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 きっと、一生後悔することになる。
 彼女の手を取らないという自分の決断を、俺は一生をかけて後悔して生きていくのだと。
 それが分かっていても、俺は彼女の手を取ることは出来なかった。
 例えばその白い手が、震えていたとしても。

「きみの手を、取ることは出来ない」

 そう静かに伝えれば、彼女は「そうですか」と俺に向けていた腕を下す。
 彼女の表情はいつものように殆ど動いていない。
 瞬きすれば音が鳴りそうな程の長い睫毛はまるで雪のような透き通った白さで、その睫毛は青空を切り取ったような瞳を静かに隠している。
 彼女の殆ど変化のない表情筋は、それが何も感じていないからではなく、ただ単に表情筋が破滅的に動かないだけだと気付いてからは彼女の些細な表情の変化を楽しむようになっていたし、それに気付いた時には心が躍るように嬉しくなった時もある。
 だからこそ余計に思う。こんなにも悲しみを帯びながら睫毛を伏せる彼女を見るのは初めてだと。

「ジャミル先輩」

 自分の名を呼ぶ彼女の声がこんなにも愛おしくなる前に離れることだって出来たのに、俺はそれをしなかった。……いや、出来なかったの間違いだろう。

「今までお世話になりました」

 そう告げた彼女——監督生は、あまりに頼りなく笑った。
 表情を変えることを得意とせず、顔の筋肉が死滅しているのではないのかと思う程には表情の変化のない彼女が、笑った。
 悔いを残さない為だと分かっている。俺に対しての嫌がらせであるとも分かっている。
 こういう可愛げのあるんだかないんだか分からないところが好きだ。だったじゃない。今でも好きだ。
 でも、——元の世界に帰れるのであれば、帰るべきはそちらの世界だろう?
 歯を食い縛って、引き止めたい気持ちを押し殺して。
 全部ぜんぶ、抑え込んで我慢して。そうやって送り出そうとしている自分に対して、今までどんな時でも見せなかった表情をここで見せるのか、と思わないわけではないが。
 ギュッと拳を握り耐える。それでも俺は彼女を送り出してやらねばならないのだから。
 好きだから。そんな不安定な感情だけでなんとでもなるだなんて思っていない。
 愛や恋だけで彼女の人生を背負えるほどに簡単な世界だと、そんな生易しいことを思ってはいないから。

「監督生、俺は……っ」

 背を向けて鏡を潜ろうとする彼女の背中に何を言おうとしたのだろうか?
 彼女は何かを待つように少しだけその場で足を止め、俺が何も言わないと分かったのだろう。止めた足を再度進めた。

「ジャミル先輩」

 俺の名を呼んで、何かを考える素振りを見せる彼女はそれでも伝えることをやめたのか、それ以上は何も言わなかった。
 その代わり、彼女は最後に囁くように言う。

「幸せでした。たぶん……人生で一番」
「……え、」

 鏡に吸い込まれるように消えていく彼女はまるで地面に溶ける雪のようで。溶けた後には何も残さないくせに、そこに居た形跡だけは残すのだから厄介でしかない。
 厄介ごとに良く巻き込まれる子だった。面倒ごとや厄介ごとを引き連れてやってくるような子であった。
 それを毎回怒鳴りながら解決するのが、思いの外楽しいと感じていたのも事実であった。

 彼女の人生に責任を持てるか?
 自身に問い掛けるように、聞く。

 彼女を死ぬまで幸せに出来ると誓えるのか?
 震える足は一歩、踏み出していた。

「……っ、監督生!」

 吸い込まれるように消えていく彼女の細腕を掴み、自身の身体に引き寄せた。

「……ジャ、ミル先輩……?」

 驚いたように目をまぁるくしている彼女は、思っていた通りの顔をしていた。

「きみを、元の世界に帰すことがきみの幸せだと思っていた。そう思い込もうとしていた」

 でもきみが、あまりに頼りない声で「人生で一番幸せだった」なんて言うから。

「いや、違うな。これはただの言い訳でしかなくて……」

 なあ、監督生?

「俺は、きみを常に幸せだと感じさせてやれないかも知れない。立場上、カリムを優先しなくてはならない時も往々にしてある」

 それでも、そんな俺でも、

「きみを幸せにしたいと、そう願ってもいいか」
「……ジャミル先輩、常々私は思うのですが幸せの定義とはなんなのでしょう?」

 頬を濡らす監督生は不意に、そんな言葉を発した。

「家が裕福でも、家庭環境が滅茶苦茶だという事例は往々にしてありますし。まあ、個人的には幸せの定義は個々人によるものだと思っているのですが」

 聞いておいて自分の中に既に答えはあるのだと言わんばかりに監督生はいつも通り軽薄な声でそんな言葉を発する。俺の腕の中に抵抗もなく収りながら、ふと俺を見上げて言った。

