夢術廻戦

 幼い頃、狗巻家の呪言師に出逢った。
 その日は雲ひとつない青天だったのを今でも良く覚えている。
 狗巻家は呪術師の世界では珍しく、呪術師を絶たそうとしている家で、そんな狗巻家に彼は生まれた。
 ふわりと揺れる髪の色は銀色のようにも雪原のようにも見え、こちらを不思議そうに見やる瞳の色はアメジストよりは薄い紫色。
 綺麗な男の子だなぁ。
 それが最初に抱いた彼――狗巻棘への印象であり感想でもあった。
 その後、父と狗巻家の人間の間でどのような話が行われたかはこの時は分からなかったけれども、時折私は父と共に彼の元へ訪れることになった。

「棘くん! あーそぼ!」
「……おかか」
「えー……、そんなぁ」
「……こんぶ」
「……本当に? やったぁ!」

 五歳の時から通っている狗巻家。十歳になった今でも、それは続いている。
 棘くんは、広い家の一室でいつもひとりで勉強をしていた。あまり家の誰かが近寄ることはないみたい。
 どうやら私と出逢う少し前にうっかり呪言を放ってしまったらしい。
 優しい棘くんはそれに心を痛めたのか、それとも家の人間が意図的に教えたのか、棘くんの言語は基本的におにぎりの具だ。
 極稀に普通に喋る時もあるけれども、それは余程の時だけで、会話の為に使われることは滅多にない。
 誰も傷付けない言葉を扱う彼のことがなんとなく知りたくて、そうして少しずつ私は棘くんと距離を詰めていった。
 結果として私は棘くんの言いたいことを狗巻家の誰よりも分かるようになっていた。これには棘くんも静かに驚いていたけれども。
 きっと棘くんと出逢ったのは偶然の出逢いでもなんでもない。運命に近しい何かだと思っている。

 棘くんとの友人関係はその後も続き、そうして今現在。都立呪術専門学校に私達は揃って入学した。
 同級生は他に二人。
 呪術を扱う者なら大抵は聞いたことがあるであろう、御三家である禪院家に生まれた女の子と、パンダくんである。
パンダくんのことを説明しなくてはならない時、毎回頭の上にクエスチョンマークを浮かべられるのだが、パンダくんはパンダくんなのでそれ以上でもそれ以下でもない。
 禪院家の女の子、真希ちゃんは自分のことを名字で呼ばれるのがあまり好きではないらしく、初対面の時に名字で呼んだら凄く怒られたので、早々に「真希ちゃん」と呼ぶようになったのは良い思い出だ。今ではなんでも話せる女の子友達である。
 今まで女の子の友達が居なかったから、とても新鮮だし嬉しくもある。

「真希ちゃんはさぁ、好きな人居るの?」
「は?」

 授業も終わり、なんとなしに真希ちゃんの自室に入り、真希ちゃんの部屋に置かれているクッションを抱きながら口を開いた。私のこういった挙動はいつものことなので真希ちゃんは何も言わなかったが。
 けれども不意に私が発した言葉に真希ちゃんは心底意味が分かりませんと言った顔で見てきた。
 そんな目で見られるのは心外だけど、でもそんな真希ちゃんのことも私は好きなので気にしない。恐らく真希ちゃん的にはそこは気にされたいところなのだろうけれども。

「私はねー」
「どうせ棘だろ?」
「え、なんで分かったの? 真希ちゃんエスパー?」
「……本気で言ってんのか?」

 私の言葉に真希ちゃんは呆れ顔をしていた。
 そんなに周囲に棘くんのことが好きなことがバレてるのかぁ、それは何というか。

「困ったなぁ……」
「何が?」
「いやね? 私こう見えて、婚約者居るからさー」
「……は?」
「困ったなぁ。きっと当主にもバレてるんだろうなぁ……」

 軽い調子で喋るからあまり困っている風には見えないと評判な私だけれども、今は本当に困っている。
 当主たる父のことを父様と呼ばなくなってから久しいくらい会ってない、というか当主と会う機会は年に一度の新年会くらいではあるが。そんな人間の耳にもこのことが入っていれば、それは結構不味い状況になってしまう。

「相手にバレたなんて知られた暁には……折檻されるくらいで済めばいいけどなぁ」
「……棘は、そのこと知ってるんだよな?」
「棘くんと何年お友達してると思ってるのさぁ。私が棘くんに告げてないことはないくらいだもの」

 それに、と続けて言う。

「私の婚約者、今は狗巻家に籍を置いてる人間だから棘くんとは関りがあるんじゃないかなぁ?」
「なっ、んで、そんな普通みたいに言うんだお前は……っ⁉」
「え、なんでって……」

