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 わたしの恋人はとても可愛い。
 そう思っているのはどうやらわたしだけ、らしいけれども。

「フロイドが可愛く見えるのは最早呪いの域ではありませんか?」

 心配そうにアズール先輩にそう言われても、わたしは首を傾げるのみ。

「そうですか? あんなに可愛らしいヒトなのに」
「ええ、きっとこの世界であなたくらいですよ。フロイドのことを『可愛い』だなんて平然と言うのは」

 アズール先輩は机の上に置かれた書類を見ながらそんなことを言う。
 そうかなぁ、とわたしはまたひとつ首を傾げた。
 フロイド先輩は確かに気紛れで、少しだけ暴力的になる時もある。
 けれどもそれらの感情がわたしに向けられることは滅多にない。約束事は守られるし、ましてや暴力なんて一度も振るわれたことはない。
 それが少しだけ悲しいと思わないわけではないけれども。

「監督生さんはフロイドに暴力を振るわれたいと?」
「え、まさか! そんな痛そうなことされる趣味はありませんよ!」
「では、一体どういった意味で?」

 アズール先輩はわたしの淹れた紅茶に口を付けながらようやくひと段落付いたのかそんなことを世間話のように聞いてくる。
勿論だが、アズール先輩の紅茶には砂糖もミルクも入ってはいない。その代わりに疲れが取れるよう浮かべられた輪切りのレモンがとても良い香りを放っている。
 質のいい紅茶はリドル先輩から頂いたもので、輪切りのレモンはたまたまヴィル先輩に頂いたもの。
 それをアズール先輩に分けた形ではあるが、流石リドル先輩の見立てた紅茶にヴィル先輩から頂いたレモンだ。舌の肥えているアズール先輩が何も言わずに、けれどもしっかりと楽しんでいることが伺える。

「監督生さん?」

 そんなことを考えていたらアズール先輩が一体どうしたのだ? とでも言わんばかりに不思議そうな顔でこちらを見ていた。どうやら凝視していたらしい。「なんでもないですよ」と告げてから少しだけ口角を上げた。

「わたしは、フロイド先輩に優しくして頂いているのは分かっているつもりです」
「なるほど、惚気か何かなら他所でやってください」
「まあまあ、どちらかと言うと人生相談なので聞いてくださいよ」

 面倒くさそうな顔をするアズール先輩を無視して話を進める。
 フロイド先輩はこの世界でも類を見ないほどに可愛い。そうして何よりも優しいのだ。
 でも、もし。もしもその優しさの理由がわたしの『性別』であるのだとしたら。
 それが少しだけ悲しいと、そう思ったのだ。

「みんなと一緒の扱いを受けたいと、そう思うわけではありません。けれども『女』だからと優しくされるのは違うと思うんです」

 恋とは面倒なものだ。
 わたしはどうやらこの世界に来てからどんどん欲張りになっているらしい。
 物欲もなく、人への興味関心の少なかった自分が、である。本当に恋とは恐ろしいものだ。
 とはいえあんな可愛い生物が居るのが原因な気はしてるが。

「そこでアズール先輩、本題なのですが」
「今までのは全部前説だったんですね。なるほど、とても嫌な予感がするのは僕の気のせいでしょうか?」

 にっこりと笑う私に、アズール先輩も同じように微笑んでいた。アズール先輩の笑みは何処か引き攣ったような笑みでもあったが、そんなものを気にしていたらこの世界ではやっていけないので、無視だ無視。

「わたしの中からフロイド先輩への恋心を消すとか、そういうの出来ます?」
「……は?」
「あ、すみません。聞き取れませんでした? もう一度言いますね」
「いえ、一度で結構。というかそんな言葉を二度も軽率に言わない方がいいと思いますよ」
「そうですかね?」

 別に軽率に放ったわけではないのだが。それでもアズール先輩の言葉は心配の色を宿していたから、少しくらいは先輩の言うことを聞いておこう。

「監督生さんは、フロイドのことを忘れたいのですか?」

 アズール先輩は値踏みするような顔をわたしに向ける。わたしは浮かべていた笑みを更に深めた。

「アズール先輩、わたしね? フロイド先輩にこれ以上依存して、これ以上頭の中をフロイド先輩だけでいっぱいにはしたくないんですよ」
「……それは、フロイドに恋をしていた記憶を消すことと何か関係あるんですか?」

 聞き返すアズール先輩は意外だとでも言いそうな顔でわたしを見つめて、机の上で手を組んだ。

「この前、わたし見ちゃったんです。フロイド先輩が見知らぬ女性と仲睦まじそうに歩いているところを」
「は、」
「その時わたし、悲しいという感情よりも先ず、羨ましいって思っちゃったんです」

 あのヒトの隣に立つ自分ではない人が羨ましい。あんな風に堂々と歩きたい。
 でもどうしたらわたしは彼のヒトの傍で堂々と歩けるだろうか?

