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「彦星さまは、壊れてしまったのね」


長い珠のような輝きを発する黒髪を寝台に流しながらそう言えば、彦星さまは薄く笑った。


「壊れてる?俺のどこが壊れているんですか?」

「わたくしの知っている彦星さまは、そんなお顔を為さらないわ」

「これが俺ですよ。俺なんですよ、織姫」


「でも、」と開いた唇を唇で塞がれた。
くちゅ、と濡れた音と共に銀糸が互いの間を伝う。


「時間は無限にありますが、それでも俺はそんな話をしていたくはないですよ」

「……やっぱり、彦星さまは変わられたのね」


わたくしの問いいは答えずに、わたくしの首を這うように口付ける彦星さまに、届けるつもりのない言葉を紡ぐ。


ああ。嗚呼。彦星さま。
時間は確かに無限でしょう。
貴方はわたくし達の間を隔てていた天の川に橋を架けられる今日、そうしてしまったのだから。


(彦星さま…)


顔をあげてわたくしを見つめる彦星さまは微笑んでいる。
とても逢いたかったひとなのに。
とても恋焦がれていた方なのに。


――どうして今はこんなにも胸が詰まる思いがするのだろう。


そうっと寝台に投げ出した腕を上げ、彦星さまのお顔を撫でる。
彦星さまは擦り寄るように頬を押し付けてきた。
その際にぬちゃ、と粘ついた音が耳に障る。


「湯浴みを…」

「すみません。今はその暇すら惜しい」

「時間は無限だと仰ったのは、貴方ですのに」

「そうですね。その通りだ」


彦星さまの顔を触るわたくしの手の上に重ねるように手のひらで覆う。
その手に染まる、赤い色。
小指に繋がる赤い糸のようなその色に、瞼を伏せた。


彦星さま。


声もなく、音もなく、ただ、彦星さまの名を呟いた。


「どうしました?織姫」

「……ふふ、呼んでみただけですよ」

「貴女に名を呼ばれるのは嬉しいですね。もっと、たくさん呼んでください」

「はい。彦星さま」


彦星さま。彦星さま。
名を紡ぎながら、彦星さまからの愛撫を受ける。


(貴方が壊れてしまったのなら、その原因がわたくしなのなら。――わたくしが行うのはひとつでしょう)


「お慕いしております。彦星さま」

「俺も、愛してますよ。織姫」


唇に羽根のように軽い口付けが落とされた。
そこから何度も何度も軽い口付けを落とされるのを瞼を伏せて受け入れる。
彦星さまの広い背に腕を回した。
そっと彦星さまに頭を撫でられる。


わたくしの手にも染まったであろう赤に、おぼろげに溶けていく思考の中で考える。


(この赤は、お父様の赤)


お父様だけじゃない。
この宮殿に居る全ての者達の赤。
永く離れている間に壊れてしまった彦星さまが、わたくしと二人きりで永久を生きるために行った、とても悲惨な行動。
だけどもわたくしはそれを咎めようとは思わない。
ただ、はじめに言ったように。
わたくしは壊れてしまった彦星さまを憐れむでもなく、怒るでもなく、ただ、ただ……


(いとしいと思うのです)


わたくしのせいで狂ってしまわれたこの方が本当にいとしい。
父を、そして臣下を殺されて尚、そう思っている時点で、わたくしも大概、壊れているようだ。


「彦星さま。たくさん愛してくださいね?」

「言われるまでもなく。たくさん愛してさしあげますよ。――永遠に」


彦星さまの言葉に「嬉しい」と微笑めば、彦星さまも同じ様に微笑んでくださった。



血の臭いといとしい彦星さまの匂いに包まれて。
壊れてしまった貴方と同じ場所まで、わたくしも共に参りましょう。
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