、おはよう」
「……しゃけ」

 たまたま廊下で会ったから、だから挨拶をしただけ。狗巻くんも普通に返してくれた。
 ただそれだけの事実が、ただそれだけのことが、何よりも嬉しい。
 突然だが、私は狗巻くん――否、まだその時は棘くんと呼んでいた時だ。
 その棘くんに、私は忘れられている。
 言葉の通り、共に過ごした時間のすべてを。
 とはいえ、私と棘くんは元々高専で出会ったのだから、過ごした時間的にはあまり多いとは言えないのだが。
 東京校では二人しかいない三年のうち、もうひとりのことは覚えているのに忘れられたことの気持ちのダメージは大きかった。
 まあ、とはいえ責める気持ちはなかった。微塵もないと言えば嘘になるけれども。

「どうしたの? 狗巻くん」

 挨拶を交わして、いつもなら真希ちゃんとパンダくんに着いてさっさと今日の授業に向かってしまうというのに、何故だか今日に限って棘くんはじーっと私の顔を見ている。
 なんだなんだどうしたんだ?
 まさか記憶が⁉ なんて淡い期待は一切ないが。そんな夢みたいなものはこの世にはありませんからね。
 変なところでリアリストだよね、きみ。なんて同級生の声が聞こえてきた気がしたが無視だ無視。

「狗巻、くん?」
「こんぶ」

 ゆっくり棘くんの腕が持ち上がる。私にはそれがスローモーションのように見えた。
 棘くんの腕は私の肩あたりまで延び、そうしてぴたりと止まる。
 きょとんとしながら彼の顔を見れば、棘くんはどこか悲しそうな顔でもう一度「……こんぶ」と呟いた。
 何か後ろに在るのだろうか?
 ふい、と背後を向こうとすれば、棘くんの腕が今度は明確な意思を持って私の腕を掴んだ。

「狗巻くん? えっと、どうしたのかな?」
「……ツナマヨ」
「え? ええと……それは困るなぁ」
「……明太子?」
「あ、」

 ついうっかり棘くんと『会話』をしてしまった。
 私は彼の言っていることが分からない設定で過ごしてきていたのに。
 ああ、これでは「あなたの言っている意味が分かります」と言っているようなものだ。いや、実際言ったのだが。
 棘くんはただ私に「行くな」と言っただけなのに。私はそれを困ると言ってしまった。「わかるの?」なんて言われて声を発してしまえば、そんなもの認め切っているようなものではないか。

「狗巻、くん……あの、腕、離して、くれないかなぁ?」
「おかか」
「ええ、そう言われても」

 嫌だと言われて返してしまえば、また自己嫌悪に襲われる。
 ああ、また会話をしてしまった。今までの苦労はなんだったのか。
 忘れられてからずっと、ずっと、逃げ回っていたツケが出たというやつかな? 困ったなぁ。
 うぅん、と唸っていれば天から蜘蛛の糸よろしく助けが来た。

「どーしたの? 困りごと?」
「……櫛木」
「櫛木くんだよー、見てわからないの? さっすが!」
「何がさっすがなの⁉」

 というか見て分かって欲しいのはこちらの方だ。
 明らか困っているだろうに。この櫛木という同級生の野郎は本当に意地が悪いのだ。

「まあ、廊下で破廉恥なことにでも及ばれようとしていたのかい? 青春だねぇ」
「棘くんがそんなことするわけないでしょ⁉」
「……おかか?」
「あ、」

 またしてもやらかした。棘くんなんて忘れたあとの彼の前で呼んだことないのに。

「ええ、と……これには事情がありまして……」

 ジトっと棘くんは見てくる。私の背中は冷や汗でびっしょりだ。
 こんなこと一級呪物と出会ってもそうはないだろう。

「そういえば、狗巻。悟が呼んでたよー」
「……」
「おいおい、そんなに睨むな。先輩だぞ? それに本当のことだしね?」

 棘くんは少し逡巡したあとに私の腕を離す。
 私はそこでようやく自分が息を止めていたのが分かった。
 どくどくと身体が酸素を求めて心臓が脈打つ。
 櫛木は棘くんに腕を振っていた。もう棘くんはこちらを振り返らない。私なんか眼中にないとばかりに。それが少しだけ……

「寂しいんだ?」
「……アンタ。何がしたいのよ」
「僕は静観してるだけだよー。何もしない。ただ、きみが勝手に色々ボロを出していく様を見ているのは楽しかったけれどもね?」
「はぁ……こんなのが続いたら寿命が縮むわ」

 息を吐き出して、そうして校舎の窓から空を眺めた。そこは雲ひとつない青空、ではなく、曇天とさえ言えるだろう。

(あの日もそういえば、泣き出しそうな空だったなぁ)