「そうだ! 恋人で無くなればいいんだ! と思いまして」
「あなた、……馬鹿なんですか?」
「え?」
「は、まあ……いいです。話を続けてください」
「はあ、なんだか今とっても馬鹿にされた気分なんですが」
「馬鹿にしてますからね?」

 そう言うアズール先輩は本当に呆れた顔をしている。そんなに可笑しなこと言ったかな? なんて思ったことすらアズール先輩にはお見通しだったらしい。「可笑しいも何も、馬鹿過ぎてお話にならないです」なんて付け足された。
 全く以て不服ではあるが、それはそれとして今アズール先輩に機嫌を損ねられると契約できなくなってしまうから、言い返したい気持ちをグッと堪える。

「わたしにとって、フロイド先輩は可愛い先輩。その程度にしておくべきだったんです。それが恋だの愛だのと形にしてしまったから面倒になってしまったんです」
「……可愛い、ねぇ?」
「なんですか、アズール先輩。フロイド先輩が可愛いことへの異論は認めませんよ」
「いえ、なんというか……」

 フロイドも馬鹿やりましたねぇ。とアズール先輩はぼそりと呟く。

「なんのことですか?」

 フロイド先輩がやらかす、とは一体なんのことだろうか? そう思って聞き返したが、アズール先輩は「いえ、なんでもありません」と言うだけで、それ以上何かを言うことはなかった。

「つまるところあなたは、フロイドが浮気をしたから恋人であった記憶を消したいと。そう言っていると?」
「うぅん、まあ。概ねそんな感じです」

 わたしがフロイド先輩の恋人でなければ、フロイド先輩はもっとのびのびと生きられるのではないのだろうか。わたしという枷があるせいで、きっとフロイド先輩も迷惑していることだろう。
 それに、わたしはあの日感じてしまった感情を自分の中に落とし込むことはまだ出来そうにはないから。

「だから、フロイド先輩への恋心を消して欲しいんです」
「なんというか、思っていたよりも短絡的思考なんですね」
「そうは言いますがね? 毎度毎度も見せつけられる身にもなってください。今月に入ってもう五度目ですよ?」

 これだけ我慢したわたしも凄くないですか? なんて言いながらアズール先輩を見やれば頭を抱えていた。

「アイツ、本当に……」

 何やらごにょごにょとアズール先輩が言っていたけれども、そんなことはどうでもいい。
 いや、フロイド先輩にとっても大切な友人であるアズール先輩の言葉をどうでもいいだなんてあまり言いたくはないが。
 個人的に大切なのはフロイド先輩なので敢えてここはどうでもいいとしよう。

「もう嫌なんです」
「監督生さん……」

 あんなものを何度も見せつけられるくらいなら、わたしの中からフロイド先輩への恋心を消した方が何倍もマシだ。
 恋人であった記憶を失うのは少し嫌だが、飽きやすいフロイド先輩のことだ。最初は気にするだろうがすぐに気にしなくなる。
 そうしたらきっと、ただの先輩後輩に戻るだけ。……それだけでしかない。

「僕にはあまり関係のない話なので正直どうでもいいのですが、……本当に宜しいのですね? フロイドへの恋心を失っても」
「いいです。お願いします」

 決意を持ってアズール先輩にそう答えれば、アズール先輩は何やら難しそうな顔を一瞬だけしたあと、口角をふっと上げる。


「――忠告はしましたよ」


 そう言ったアズール先輩にわたしは頷いて、アズール先輩は仕方なさそうに契約書を差し出してきた。
 何やら細かいことが色々書いてあるそれらをすべてを読み飛ばし、その契約書にサインを書いた。
 これでもう大事なヒトから傷つけられることもないのだと、そう思えば少しは気が楽だった。
 少しずつ記憶にモヤが掛かるように脳内が混濁していくのを、感じながら。
 わたしはゆっくりと瞼を瞑った。次に目を開けたらきっと、この痛い程の感情も消えているのだろう。
 だから知らなかった。深い眠りについたわたしに向けて、アズール先輩が怪しげに微笑んでいたことなんて。


*****


 最近、小エビちゃんが変だ。

「小エビちゃーん?」
「フロイド先輩? なんですか?」

 俺に向けられる顔は本当に言葉通り、急に声を掛けてきてどうしたのだろう? といった顔で。
 こんな顔を見るのは久し振りだ。
 恋人になってからの小エビちゃんは俺を見れば嬉しそうに駆け寄って来ていたから。それが犬みたいで可愛かったけれども。
 これはある意味新鮮で楽しい。楽しいけれども、だからと言って嬉しいわけではない。むしろ気に喰わないという感情の方が先に立つ。

「小エビちゃんさぁ、俺に何か隠しごとでもあるの?」
「隠しごと? わたしがフロイド先輩に、ですか?」

 小エビちゃんの小さな背丈に合わせたような小さな顔。それを覗き込むように腰を屈める。
 そうすれば普段の小エビちゃんだったなら、「フロイド先輩可愛い!」なんて言葉がすぐに飛んでくるような動作だったのだが、今の小エビちゃんは何も感じないのか、うぅんと俺の言葉にどう返そうか悩むような素振りを見せる。
 それが何とも面白くない。
 別に今まで可愛いと言われて面白かったわけではないが、小エビちゃんから向けられる感情はなんでも嬉しかったのもまた事実。
 でも、今は何も楽しくない。楽しくないならば小エビちゃんに構わなければいい。
 そう思うのに、どうしたってこの足は小エビちゃんの元へと向いてしまうのだ。

「フロイド先輩への隠しごと、わたしには何も心当たりがないですね」

 そう言い放つ小エビちゃんの声は何処か冷たかった。今までの温かみのある声ではなかった。まるで興味がない他人に対して向けるような声音だった。
 声にも温度があるのだと教えてくれたのは小エビちゃんだというのに。
 それなのに、こんな声を放つのかと腹立たしくもあった。

「……っ、もう知らねぇかんね!」
「はぁ」

 小エビちゃんのそうですか、で? とでも言わんばかりの生返事に更に苛立つ。
 今までならばこんな相手にいつまでも構うことはなかった。けれども相手は番と決めた雌で。だから構うのに。だから優しくしているのに。
 小エビちゃんは俺のことなんて、もうどうでも良くなっちゃったの?

