『鬼灯堂』
夫は大変な好色だ。
わらわというものが居ながら、他の女をとっかえひっかえ、良くもやる。
わらわは其れに呆れるしかなく、息子なんかは軽く軽蔑しておった。
ある夜、珍しく夫がわらわの閨に忍び込んできた。
「葛葉。起きているかな」
「……なんぞ」
緩慢な動きで応えれば、夫は至極当然のようにわらわの傍に寄る。
「ねえ、葛葉」
「わらわは眠いのだがの、なんぞ言いたいことでもあるのかえ?」
「貴重な睡眠時間を奪ってしまっていることは申し訳ないとは思っているけれども、そうだねぇ……何から話そうか」
「……言いたいことがないのであれば、他の女の元へでも行けば良かろうて」
何故わらわに拘る。何故わらわに関わろうとする。
「嗚呼、その話からにしようか」
「なんの話じゃ」
「葛葉。きみは私に――呪いでもかけているのかな?」
夫から漏れ出た言葉に、わらわは無言を貫いた。
肯定と取られても仕方のないことであっても、何も言うことは出来ないのだ。
これは『奴』との約束だでの。
「葛葉。私はね、きみを心から愛しているよ。本当に、この心すべてをかけても、いや、あげても良いとさえ思っている。それくらいきみを愛しているのに……どうして私は他の女の元に行くのだろう」
そう考えた時に、ふと思い至ったんだ。
「きみが僕に呪いをかけているんだって、ね?」
「何。興味がなくなっただけのことよ」
「それは私にかい?それともこの生活に?」
「すべてじゃ。すべてに興味など無くなってしまった。わらわは、」
つい、と長く白い人差指で言葉を紡ごうとした唇を止められた。
「その先は、言ったらダメ」
「……お前様はどこまで知っておる」
「私は葛葉のことならどこまでも知りたいと思っているよ」
「答えになっておらん」
「きみだって、言葉としては返してくれなかったじゃないか」
言葉として欲されても、わらわは困る。
何故ならわらわは、明朝にはこの屋敷から姿を消す身なのだから。
「……のう、保名」
「おや、珍しく私の名を呼んだね」
「わらわは、こんなモノ要らなんだ」
「葛葉?」
「再度問おう。――どこまで知っておる」
「そうだなぁ。私が知ってるのは、きみが、狐の妖怪だということと、どうしようもなく、私を想っていてくれていること。実のところ、このふたつしか知らないんだ」
「……そうかえ」
「今の答えじゃ不満かな?」
「否、その通りだからの」
だから困るのだ。困ってしまった故に、こうするのだがの。
「ねえ、葛葉。僕はもうきみ以外を見たくはないんだよ?こんな呪い早く解いてくれないかな」
「否、それは出来ぬ」
「どうして」
責めるような、咎めるような、そんな声にわらわの胸がキュッと締まったような気がした。
「のう、保名」
「なぁに、葛葉」
「わらわを真に愛しているというのならば、わらわに口付けしてくれぬか」
「……驚いた。そんなおねだりどこで覚えたの?きみになら幾らでもしてあげるけど」
「ならば、」
「でもね、どうしてかな。本能が今それをすることを拒絶するんだ」
「そうか……」
そうか。そこまで、お前様はわらわを想ってくれているのだな。
もう、それだけでわらわは満足じゃ。
「保名」
とびっきり甘い声を出した。夜を匂わせる、そんな声を。
保名はどうして良いか分からないような顔をしたあとに、「きみがそこまで望むのならば」と言って顏を近付け、ソッと触れるような口付けをくれた。
「……え、」
離れた時、保名はきょとんとした顔をしていた。
今にも泣き出して、怒りたいのに、まるでそれすらも出来ないような。
「……葛葉、なに、したの?」
「お前様から『わらわを想う心』を奪った」
「どうして」
「わらわ達は何れ離れゆく身。離れた時にわらわを想う気持ちがあっては、邪魔であろう?」
「そんなことはないのに、どうしてそんなことしたの」