 私にとっては普通のことだったし、もう何年も前から決まっていたことでもある。
 それをイチイチ騒げるほど、私の環境もそんなに恵まれてはいないのだ。

「そんな大事なこと、あたし達にも黙ってたのかよ」
「……これって、言うべきことだったの?」
「そ、れは……」

 真希ちゃんの言いたいことが良く分からなくて、私はきょとりと首を傾げながら訊く。真希ちゃんは言い難そうに顔を顰めながら、それでも言葉を発した。

「確かに、あたし達には関係ないかも知れない。でも、知っていたかった」

 ――大事な奴のことは、知っておきたかった。……それがあたしのエゴだとしてもだ。

 そういう真希ちゃんは辛そうに顔を歪めていて、一方私はそういうものなのかぁ、という感想を抱くだけで。
 きっと価値観の差なのだろう。真希ちゃんは口調は荒いがとても優しい。だから、こんな私のことも知ろうと心を砕いてくれるのだろう。
 言えば良かったのか、言わない方が良かったのか、そういう判断が私にはつかない。
 今まで同年代の女友達は居なかったから、というのがひとつの大きな要因かも知れないけれども、私は呪術高専に入るまで友達らしい友達は棘くんしか居なかった。

 棘くんのことを人間として好きだったうちはまだ良かったのかも知れない。
 けれども私は男性として好きになってしまった。
 それはいけないことだと分かっていたのに。好きになってしまった。
 それでも、なんでも話せる友達というものを失いたくなかった。
 男性として見ている時点で棘くんの友達失格だったというのに。

 でも、これらすべてのことが合わさったとして、私の生活が劇的に変わるわけではないのだ。
 棘くんとの出逢いは運命だと思ったし、今でも運命だと思っている。

 ――けれどもそれ以外は必然だった。

 偶然でもなんでもなく。私の人生は敷かれたレールの上を走るトロッコ列車みたいなものなのだ。

「今更どうこう言うことはないかなぁって」
「なら、棘の気持ちはどうなるんだよ」
「……真希ちゃんって恋愛方面興味なさそうなのに、ちゃんと見てくれてたんだね」
「茶化すな」
「あはは、ごめんごめん。でも、良かった」
「? 何が、」
「真希ちゃんやパンダくんが居てくれるなら、私が居なくなったあとも棘くんは大丈夫そうだね」
「居なくなるってなんだよ」
「卒業したら結婚するからさ。そうしたらもう、棘くんの傍にもみんなの傍にも居られなくなっちゃう」

 私は結婚したら相手との間に子供を生む為の道具になることが決まっている。

「それが時代に沿わなくても、あの家は私を逃がしたりしないから」

 決して温情を掛けるなんて生易しいことはしてくれない。
 ――なら、従うしかないでしょう?

「……お前はそれでいいのかよ」
「いいよ。……なんて、言えたら良かったのにね?」

 どうしたって私はこの呪われた運命から逃れられはしない。逃げたくても逃げられない。

「……ごめんね。真希ちゃん」
「何が、」

 私は狡くて、酷い女だから。だから真希ちゃんに呪いを掛ける。

「私ねぇ、棘くんのことが好きなんだよ」
「……」
「好き、なんだよ」
「……知ってる」
「……うん」

 真希ちゃんの柔らかで静かな声に、視界がゆるりと膜が張るように滲んでいくのが分かった。
 こんな風に泣くのはこれで最後だと決めて、私は真希ちゃんに抱き着いた。
 真希ちゃんはまるで妹にでもするかのように優しくポンポンと背中を叩く。

「真希ちゃんは、あったかいねぇ」
「……馬鹿だな、お前」

 真希ちゃんはそう言って、でも、それ以上はもう何も言わずに。
 お互い無言で抱き合って、何をしているんだろうと傍から見たら思われるかも知れないけれども。
 それでも、みんなとこんな風に優しい時間を過ごせる時間はあともう少し。

(この時間が、少しでも長く続けば良かったのにね)

 そう願っても、祈っても、ただ時間は無常に過ぎるのみで。
 もう少し。あと少し。みんなと一緒に居たかったなぁ。
 そう思っても、もうきっと何もかもが遅いのだけれども。
 それでも、やっぱり。

(好き、だなぁ……)

 溢れ出るこの気持ちを無かったことには出来ないから。
 だから私は、この気持ちごと生きていく。
 棘くんを好きまま、そのまま。
 棘くんにもみんなにも二度と逢えなくなっても。この想いだけを抱いて。
 ただ、ただ。
 あなたを想い。いつかこの恋心が風になってあなたの頬を撫でるその日まで。
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