「……っち」

 舌打ちをひとつして、小エビちゃんの前から立ち去る。
 どうしたって今は苛立って優しく出来そうになかったから。


*****


 中庭のベンチに座っていてもイライラは当然だが収まらず。
 何度か通りすがりの名前も顔も知らない男子生徒を殴っても落ち着かず。
 フロイド・リーチが暴れている。
 なんていよいよ噂が広まったのかアズールとジェイドが俺を止めに来た。
 二人は機嫌の悪い俺を見ても溜め息を吐くだけで、そのまま強制的にモストロ・ラウンジのVIPルームに連れて行く。
 部屋に入った途端「それで?」とアズールが口火を切った。

「フロイド。暴れていた原因はなんですか?」
「……言いたくねぇ」
「そうですか。まあ、お前がそういった態度ならば別に構いませんが。お前がそうやってヤケになって暴れている間にも、お前の大事なものは傷ついていますよ」

 アズールは至極どうでも良さそうに肩を竦めながらそう言った。

「どういうこと……?」
「それを今お前に言って冷静になってくれると言うのなら言いますけど」
「アズールさぁ、俺のこともしかして試してる?」
「さあ? どうでしょう?」

 アズールは無駄なことをしない。だからつまりそれは俺に関わることだろう。いや、俺というか小エビちゃんのことだ。そんな確信だけは確かにあった。
 ――でも、だからそれがなんだって言うんだ。今の俺には関係ない。

「小エビちゃんのことなんてもう知らなぁい」
「……フロイド。本当にそれがお前の『答え』でいいんですね?」
「……はあ?」

 何処か呆れたような顔をするアズールはやれやれと首を横に振る。
 そんなアズールとは正反対に、面白いおもちゃを見つけた時のような眼差しでソファにどかりと座る俺を笑顔で見やるジェイド。その笑みはどう考えても何か企んでいる時のソレだ。

「フロイド。お前の大切なモノはなんですか?」
「……は?」

 アズールが不意にそんなことを言うから、つい首を傾げる。それを見たアズールは一度静かに睫毛を伏せた。

「あなた達、本当にそういうところですよ」
「どういう、」
「似た者同士だということです」

 ぼそりと呟かれた言葉の意味が分からずそう問えば、アズールは俺を見て仕方なさそうに息を吐き、机の上で手を組んだ。
 瞬間、まるでその仕草が合図のように唐突に身体が動かなくなった。
 じろりとアズールの方を睨み付ければ、アズールの傍にはいつの間にかジェイドが立っていて、ジェイドは何かが入った小瓶を持っていた。
 その小瓶の中にはピンク色の霧状の何かが詰められている。
 それは一体なんだ? とばかりに首を傾げれば、ジェイドはその小瓶をアズールに渡した。

「僕が今から話すことを聞いて、よくよく考えなさい」

 この小瓶に入っているのは、

「監督生さんの、――恋心です」


*****


 フロイド先輩がわたしに絡んできたあと大暴れをして、アズール先輩とジェイド先輩がオクタヴィネル寮に引き摺って帰ったらしい、なんていうのを風の噂で聞いた。

「先輩、大丈夫かなぁ」

 不意にそんな言葉が自分の口から漏れ出ていた。
 大丈夫? どうしてそんなことを気に掛けるのだろう。ただの顔見知りの先輩に? どうして?
 そんなことを考えていたらエースとデュースがわたしのことを心配そうに見やる。グリムも珍しくこちらを見ては何かを言いたそうに、けれども上手く言語化出来ないのかもどかしそうにしていた。

「え、ナニ? みんなそんな顔してどうしたの?」
「あの、さ。一応聞いとくんだけど……」

 エースが言い難そうに口を開いた。

「お前……フロイド先輩となんかあった?」
「え? 何か、って何が?」
「いやぁ、だっておかしいじゃん」
「だから、何が?」

 エースは頭をガシガシと掻いている。まるで言葉に出来ない部分があることに苛立っているみたい。
 どうしてエースがフロイド先輩とわたしのことを心配するのだろうか? そう思い、首を捻る。

「エース?」

 親しい相手にはわりとハッキリと物事を述べるエースだというのに、本当にどうしてこんなにも言い難そうにしているのだろうか。

「あー、というかデュース! お前からもなんか言ってやれよ!」
「ぼ、僕が言うのか⁉」
「こういうの、なんかお前の方が得意そうだろ⁉」
「エース! お前は僕に恋愛のことが分かると思うのか⁉」