 棘くんが私を忘れた日。
 私が棘くんに関わるのをやめた日。
 あの日、あの言葉を言わざるを得なかった日。

『あなたなんて嫌い! 大嫌い! もう二度と私に関わらないで!』

 出来るだけ感情的に、髪を振り乱し、彼が伸ばす手を跳ね除けながら、嫌い! と叫んだ。
 いくらあの場面で必要だったとはいえ、本当に彼には要らない傷を負わせてしまった。
 優しいから、だから呪を紡ぐ言の葉を紡がないように必死になっている彼に対して、「嫌い」だなんて言葉本当は吐きたくなかった。
 でも、あの日は――

***

「このままだと、棘は間違いなく死ぬよ」
「な、んで? だって、昨日までは……元気で、」

 五条悟は食えないやつだが要らない言葉は吐かない。
 そのせいで、目の前の光景が本物だと告げてくる。
 真白いベッドに横たわる、ベッドよりも白いのではないのかと思うほどの棘くんの姿。
 蒼褪めた顔色に、思わず泣き出したくなった。
 聞けば、棘くんは呪物の瘴気にやられたのだそうだ。
 そのせいで生命を削りながら宝石のような欠片を吐いている。

「ど、どうしたら……いいの?」

 悟を縋るように見る。悟は「どうもできないよ」と冷たく告げた。

「なっ、このまま見捨てろっていうの⁉ 仲間なのに!」
「驚いた。きみに仲間意識があったんだね」
「あったりまえでしょ⁉」
「なら、命を救う為なら、――なんでも耐えられる?」
「なんだってやるわよ! 棘くんの為なら、なんだって!」

 私の命だってくれてやる! そんな勢いでいえば、悟は「若いねぇ」と呟いて言う。

「棘にはお前のことを忘れてもらう」
「……っ、」
「それだけで棘の命は助かる、と言ったら?」
「……は!」

 零れ落ちた言葉は、すぐに不敵な笑みに変えた。

「そんなことでいいなら、幾らだって忘れられてもいいわよ」

 棘くんが生きていてくれる。その未来があるのならば、その方法があるのならば。

「私は、棘くんに何度忘れられても構わない」
「強いねぇ。……その強さが、どこまで続くか見物だね」
「あら? 私我慢比べなら負けたことないの」

 そうして目が覚めた棘くんに対してできるだけ嫌われるように、関わらせないように『嫌い!』と叫んだ。
 目覚めたばかりで混乱している彼にあんな言葉を吐きたくはなかったが、仕方がなかったのだ。
 私のことを思い出せば、また命に係わるのではないのかと、そう思ったらもう、怖くてたまらなかったのだから。

 ――これが事の顛末。

 棘くんの命を救う為のトリガーが何故私の記憶を失うことかはわからなかったけれども。
 それでも、なんだって良かったの。
 あなたが生きて、笑っていてくれるなら。それだけでいいの。


***


「で? 結局、狗巻はきみのことを忘れて、きみは犬巻から逃げ回っていたのにおめおめと捕まったとドジでのろで貧乳だと」
「ねえ、一個いい? その中に貧乳関係あった?」
「僕はこれでも憂いているんだよ?」
「おい、貧乳は関係ないだろ」
「――狗巻がまた、きみに接触してきたら。きみはどうするの?」
「……そんなの、どうするって言われても」

 どうする? 感情論としてはそんな幸せハッピーなことはない。
 けれども現実問題としては、もしまた私がトリガーとなって万が一にでも棘くんが死にかけるのかと、いや、死んでしまうのかと思うと気が気ではない。

「変わらないわよ」

 逃げ回るのは、変わらないの。
 ぼそりと呟いた言葉の中に少しだけ悲しみが籠っていても、それでも。

 ――あなたが生きていてくれるのであれば。

(私は、それだけでいい)

 自己満足と言われても、それでも。

「あ、狗巻」
「えっ⁉」
「ホント、狗巻馬鹿だなぁ」
「謀ったわね⁉」
「あはは」
「あはは、じゃないわよ!」
「ところで、もう髪は伸ばさないの?」
「は? 今日は一体なんなのよ」
「僕は結構、好みだったけどね」
「アンタの好みはどうでもいいわよ」
「じゃあ――狗巻の趣味だったわけ?」

 きゅっと口を噤む。こんなの正解だと言っているようなものなのに。
 腰まで長かった黒髪をバッサリと切ったのは、棘くんの命が助かったその日。
 棘くんが何も覚えていないと分かる前に行った行為だったけれども、それでもどこかで区切りはつけたかった。

「知ってる? 失恋したら髪を切ると新しい恋に巡り合えるのよ」
「へー、知らなかった。それで、巡り合えたの?」
「そんなの、決まってるじゃない」

 そんなの決まっている。見つからないに決まっている。
 でも、仕方ないじゃない。彼と結ばれる世界線がないのだから。
 あの曇天の日にすべて消し去ってしまったのだから。
 ニィッと口端を吊り上げて、今にも泣き出しそうな涙を必死に押し留める。
 崩れそうなそれはあまりに脆くて、でも私には虚勢を張ることしかできなかった。