「わらわとてお前様を想っている。想っている故にこうするしかなかったのじゃ」
「……それは葛葉。きみが傷つきたくないだけでしょう。私はきみが居なくなったその先も、きみだけを愛していたかったのに」
保名が引き攣った顔をわらわに向けた。
嗚呼、知っておったのか。わらわが居なくなる身だということを。
知っておったのか。我が夫は、恐ろしい男じゃ。
「夜が明ければ、その苦しい想いもなくなる。わらわに何も感じなくなる。晴明も気に入れば、どんな人間でも妻に娶れば良い」
「……これは悪夢かな。呪詛でも吐かれている気分だ」
私はね、葛葉。きみと晴明と三人で完結した世界があれば、それだけで良かったんだよ。
「もはや叶わぬ夢よ」
「きみは切り捨てられるのかい」
「わらわは所詮、畜生じゃ。切り捨てるも何もなかっただけの話よ」
嗚呼、もうすぐ夜が明ける。
しらんできた世界に、わらわは立ち上がった。
保名がわらわを目で追い、わらわを捕えようとその手を伸ばした。
瞬間、わらわの身体は誰かに引っ張られる。
「さあ、帰ろう。葛葉」
その言葉を最後に、わらわに向かって腕を伸ばす保名を見つめた目すらも背後にいる男の大きな手で覆い隠される。
わらわが最後に見た最愛の夫の姿は、なんともまあ間抜けな、けれども必死にわらわを求めようとしてくれた。
――そんな姿であった。
きっと保名は他の女を娶るであろう。
保名が好きな、優しい心を持った人間の女を。
わらわの出番は終わりだ。
こんなにもつらい思いをするくらいならば、わらわは二度と恋などしない。誰かを愛することもしない。
わらわの最後は保名に捧げよう。
時は巡って、時間は過ぎて。
「やあ、久し振りだね。千年経ても相変わらず可愛いね。いや、美しさが増したと言うべきかな」
軽薄な笑みを浮かべる男が一瞬誰だか分からなかった。
分かりたくなかった。
――千年の時を経て、わらわ達は再び出逢ってしまった。
保名――今の名を英智の心に、わらわへの想いの欠片もない状態で。
英智はわらわを何度も口説いた。
まるでそうすることが義務なことのように。
何度か繰り返すうちに分かった。
英智の中に保名の心の片鱗が居ることに。
故に英智はわらわに囚われる羽目になっているのだと。
可哀想に、そう思う反面。姿形は違っても、魂の形が同じこの世でもっとも愛おしいモノに求められる感覚に浸りたくて。
浅ましいのぅ。本当にわらわは浅ましい。
「小僧」
「どうしたの?」
「わらわに口付けてみるかえ」
「……その話は、笑えないな」
「そうかえ?悪い話ではないと思うがのう」
「うん。とてもじゃないけど笑えない」
あと、きみ。ぜんっぜん信じてくれてないんだね。
「僕は、きみを愛おしく想っているよ」
「嘘つきよのぅ。そのような男は嫌われるぞえ」
「嘘なものか」
「……小僧?」
「……どうしてこんなにも距離は近いのに、どうしてこんなにも遠いのかな」
「其れが人と化け物の違いよ」
ふふ、とわらわは笑って誤魔化した。
もう二度と、愛しいものにあんな顏をさせたくはなくて。
心というものは、面倒よのう。
在ればあるで、斯様に面倒なものはない。
「さあ、帰れ。お前様の居る場所はこんな場所ではないぞえ。小僧よ」
「……そう、だね。帰るよ」
「嗚呼、そうすると良い」
「ねえ、ひとつだけ覚えておいて?」
英智がわらわに背を向けながら言葉を発する。
「きみを想うだけで心が引き裂かれそうな記憶でも、想いでも、……僕からはもう、きみに関する何をも奪わないで」
そう言って英智は去って行った。
あとに残ったわらわはぽかんと口を開けた間抜けな顔を晒してしまう。
幸いこの『鬼灯堂』には誰も居ないが。
しかしながら、どうして。どうして、そんな言葉を言えるのだろう。
お前様の中から、わらわは確かに『わらわを想う心』を奪った筈なのに。
「どうして……」
そんな呟きが『鬼灯堂』に静かに響いた。