 わいわいぎゃあぎゃあと言い合う二人を見ていたら唐突にデュースから『恋愛』という単語が出てきて目をぱちくりとさせる。

「デュース、片想いでもしてるの?」
「いや、どちらかというとそれは監督生の方……あ、」
「……わたし?」

 デュースはしまったとばかりに口を両手で塞ぐが、時既に遅しというやつだろうか。わたしの耳にはデュースの言葉がしかと届いてしまった。

「それじゃあまるで、わたしがフロイド先輩に片想いをしてるみたいじゃない」

 何をそんな馬鹿なことを? とまた首を傾げる。

「監督生はそうは思わねぇの?」

 エースからはいつもの意地悪さはなく、むしろ真面目な顔をしながらわたしに向かってそう言った。

「だって、相手はフロイド先輩だよ?」
「その、フロイド先輩のことを監督生はどう思ってるワケ?」
「……どう、って」

 どう思う? どうと言われてもただの先輩でしかないし、フロイド先輩にとってもきっとただの後輩でしかないだろう。
 わたしが異世界人で、それがフロイド先輩の興味を少しだけ惹いたかも知れないけれども、そうは言ってもわたしがフロイド先輩に恋をするだなんて……。

「有り得ない、って監督生は思う?」
「そりゃ……」
「どうして?」
「え、」
「どうして、監督生はそう思うワケ?」

 エースの真面目な声は何処か身が引き締まるような気分だ。でもその声が優しさや心配から来ているのが分かるから、わたしも考えようと思う。
 どうしてわたしはフロイド先輩と恋愛するのは有り得ないと思ったのだろう?
 だってあんなにも可愛いヒト、他に居ないのに。

(……ん? 可愛い? あのフロイド先輩が?)

 自分の中に沸いた感情に疑問符を打ったが、それでも一度そう思ったら二度とそう思わなかった頃には戻らない。否、戻りたくとも戻れないのだ。

「わたし、は……」

 思考がグルグルして気持ち悪い。なんだか嫌な気分だ。胃がひっくり返って口から飛び出してしまいそうな気持ち悪さに思わず自分の口を抑える。
 震える唇で、ただゆっくりとその言葉を吐き出した。

「わたし、どうして忘れてたんだろう……」

 ――フロイド先輩と、恋人だったことを。
 確かに声帯からはその言葉が吐き出されていた。エースもデュースも何処か安心したような雰囲気を醸し出している。
グルグルとした言葉に表せないような気持ち悪さが少しずつ霧散していくのを感じた。頭の中で漂っていたモヤが霧散していくのを感じる。

(そうだ、そうだよ。わたしどうして忘れていたのだろう)

 彼のヒトへの想いを。甘くて、でも時折苦くて。大切な恋心を。
 どうして差し出してしまったのだろうか? このフロイド先輩への恋心を。
 そこまで考えてゆっくりと思い出す。
 アズール先輩にあの日言った通り、わたしはフロイド先輩の浮気現場を今月五回も見ているのだ。
 麓の街でフロイド先輩が見知らぬ美女と歩くその姿を。
 その美女はフロイド先輩の隣を歩いいても遜色のない美しい女性で、こう言ってはなんだがお似合いだと思った。あの女性には自分では敵わないと。そう思ってしまったのだ。
 でも正直、それらはキッカケでしかない。
 アズール先輩へ契約を持ち掛けた一番の理由は、フロイド先輩の浮気より何より、そんなことを考えてしまった自分に何よりも嫌悪感を抱いたからだ。
 フロイド先輩に貰った感情すべてを、自分が否定したように感じてしまった。
 例えそのフロイド先輩に裏切られていようとも嫌なものは嫌だったのだ。
 物でも人でも、何に対しても執着をしない、それがわたしという人間だったのに。その筈だったのに。
 たったひとりに恋をした。そうしたら世界が変わってしまったの。
 今思えばわたしは怖かったのかも知れない。今まで生きた短い人生の中で突然与えられた知らない感情。それに振り回されたくないという、そんな恐怖感。
 でも、今更だ。全部ぜんぶ今更なのだ。

「わたし、本当は契約書ちゃんと見ていたの」

 自分の口から手を離して、震える声で発したのは懺悔のような言葉。

「書いてあったの、そこに」
「……何が?」

 エースは突拍子もないことを言ったわたしを咎めず、むしろ促すような雰囲気でわたしの言葉を待った。

「恋心を、思い出した時」

 ――その恋は終わりを告げる、って。
 その言葉は流石に予想外だったのだろう。
 エースは息を呑み、デュースは目を見開いていた。
 そんな中、グリムだけは良く分かっていないのか、「オレ様、知ってるんだゾ」と不意に声を発する。

「グリム?」
「子分が毎日泣いてたこと、オレ様知ってるんだゾ」
「……っ、」

 知られたくなかった。いや、違うか。自分の中で認めたくなかったことを言われたからか、ギュッと唇を噛み締める。
 でもグリムの言葉は別に、わたしを追い詰める為に放たれた言葉ではない。
 グリムに抱き着くように抱き締めれば、いつもは嫌がる癖に今日に限って宥めるような短い手でわたしの頭をポンポンと撫でる。
 誰がなんと言おうとも優しい友人達だ。この友人達と出逢う為にわたしはこの世界に来たのかも知れないと、そんなことを思うくらいには。