「ねえ、櫛木」
「なぁに?」
「忘れる側と忘れられる側、きっとどちらもつらいのでしょうね」
「……そうかもね。僕はどちらも経験がないからわからないけれども」
「嫌になるわね、本当に」

 それでもまだ、棘くんが好きなのだから嫌になる。

「――忘れさせてあげようか?」
「……は? 冗談、」

 やめてよ、そう言おうとしたら櫛木が私の腕をそっと掴む。いつもの飄々とした櫛木ではない。
 櫛木は何も言わずに顔をゆっくりと近付けてくる。
 このまま放っておくとキスでもされるのかな? え? 櫛木に?
 そんなの百回死んでも嫌だが⁉ と思って抵抗しようとしたけれども、ああ、でもと思い直す。
 忘れられるなら、いいかも知れない。
 一時でもこのつらい感情から逃れられるなら、それでも別に――

「おかか!」

 櫛木と私の間に割って入ったのは、紛れもなく今忘れてしまいたくなった棘くんで。
 棘くんは背後から私の口を手のひらで塞いで今から行われそうだった行為を阻止した。
 どうして? どうして棘くんが私を助けてくれるの? いや、別に襲われていたわけではないけれども。ん? 襲われていたのか? どうして?
 混乱が混乱を呼び、頭の中で同じ言葉がぐるぐると回る。
 口を塞がれているので何も言えないけれども、櫛木は何かを考える素振りを見せるとフッと笑って降参のポーズを取る。

「おやおや、青春だねぇ」
「しゃけ」

 面白いものでも見つけたような顔で櫛木は笑い、そうして「まあ、頑張ってねぇ」と言うとさっきまでの空気はなんだったのかと問いたくなるくらい軽快にひらひらと手のひらを振りその場をあとにする。
 そうするとこの場に残ったのは私と棘くんということになるのだが。
 口を未だに手のひらで塞がれているので動けない。というか顔すら見えない。でも、心臓の鼓動が分かるくらいすぐ傍にいる。

 ――棘くんが、いる。

「明太子……」

 ごめんと棘くんは言った。
 どうして謝るの? と思ったけれども、もういいの、とでも言うように私は棘くんの胸板に身体を預けた。
 思っていたよりも厚い胸板が彼がきちんと鍛錬をして鍛えている人だと分かる。
 そんなところも好きなのだ。彼の何もかもが好きなのだ。まあ、ちょっと無理しすぎるところは玉に瑕だけれども。
 無茶をしなければ、それでいい。命を落とさなければもう、なんでもいいのだ。

「ツナマヨ」

 スッと棘くんが口に宛がっていた手のひらを外した。
 どうしたのだろう? と顔を上げれば、唇に柔らかい感触が当たった。
 それはとても短い時間だったけれども、私にとったらあまりに長い時間で。
 一体全体どうしてこうなった⁉ と叫び出したいのにもう一度降ってきたキスに何も言えなくなった。

「……っ」
「しゃ、しゃけ⁉」

 棘くんの気遣う声が聞こえるが、キャパオーバーで気を失った私には何も答えることはできなかった。
 しかしどうして棘くんは突然キスなんてしてきたのだろうか?
 でも今のが夢だとか言われたら私全力で泣く自信があるわ。


***


「棘、どうかした?」
「おかか?」
「ん? 僕は別に呼んでないけど?」
「……明太子!」
「え? ああ、櫛木たちだね。何々、何して……え? ちょっとアレは嫌がってる? のかな」

 彼女を誰かに盗られるのは嫌なのだ。どうしたって嫌なのだ。
 それだけは何故かずっと心にあった感情。
 つい目が追うのだから、否が応でも意識するだろう。
 彼女は自分をなぜか避けていたけれども、それでも。

「棘? 行かないの?」
「しゃけ!」

 行く! と叫んで走り出す。足には自信があるのだ。彼女に以前褒めてもらったから、だから……。

「……?」

 自分はもしかしたら何か、とてつもなく大事な何かを、忘れているのではないのだろうか?
 そう思った瞬間、ドクン、と心臓が跳ね上がった。
 ドクドクと心臓に血液が回るように、全身に血液が行き渡るように、呪力が湧き巡る。
 そうして思い出したのだ。彼女のことを忘れていたその原因を。

『棘くんなんて、嫌い! 大嫌い!』

 そう言った彼女の方が泣き出してしまいだったのを、自分は覚えている。
 ああ、そうだ。そうだった。
 自分は、彼女が大事で。その感情を喰われそうになったから、呪力を吐き出してでもそれだけは守りたくて。
 結果的に彼女を傷つけることに変わりはなかったけれども、これではっきりとした。
 自分は彼女と、ずっと名前のある関係になりたかった。
 ずっと、ただそれだけの青臭い感情だったのだ。

 何も言わずにキスしたことは謝るから、どうか自分を嫌いにならないで欲しい。
 ちゃんと伝えるから、自分が抱えていた思いすべてを。



(だからどうか目を覚ましたら聞いてください。忘れていた分も含めた、この想いのすべてを)
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