「何を言われても、何をされても、今までの人生で嫌だと感じたことはあまりなかったんです。それが私に与えられた人生だと思っていたので」

 でも、と監督生は続けて言う。

「ジャミル先輩が私の手を取ってくれないと、そう感じた時、凄く嫌でした。私を一番幸せにしてくれるのはジャミル先輩であって欲しいですし、私が一番ジャミル先輩のことを幸せに出来る自信があったのに。先輩は私と同じ思いではないのかと、そう思ったら悲しくて仕方なかったんです」

 私ね? ジャミル先輩。

「あなたと生きたいんです」

 そこまで言われてしまえばもう、覚悟なんて決まっているようなものだった。
 いや、彼女の腕を掴んだ時には覚悟はしていたのだが。それでもその覚悟が俺の中で強固なモノに変わっていくようだった。

「後悔は、」
「私、実はジャミル先輩に出逢ったその日から元の世界に未練なんてないんですよね」
「……それをもっと早くに言え!」
「はあ、すみません」
「きみは本当に言葉が軽いな⁉」
「そうですかね? でも、私が重くなったら困るのはジャミル先輩の方だと思いますけど……」

 そう言いながら俺に凭れ掛かってくる監督生は自分のすべての体重を掛けるかのような体勢を取る。そういう重さではないと思う。と言いたくなったが、それはさすがに伝わったのか、物の例えです。とあっさり応えられた。

「私はね、ジャミル先輩。あなたが思っているよりもずっと、もっと、重い女なんですよ」

 だからこの手を離して欲しいと言って懇願されても、私はあなたの傍から離れてなんてやりませんからね?

「覚悟しててください。私に愛される覚悟を」
「……きみこそ、後悔したって知らないぞ」

 だから、と凭れ掛かってくる監督生を抱き締めて耳元で囁いた。

「大人しく俺に愛される準備でもしておくんだな」
「なんだか改めて言われると照れますね」
「きみな……それはせめて照れた顔をしながら言うものじゃないのか?」

 まったく。彼女の耳が真っ赤に染まっていなかったら許さなかったところだ。
 白い肌を嫌っているみたいだが、こうやって皮膚に感情が素直に現れるところを俺は好ましく思っている。
 表情が変わらないだけで、本当は照れ屋な彼女にそこまで伝えるつもりは『まだ』ないけれども。

「監督生」
「なんですか?」
「俺は思ったより、きみのことが好きらしい」

 そう言ったなら監督生は目を今まで見たことのない程に見開き、そうして——無表情のままに倒れた。顔全体を真っ赤に染め上げながら。

「か、監督生⁉ 大丈夫か⁉」

 彼女に一体何があったんだ⁉ と焦っていればその声を聞きつけた学園長が「あれ? 監督生さんまだ帰ってな……か、監督生さんが……! 倒れてる……っ⁉」と俺よりも慌てふためき、その学園町の声を聞きつけたエースとデュースが駆けつけてくるまでに時間はそう掛からず。
 その後なんやかんやと二人は監督生をオンボロ寮に送り届け、その際俺が着いて行こうとすればエースがにこやかな笑顔を浮かながら待ったをかけた。

「いや、しばらくの間は監督生に近付かないでください。監督生が死ぬんで」
「ど、どういうことだ……?」
「いや、どういうって……」

 うーん、とエースは頭を掻きながら「単にキャパオーバー起こしただけだと思いますけどね?」とさらりと言う。

「つまり、接近禁止令と言うことか?」
「そうなりますね!」

 いやに良い笑顔で言いやがる。余程彼女を泣かせたことに腹を立てているらしい。
 今すぐ監督生との蜜月を始めたいくらいだが、当の監督生が驚くほどに俺の言葉にキャパオーバーを起こしてしまっているのはなんという誤算。
 なんとかならないだろうか、と考えを巡らせていればデュースが申し訳なさそうに言ってきた。

「今監督生が先輩を見たら、監督生はその瞬間に爆発します」

 いや、なんだ爆発するってとは思ったが、仕方がない。彼女が慣れるまでは彼女のペースでやって行こうじゃないか、と決心して頷いた。

「そうか。監督生に次に会ったら覚えていろと伝えておいて欲しい」

 今回よりもたくさんの言葉をあの子に与えて、ちゃんと伝えてやりたい。
 そんな思いから出た言葉だったのだが……デュースはまるでヒトデナシでも見るような眼差しで俺を凝視した後に叫んだ。

「監督生を殺す気ですか⁉」
「一体、監督生は今どんな状態なんだ⁉」

 そう叫んだままにオンボロ寮の中に入り込もうとしたけれども、エースとデュースがバリケードのようにオンボロ寮の中に頑なに入らせてはくれなかった。
 しばらくの間、監督生とは会うことは叶わず。
 久しぶりに会ったら会ったで毎回驚いたように目をまぁるくする監督生の姿が見られたとかなんだとか。
 まったく。彼女の行動は検討が付かない。こんな風に人生が乱されるのは予定外だ。
 ……彼女に乱されるのが嫌ではないのだから、案外予定外でもないのかも知れないが。なんて思っている俺も大概なんだろうな、と逃げ回る監督生をどう追い詰めようかと策を考える。
 寮生からは「副寮長が蛇のような眼差しで監督生を見ている」と恐れられたのは、少しあとのお話。
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