「監督生」

 今まで何を言おうか言いあぐねいていたデュースが不意に声を発した。
 わたしはゆったりとした動作でデュースを見上げる。デュースは何かを思い出すかのように視線をうろつかせながら、それでもしっかりと言葉を紡いだ。

「監督生は『恋の寿命』というのを知っているか?」
「……なにそれ?」
「人が同じ人に恋をしていられる期間は三年ほどらしい。だから、それを過ぎたら次の恋に移ってしまうと言われている」
「ちょ、デュース⁉ お前突然ナニ言って⁉」

 エースが慌てたようにデュースの肩を掴みが、デュースは言葉を止めなかった。
 わたしはデュースの言いたいことが分からず、首を傾げる。

「恋の寿命を延ばす方法がある、……らしい」
「……? どういうこと?」

 というかさっきからデュースらしからぬ発言が飛び出し続けていてちょっと新鮮な気分だ。
 いや、むしろ純粋なデュースらしいと言えばそうなのかも知れないけれども。その情報は一体どこから仕入れたものなのだろう? なんて考えていれば。デュースはしかとわたしを見つめて、言った。

「だから監督生は、フロイド先輩にまた、恋をすればいい」
「……え?」

 フロイド先輩にまた恋をする、って。つまり同じ人にまた恋をするってこと?
 エースもなんとなくデュースの言いたいことが分かったのか、口を開いた。

「それ、オレもミドルスクールの時に女子が話してたのを聞いたことあるぜ?」

 エースの発言に、なるほどこちらの世界ではミドルスクールからそういう発言をするのか、なんて感心してしまった。

「恋の寿命を延ばす方法は、同じ奴にまた恋をすることだ、って。そうやって恋をし続けていけば、その想いは永遠になとかなんとか。そういう迷信? みたいな? そんな話らしいけど試してみる価値はあるんじゃねぇの?」

 つーかさ、とエースは悪戯を思いついた時の子供のような顔で、でもそこに悪意なんて感情は見当たらないままにその言葉を発した。

「今もフロイド先輩への恋心が消えてないなら、それはつまり恋心をなくしてないってことじゃねーの?」
「……っ!」
「ほーら、監督生! こんなところで蹲ってても王子様は迎えに来ないってーの!」

 欲しいなら掴み取りに行く。

「そんなお前の性格、結構長所だとオレは思ってたけど?」

 エースのその言葉に、わたしはひとつ頷き「ありがとう! エース! デュース! グリム!」と叫んで、走り出す。
 向かう場所はただひとつ。わたしが求めているのは、たったひとり。


*****


 アズールの言葉がチラつく度に、舌打ちを打つ。
 小エビちゃんはアズールと契約を交わし、俺に対しての恋心を失ったらしい。
 そんなことをする前に少しでいいから相談して欲しかった。
 良くも悪くも突拍子なく突っ走る小エビちゃんのことだから相談なんてしなかったのかも知れないが。
 でも、それでもやっぱり恋人である俺に相談して欲しかった。

「小エビちゃん、もう俺のこと好きじゃねーのかな……」

 アズールと小エビちゃんが交わした契約書。それをアズールは見せてくれた。
 咄嗟に破こうとしたけど当然だが破けない。当たり前です、と鼻で嗤われた時は感情に任せてローテーブルを蹴ってしまった。
 それを咎める声はなかったけれども、仕方なさそうに見られたのもまた事実。

「そんなわけで監督生さんのことはもう諦めなさい」

 冷たい声でそう言われて、はいそうですね、と返せるほど自分は成熟した大人ではなかった。いや、例え大人だったとしてもアズールのその言葉に頷くわけもなかったけれども。

「小エビちゃん……」

 欲しくて欲しくて仕方なくて。ようやく手に入ったと思ったら突然この手を擦り抜けていく。
 それが悔しいし、何よりも悲しい。どうしてこうなってしまったのだろうか? 小エビちゃんが恋心を忘れている今となっては原因は分からないけれども。
 まるで鳴き声のように「小エビちゃん」と口から漏れ出てくる彼女に付けた愛称。
 それは一種のマーキングのつもりだった。
 何度も何度も繰り返すことで周りにこの雌は自分のモノであると告げるような、そんな幼稚なものだった。
 でも、それも全部無駄だった。
 今頃、彼女の中から俺に向けられていた恋心が消えていることだろう。
 アズールに見せられた小瓶の中にあるピンク色の雲のような霧のようなものは、小エビちゃんが俺へ抱いていた恋心。
 それは突然消失した。それにはアズールも驚いたらしいが、だからこそ「諦めなさい」と再度言われた。
 カニちゃんにそれっぽく探らせる気で連絡したけれども、返信がないことからどうやらそれも裏目に出たらしい。
 もう何もかもが無駄なのだ。あの小エビは二度と自分の腕の中には戻って来ない。

「あー、くっそ」

 イラついて近くにあったゴミ箱を蹴れば、ガコンとめちゃくちゃな音がする。凹んだゴミ箱を見て、俺だってへこんでるのに、なんて対抗意識を見せてみたが。

「……小エビちゃん」

 息がしづらい。まるで人魚の姿のまま陸に上がってしまったみたいだ。
 でも、もういいのかも知れない。伝説の中の人魚は恋心が叶わず海の泡となったというではないか。
 俺もそうなってしまってもいいのかも知れない。
 とはいえ俺は往生際が悪いから、だから彼女の足をうっかり引っ張りながら海の泡になるかも知れないけれども。

