妖の王と巫女姫

結界で守られた人間の国と、善良なる妖が住まう大和国。
巫女たちが日夜結界の守護の為にその心を神に捧げている故に、悪しき妖は大和国には入って来れない。
その巫女たちの中でも選ばれし巫女。それが『巫女姫』である。
巫女姫はどの巫女よりも霊力が高く、神力が強い。まさしく神に選ばれた存在。
この国の誰でもが知っているような、そんな話だというのにとうの『巫女姫』が驚いたような表情をその常に浮かべている笑みに一瞬走らせた。

「私はそんな尊いモノではありませんよ」

「なれどお前は尊いモノなのだ」

「ふふ、其れをこの状況化で言います?」

「言う」

「蒼牙様は本当に奇特な御方ですね」

「褒めていないだろう」

「はい。褒めていません」

「素直に言うものだな……」

「巫女姫は純潔で純粋でなくてはならない。そんなおとぎ話のようなことがまだ語り継がれているのですね」

その話の通りでしたら、私は生まれてはいないのですけれどもねぇ。
そう言って頬に手を添えて困ったように頬笑む和泉に、私は難しい顔をする。

「これから初夜を迎えようという夫婦間で、堂々とした浮気宣言か?」

「まあ、ふふ。蒼牙様はお可愛らしい御方ですね。――これは真似事、でしょう?」

「……まあ、そうなのだが」

褥に押し倒した状態で和泉は微笑む。
巫女姫の証である長い白髪が布団の上に溶けるように流れている。
緑の瞳は柔和に細められ、まったくこの状況に動じていない。

「私が好きなようにしたいと思えば簡単に出来るのだがな」

「それでも貴方様はそんなことはなさらないでしょう?」

「……」

確かに、女の同意なしに事に及ぶ気はない。
そもそもこれは和泉の言った通り『真似事』だ。
初夜を共に過ごしたと、そういう事実だけがあればいい。
私に近い家臣には既に周知であるし、国主もそのことは分かっている。
なら何故こんな無意味な夜を過ごすのか。

「『人間の王だけが巫女姫を娶り子を生した、故にこの国の結界は弱まっている』などと、誰が流した噂なのでしょう」

「下卑た人か、妖かは分からぬが……噂というのは広がるのが早い。困ったものだ」

「お陰で私は妖の王の貴方様の元に嫁ぐことになりましたけれどもね」

「それはすまないと……いや、和泉。巫女姫たるお前も当事者だろう?」

「そうは言いましても、人間の王に嫁いだのは母ですので」

「そうだがな……そうなのだが、」

人間を憂う気持ちはないのか。民を思う気持ちはないのか。
そのようなことをつい、思ってしまう。
家臣からは笑われるなと思っていれば、和泉がこちらをジィっと見ていた。
なんだ?と問えば、少しの間ののちに和泉は口を開ける。

「蒼牙様は……お優しい」

「何を、」

言っているんだ。
やろうと思えば今からでもお前を犯せる男の前で、何を言っているんだこの女は。

「蒼牙様の御心はとても暖かい。優しさで溢れていますね。それがとても心地よいですが、少しばかり人間に肩入れし過ぎているのではありませんか」

妖の王よ。貴方はそこまでしてこの国に居続けたい理由でもあるのですか?

「……私、は、」

理由?理由なんて考えたこともなかった。
私が大和国の妖の王になってから数百年。
本当に一度も、考えたことがなかった。
其れを見抜いたのか、和泉は溜め息をひとつ吐くと言う。

「蒼牙様はとんだお馬鹿さんですね」

「なっ。」

「優しくて、その牙すらも失いましたか?」

「和泉、私は……っ」

「私は巫女姫。貴方様は妖の王。その意味は、立場は、決して変わりません。本来ならば交わることのなかった線でもあるのでしょう。けれども運命の因果は私たちを結ばせました。ならば私は其れに少しばかり応えてみようと思います」

そう言った和泉は私の頭をその胸に抱えて、トントンと赤子にするように背中をさする。

「……なんの真似だ」

「ふふ。蒼牙様を手籠めにしてみようかと思いまして」

「私がこんなことで手籠めにされると思っているのか?」

「いいえ、まったく」

「和泉、お前は……」

呆れたようにそれだけ呟いて、私は抱えられたままの頭を和泉の胸にもたれるように預けた。
良く分からない女だ、この巫女姫は。まったく掴めない。雲のように掴みどころがないと言えばいいのか。
だけれども、そうだな。

(存外、心音というのは心地よいものだ)

ゆっくりと規則的に聞こえる心の臓の音が酷く心地よくて、気付けば私はそのまま眠りに落ちていた。


次に目を開けた時、和泉の寝顔が間近にあったことにほんの少しだけ心の臓が跳ねた気がした。
その理由に気が付いたのは、もう少しあとのこと。
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