わらわというものが居ながら、他の女をとっかえひっかえ、良くもやる。
わらわは其れに呆れるしかなく、息子なんかは軽く軽蔑しておった。
ある夜、珍しく夫がわらわの閨に忍び込んできた。
「葛葉。起きているかな」
「……なんぞ」
緩慢な動きで応えれば、夫は至極当然のようにわらわの傍に寄る。
「ねえ、葛葉」
「わらわは眠いのだがの、なんぞ言いたいことでもあるのかえ?」
「貴重な睡眠時間を奪ってしまっていることは申し訳ないとは思っているけれども、そうだねぇ……何から話そうか」
「……言いたいことがないのであれば、他の女の元へでも行けば良かろうて」
何故わらわに拘る。何故わらわに関わろうとする。
「嗚呼、その話からにしようか」
「なんの話じゃ」
「葛葉。きみは私に――呪いでもかけているのかな?」
夫から漏れ出た言葉に、わらわは無言を貫いた。
肯定と取られても仕方のないことであっても、何も言うことは出来ないのだ。
これは『奴』との約束だでの。
「葛葉。私はね、きみを心から愛しているよ。本当に、この心すべてをかけても、いや、あげても良いとさえ思っている。それくらいきみを愛しているのに……どうして私は他の女の元に行くのだろう」
そう考えた時に、ふと思い至ったんだ。
「きみが僕に呪いをかけているんだって、ね?」
「何。興味がなくなっただけのことよ」
「それは私にかい?それともこの生活に?」
「すべてじゃ。すべてに興味など無くなってしまった。わらわは、」
つい、と長く白い人差指で言葉を紡ごうとした唇を止められた。
「その先は、言ったらダメ」
「……お前様はどこまで知っておる」
「私は葛葉のことならどこまでも知りたいと思っているよ」
「答えになっておらん」
「きみだって、言葉としては返してくれなかったじゃないか」
言葉として欲されても、わらわは困る。
何故ならわらわは、明朝にはこの屋敷から姿を消す身なのだから。
「……のう、保名」
「おや、珍しく私の名を呼んだね」
「わらわは、こんなモノ要らなんだ」
「葛葉?」
「再度問おう。――どこまで知っておる」
「そうだなぁ。私が知ってるのは、きみが、狐の妖怪だということと、どうしようもなく、私を想っていてくれていること。実のところ、このふたつしか知らないんだ」
「……そうかえ」
「今の答えじゃ不満かな?」
「否、その通りだからの」
だから困るのだ。困ってしまった故に、こうするのだがの。
「ねえ、葛葉。僕はもうきみ以外を見たくはないんだよ?こんな呪い早く解いてくれないかな」
「否、それは出来ぬ」
「どうして」
責めるような、咎めるような、そんな声にわらわの胸がキュッと締まったような気がした。
「のう、保名」
「なぁに、葛葉」
「わらわを真に愛しているというのならば、わらわに口付けしてくれぬか」
「……驚いた。そんなおねだりどこで覚えたの?きみになら幾らでもしてあげるけど」
「ならば、」
「でもね、どうしてかな。本能が今それをすることを拒絶するんだ」
「そうか……」
そうか。そこまで、お前様はわらわを想ってくれているのだな。
もう、それだけでわらわは満足じゃ。
「保名」
とびっきり甘い声を出した。夜を匂わせる、そんな声を。
保名はどうして良いか分からないような顔をしたあとに、「きみがそこまで望むのならば」と言って顏を近付け、ソッと触れるような口付けをくれた。
「……え、」
離れた時、保名はきょとんとした顔をしていた。
今にも泣き出して、怒りたいのに、まるでそれすらも出来ないような。
「……葛葉、なに、したの?」
「お前様から『わらわを想う心』を奪った」
「どうして」
「わらわ達は何れ離れゆく身。離れた時にわらわを想う気持ちがあっては、邪魔であろう?」
「そんなことはないのに、どうしてそんなことしたの」