「フロイド先輩!」

 そんなことを考えていた時だった。現実に引き戻すように小エビちゃんの声をこの耳が拾ったのは。
 求めて、求めて、苦しいくらいに大好きで。でも二度とこの想いが伝わらない相手。その相手がまるで慈悲の如く手を差し伸べてきたのだ。

「フロイド先輩……っ⁉ ……ごめんなさい!」
「ナニ、」
「わたしが全部悪いんです! あなたを一時でも疑った! あなたの想いを無かったことにした! だから、全部わたしが悪いです!」
「小エビちゃん?」
「だからどうか、」

 ――泣かないでください、フロイド先輩。

 そう言って白いハンカチを差し出す小エビちゃんは、どう頑張ってみても俺が知っている小エビちゃんで。
 俺に対しての情が無くてもこんなにもあったかいのかと思えば、なるほど。どんどん敵が増えるわけだと頷きたくもなる。
 というか泣かないでってなんだ? 俺は泣いてなんて……、と思いながら頬に手を添えれば、そこには確かな水滴があった。生温いそれが頬を伝えば、口内に少しだけ塩分の味がした。
 それを認識した途端、どんどんと涙が溢れては止まらなくなっていく。

「小エ、ビ……ちゃん……っ」
「はい、なんでしょう? わたしフロイド先輩の誤解を解く為なら拳骨の一発や二発くらい潔く喰らいますけど」

 小エビちゃんのあまりの漢前な発言に少しばかり口角が上がる。

「……なら、さぁ」

 なら、そんなことを言うのならば。言ってくれるのであれば。

「俺にまた、恋してよ……」

 小エビちゃんは驚いたような顔をして、そうして困ったように眉根を寄せる。そうしてフルフルと首を横に振った。

「そのお願いは、聞けません」
「……っ」

 ギュッと心臓がわし掴みされたように痛くなった。唇を噛み締めて、もうこれ以上の醜態を晒さないようしゃがみ込んで俯いた。
 こうすれば小柄な小エビちゃんでも俺の顔を覗き込めない。ボロボロとスラックスを濡らしていれば小エビちゃんは困ったような声で「フロイド先輩」と俺の名を呼ぶ。

「あの、フロイド先輩? 何か誤解してませんか?」
「してない」
「してますね⁉ そのひっどい声はめちゃくちゃしてる声ですね⁉ わたしには分かるんですよ? 何せわたしは」

 ――フロイド先輩検定一級なので。

 そんなことを言う小エビちゃんの声は、慈悲ではなく、慈愛でもなく。
 俺への恋心を忘れる前の小エビちゃんが良く言うセリフだった。

「どういう、こと?」

 蹲ったまま疑問符を浮かべていれば、とても簡単な問題ですよ、と柔らかな小エビちゃんの声が頭上に降ってくる。

「わたしがフロイド先輩への恋心を完全に忘れる前に、フロイド先輩に対してまた恋をしたんです。だから、わたしの中でフロイド先輩への恋の寿命が延びた」
「なぁに、それ」

 可笑しなことを言う。恋の寿命も何も、終わらせようとしたのは小エビちゃんの方だと言うのに。なのに勝手にひとりで更新しているのだから、本当にこの小エビは意味が分からない。
 先の行動が読めなくて、一緒に居ても飽きることを知らない。むしろ俺の方が先に飽きられる可能性だってあるくらいだ。
 でも、そんな小エビちゃんだから俺は恋をしたし、小エビちゃんはそんな俺に恋をしてくれた。

「ね、小エビちゃん?」

 おずおずと顔を上げて小エビちゃんを見やる。小エビちゃんの深海のような瞳の中に映る俺の姿はなんとも情けない面をしていたが、それでもこれだけは伝えなくてはいけない気がした。

「小エビちゃん、まだ俺のこと好き?」

 問えば、小エビちゃんは目をまぁるくして、「やっぱり先輩は可愛らしいヒトですね」と呟いたあと、俺の顔を覗き込むと花開くように微笑み言った。

「何があっても、わたしは先輩が大好きです」

 ああ、もう。色々言いたいことはあるけれども。
 その言葉が聞けただけで――今は満足だ。


*****


「ところでどうして俺への恋心を消そうだなんて思ったワケ?」
「……いやぁ、そんな終わった話どうでいいじゃないですか!」
「小エビちゃん?」
「わ、わぁ⁉ すっごいいい笑顔! 分かりました、話します。話しますとも! というか、わたしの中ではもう既に解決しているので本当にどうでもいい話ですよ?」
「そのどうでもいい話に巻き込まれた俺の話、聞きたいの?」
「それはあとで聞くとして、」
「たっぷり聞いてもらうから覚悟してね?」
「……はは。はぁい」

 で、何が原因だったの? と問いかけてくるフロイド先輩にわたしは、まずわたしが勘違いをしていることを前提に話を聞いてくださいね? と念押しをする。
 フロイド先輩は「いいから話せよ」と笑顔で言い放った。
 本当にこういうところが可愛いヒトだなぁ、とたぶん常人には理解され難い趣味嗜好でそんなことを考えていたら、フロイド先輩が無言の圧を与えてきた。
 そろそろ話さないとわたしの明日がないかも知れない。主に生命的な意味で。

「あのですね?」

 そうしてわたしは話した。麓の街で見た光景を。その時に思考を占めた想いを。
 それらを静かに聞いていたフロイド先輩は、わたしが話し終わったあとに「小エビちゃん……」と驚いた顔で小さく呟いた。

「魔法薬で変身したジェイドに嫉妬してたの?」
「やっぱりあの美女ジェイド先輩だったんですね⁉」
「やっぱりって、え! 分かってたの⁉ 待って? 知っててこんなことしたの⁉」
「だって! ……悔しいじゃないですか」

 フロイドに似合うのは僕だけです。みたいな雰囲気で歩かれたら、恋人としてはハチャメチャに悔しいですよ⁉

「……うーわ、ジェイド眼中になくて可哀想」

 力説していれば、フロイド先輩は何事かを呟く。それはあまりに小さくて聞こえなかったけれども、何を言ったのだろう?
 なんですか? と聞き返しても、フロイド先輩は「気にしなくていーの」と言ってそれ以上は何も言ってはくれなかった。

「それで? 正体が分かっているのにも関わらずこんなことして、本当に何がしたかったの?」
「いえ、まあ……わたしの中のジェイド先輩への嫉妬心が燃えに燃えてつい……」
「へえ? で、本当の理由は?」
「……フロイド先輩も段々わたしのこと分かってきてますね?」
「まぁねぇ。捨てられそうになっても小エビちゃんとはコイビト関係だから? 当然ってやつ?」

 トゲトゲしく刺してくるフロイド先輩の言葉も今は甘んじて受け入れながら、ええとですね? とわたしは答えた。

「これでも契約書の類はすべて読むようにしているんですよ」
「へぇ? 意外」

 本当に意外そうに言われて、心外ですよと答えたけれどもフロイド先輩は先を促すような視線でわたしを見てくるから、わたしは仕方なく言葉を続ける。

「アズール先輩に渡された契約書、抜け道がいくつかありまして。簡単に言えばそれに賭けました」
「完璧な契約書だと思ってるアズール可哀想……」
「こっちも必死だったので、そこは見ないフリをしました」

 そう必死だったのだ、本当に。フロイド先輩のことが好きすぎるあまり、あんなものを見せつけられた日にはジェイド先輩の寝床に忍び込んでジェイド先輩の大好きなキノコグッズと登山グッズをすべてかき集め、キャンプファイヤーにしていたかも知れない。
 それくらい嫉妬したのだ。

「その状態のジェイドも見てみてぇけど……ジェイドは小エビちゃんの行動なら基本喜びそうだからなぁ」

 泣きながら、と小さくフロイド先輩は呟く。泣くのは分かるけれどもどうして喜ぶのだろうか?
 ……まあ、今はジェイド先輩のことは置いておいて。

「そんなわけで、嫉妬の炎に駆られた故の行動です」
「……ふぅん」
「あれ、フロイド先輩思ったより怒ってないです?」
「んーん。めちゃくちゃ怒ってる」
「え、でも。あの、……というかなんか近くないです?」
「そうだねぇ、ちゅーできちゃうかもねぇ?」
「ちゅーって! ……先輩可愛いな」
「あは、そーだ」
「……うわぁ、嫌な予感がする」
「小エビちゃんがぁ、これから俺に可愛いって言う度にちゅーしてあげよっか?」
「ひぇっ、死んでしまう⁉」
「あはは! 茹でエビになっちゃたねぇ? ほーんと、これからどうなっちゃうんんだろうねぇ」

 不穏なフロイド先輩の発言に、わたしは何故だかゾッと背筋が寒くなったのを感じた。
 先輩はにっこりと微笑んでいる。わたしはゆっくりと後退する。それを詰めるようにフロイド先輩は近付いてくる。その繰り返しをしていたらついに大きな木が背中に当たった。良かった人じゃなくて。いや、この場合は良かったのか?
 そんなことを考えていたら不意にフロイド先輩がわたしを見て、おいでとばかりに腕を広げた。

「小エビちゃんだいすきー」
「先輩かっわいいな⁉ ……あっ、」
「あは、小エビちゃんの負けー」

 そう言ってフロイド先輩はその長い手足で私の身体を拘束すると、にっこりと笑ったままに顔を近付けて――

「小エビちゃーん? 息してる?」
「フロイド先輩……こえびには、これはまだ刺激が……」
「はいはい。早めに慣れるように頑張ってねー?」

 一体あれだけ騒ぎを起こしておいてなんだったのか? とのちにエースとデュースに言われた事件。わたしも本当にそう思うよ。


*****


 恋に賞味期限はありますか? あるならそれは何年ですか?
 きっとそれは努力と歩み寄りの積み重ねなのだろう。
 積み重ねていればきっと、賞味期限なんて来ないのかも知れない。
 まあ、フロイド先輩に飽きられたらわたしはもう、

(フロイド先輩と一緒に死ぬしかないんだけれども)