「わらわとてお前様を想っている。想っている故にこうするしかなかったのじゃ」
「……それは葛葉。きみが傷つきたくないだけでしょう。私はきみが居なくなったその先も、きみだけを愛していたかったのに」
保名が引き攣った顔をわらわに向けた。
嗚呼、知っておったのか。わらわが居なくなる身だということを。
知っておったのか。我が夫は、恐ろしい男じゃ。
「夜が明ければ、その苦しい想いもなくなる。わらわに何も感じなくなる。晴明も気に入れば、どんな人間でも妻に娶れば良い」
「……これは悪夢かな。呪詛でも吐かれている気分だ」
私はね、葛葉。きみと晴明と三人で完結した世界があれば、それだけで良かったんだよ。
「もはや叶わぬ夢よ」
「きみは切り捨てられるのかい」
「わらわは所詮、畜生じゃ。切り捨てるも何もなかっただけの話よ」
嗚呼、もうすぐ夜が明ける。
しらんできた世界に、わらわは立ち上がった。
保名がわらわを目で追い、わらわを捕えようとその手を伸ばした。
瞬間、わらわの身体は誰かに引っ張られる。
「さあ、帰ろう。葛葉」
その言葉を最後に、わらわに向かって腕を伸ばす保名を見つめた目すらも背後にいる男の大きな手で覆い隠される。
わらわが最後に見た最愛の夫の姿は、なんともまあ間抜けな、けれども必死にわらわを求めようとしてくれた。
――そんな姿であった。
きっと保名は他の女を娶るであろう。
保名が好きな、優しい心を持った人間の女を。
わらわの出番は終わりだ。
こんなにもつらい思いをするくらいならば、わらわは二度と恋などしない。誰かを愛することもしない。
わらわの最後は保名に捧げよう。
時は巡って、時間は過ぎて。
「やあ、久し振りだね。千年経ても相変わらず可愛いね。いや、美しさが増したと言うべきかな」
軽薄な笑みを浮かべる男が一瞬誰だか分からなかった。
分かりたくなかった。
――千年の時を経て、わらわ達は再び出逢ってしまった。
保名――今の名を英智の心に、わらわへの想いの欠片もない状態で。
英智はわらわを何度も口説いた。
まるでそうすることが義務なことのように。
何度か繰り返すうちに分かった。
英智の中に保名の心の片鱗が居ることに。
故に英智はわらわに囚われる羽目になっているのだと。
可哀想に、そう思う反面。姿形は違っても、魂の形が同じこの世でもっとも愛おしいモノに求められる感覚に浸りたくて。
浅ましいのぅ。本当にわらわは浅ましい。
「小僧」
「どうしたの?」
「わらわに口付けてみるかえ」
「……その話は、笑えないな」
「そうかえ?悪い話ではないと思うがのう」
「うん。とてもじゃないけど笑えない」
あと、きみ。ぜんっぜん信じてくれてないんだね。
「僕は、きみを愛おしく想っているよ」
「嘘つきよのぅ。そのような男は嫌われるぞえ」
「嘘なものか」
「……小僧?」
「……どうしてこんなにも距離は近いのに、どうしてこんなにも遠いのかな」
「其れが人と化け物の違いよ」
ふふ、とわらわは笑って誤魔化した。
もう二度と、愛しいものにあんな顏をさせたくはなくて。
心というものは、面倒よのう。
在ればあるで、斯様に面倒なものはない。
「さあ、帰れ。お前様の居る場所はこんな場所ではないぞえ。小僧よ」
「……そう、だね。帰るよ」
「嗚呼、そうすると良い」
「ねえ、ひとつだけ覚えておいて?」
英智がわらわに背を向けながら言葉を発する。
「きみを想うだけで心が引き裂かれそうな記憶でも、想いでも、……僕からはもう、きみに関する何をも奪わないで」
そう言って英智は去って行った。
あとに残ったわらわはぽかんと口を開けた間抜けな顔を晒してしまう。
幸いこの『鬼灯堂』には誰も居ないが。
しかしながら、どうして。どうして、そんな言葉を言えるのだろう。
お前様の中から、わらわは確かに『わらわを想う心』を奪った筈なのに。
「どうして……」
そんな呟きが『鬼灯堂』に静かに響いた。