 そんなことを一瞬だけ考えていたらフロイド先輩が小さくくしゃみをした。
 本当に可愛いなぁ、と思っていたらそれが口から漏れ出ていたらしい。
 小さいリップ音と共に唇に柔らかな感覚がした。
 顔が熱い。茹でエビと表現されるのも確かに分かる。
 フロイド先輩の不意打ちに慣れないまま。きっと慣れても恥ずかしくて、でもそれ以上に幸せだと感じるから、恋とは恐ろしいものだ。
 心臓にはかなり悪いけれども、なんて言えばきっとフロイド先輩は拗ねるだろうから声に出しては言わないけれども。

「フロイド先輩」

 その代わりに、フロイド先輩の名前を呼ぶ。
 フロイド先輩はなぁに? と独特な間延びした声で返してくる。その声は何処か楽しそうだ。

「だいすきです」

 たまにはわたしだってフロイド先輩を驚かせたい。その一心で告げたそれは、フロイド先輩の耳から脳内に届くまで少しばかり時間が掛かったらしい。
 しばらくしてフロイド先輩は嬉しそうにふにゃふにゃとした顔でわたしを思いっきり抱き締めた。

「おれも小エビちゃんがだぁいすき」

 ――海の底に連れていってしまいたいくらいには、ね?

 なんて不穏な声が聞こえたが、別に構わない。
 フロイド先輩の居るところ、そこがわたしの居場所なのだから。


*****


「アズール。この小瓶を貰っても構いませんか?」
「いいですけど……何に使うんです?」
「別に、ちょっとしたコレクションですよ」
「はあ、お前も大概気持ち悪いな」
「ふふ。誉め言葉として受け取っておきます」

 監督生さんの恋心。それは決して僕には向けられることはないもの。
 だからこそ、その欠片でも欲しかった。その感情に触れて見たかった。
 この想いを監督生さんに告げることは永遠のその先ですらないけれども。

「綺麗な色でしたね」

 監督生さんの恋心はまるで、暗い海底から海面を見上げた時のような、そんな美しさを感じたのを今でも覚えている。
 監督生さんの恋心はあまりに綺麗だった。この手で穢してみたいくらいには。
 そんなことをすればフロイドと殺し合いになり兼ねないので今はしませんが。
 アズールから渡された小瓶を見つめる。そこには今はもう何もない。ただの透明な小瓶でしかない。
 でも、これには確かに在ったのだ。監督生さんの『心』が。
 そんなことを思いながらニコニコと小瓶を見つめていればアズールは呆れたように溜め息を吐いていた。当たり前だがその程度のことには意にも介さず、僕はそう言えば、と今思い出したかのように声を発する。

「知っていますか? アズール」
「嫌な予感がするので聞きたくありませんね」
「まあまあ、そう言わず」

 ――恋というものには、寿命があるそうですよ?

「それはどうやら、更新出来るものらしいですが」

 ふふ、と微笑みながらそう言えば、アズールはどうでも良さそうに僕を見て「お前たちにはこれからも困らされそうです」とやれやれと肩を竦められた。
 アズールのその言葉に僕は何も返さず、その代わりに手の中にある小瓶をこの世界の何よりも大事なものであると告げるように胸に抱きかかえた。
 きっとこの感情が表に出ることはないのだろう。あの二人が知ることも、きっとない。
 だからこそ、この小瓶に自身の想いを詰めるように抱き締めるのだ。

(まあ、フロイドが諦めるようなら僕も我慢はしないのですが)

 きっとそんな日も来ないのでしょうねぇ。
 だから僕はただ自分の腕の中にある小瓶を見つめ、まるで大切なものにでも向けるかのような顔で微笑みかけるのみ。





 この恋が終わるその時まで、あなたに恋し続けます。
 まるでおとぎ話にでもある呪いのような、そんな恋だと。
 あなたは笑ってくれるでしょうか。





「フロイド先輩」
「なぁに? 小エビちゃん」
「わたしがもしも先輩から離れそうになったその時は、」

 どうかわたしを、其処へ連れて行ってくださいね?

「意外。……小エビちゃんって結構俺のこと好きだったんだね?」
「何言ってるんですか。当然じゃないですか」

 でなければ付き合ってなんていないが? と、フロイド先輩を見やれば、フロイド先輩の顔は完全ににやけていた。
 これはどこからどう見てもバカップルというやつである。発言さえ聞かなければ、だろうけれども。

「お願いですよ、フロイド先輩」
「ふふ、いいよぉ。その代わり覚えておいてね? 小エビちゃん」

 俺は絶対に、小エビちゃんに飽きないからね?
 その言葉の意味はつまり。

「ふふ、嬉しいです」

 わたしが例え死んだとて、このヒトはわたしを離さないと言ったのだ。
 それがわたしの胸を射貫いたなんて、きっと。常人には理解できない感情なのかも知れないけれども。
 わたしが元の世界に帰る日は、きっと来ないだろう。
 それでもいいと、そう思っているのだから相当だなぁ。
 でも仕方ないか。こんなにも可愛いヒトに捕まってしまったのだから、仕方ない。
 責任を取って傍に居て貰わなくては。

「フロイド先輩。わたし、フロイド先輩が好きですよ」
「小エビちゃんは変な子だねぇ」

 そんな小エビちゃんも可愛くて大好き! とフロイド先輩に抱き締められた。








 呪いのようなこの恋心は、それでも確かにあなたの為に。
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