2014年クリスマス

「ああ、全く、本当に困ったな」


暗く染まった夜空を見上げながらぽつりと呟いた。
その言葉を投げかけた存在達は地面に紅を広げながら転がっている。
その内存在自体消え去るだろう。
天使というのはそういうものだ。
死ねば天へと還り、神の懐の下でまた新たな命を得るまで眠り続ける。
天使とは本当にくだらない存在だ。
刷り込みのように神に忠誠を誓わされ、その生死や感情すらも神の手のひらの上で転がされる。
神に逆らえば堕天の証を背負わされ、楽園を永遠に追放される。
そんな堅苦しい世界で生きながら、それが息が詰まるような世界だと思いもしない。
楽園に居た頃の僕が、正しくそうであったように。


「ああ、早くミレットを抱き締めたいな」


年に一度のこととはいえ、彼女の傍から離れてこんなくだらない存在を相手にしなくてはいけないなんて。
神の子が産まれたこの日は神の力が最も強まる忌まわしい日。
巧妙に隠している僕達の居場所が、どうしたって露見してしまう。
それでも正確な位置までは分からないようなので、彼女を家に残して異端である僕達を追う存在を始末する。


大好きで大切で何よりも愛しい存在。
ミレット。君に出逢って、僕の世界は明らかに変化した。
恋は人を変えるというが、それは天使であった僕でも例外ではなかったようだ。
何せ虫すらも殺せなかった僕が、今こうして歯向かってくる同族の血で手を汚しているのだから。


「僕は君達を赦さない」


存在が消えゆく亡骸に、そう吐き捨てた。



**



明るく無邪気でまるで人間の世界に輝く太陽のような暖かさを持った彼女に出逢ったのも、そんな彼女に恋をしたのも、きっと必然のことだった。


「フィル。好きだよ」


そう言われ、微笑まれる度に、心臓が締め付けられるような悲鳴をあげる。
それが嫌だと思えなかった。
むしろその痛みを心地よいとさえ思っていたから。
僕に愛を囁く彼女が愛おしくて堪らない。
この感情は誰に咎められることでもない、当然のことだと思っていた。
誰かを愛する心は美しく、大切にしなくてはいけないものなのだと神は言っていた。
だから彼女を愛し、大切に想った僕は何も間違ってなどいないのだと。



――本当にそう思っていた。



なのに、



「あのような穢らわしい存在を愛するなど、アナタは神を裏切るつもりですか」


呼び出された部屋で天使長に言われたその言葉の意味を、僕は全く理解することが出来なかった。


『穢らわしい存在』?

『神を裏切る』?


何故彼女をそんな風に言うのか、何故彼女を愛しただけで神を裏切ることになるのか。
愛する心は美しいと、大切にしなくてはいけないものなのだと。
そう言ったのは神そのものだと言うのに。
天使長は困惑する僕に気付かず、顔を顰めながら更に言葉を続けた。


「アナタを誑かしたあの穢らわしい存在は早々に始末致します。アナタの記憶の中からもその存在を消すことになるでしょう」


「理解しなさい」


混乱する思考の中でその言葉が脳内に染み渡った時、僕は冷静さを失った。




気付いたら天使長は倒れていた。
純白の服は紅く染まっていた。
僕の手も、服も、紅かった。


「……助けにいかないと……」


呆然と紅く染まった手を見つめながら呟いた声は何処か遠くに響きながらも、早く早く彼女の元へと行かなくてはと踵を返す。
紅を広げながら転がる天使長のことなどとっくに僕の思考の中から消え去っていた。


そうして彼女の元へ急いで駆けつけた僕が目にしたのは、倒れた彼女を取り囲む同族達。
彼女の白い肌には紅が見えた。
目の前が紅く染まるという感覚を、僕は初めて体感した。
彼女を取り囲む同族達を薙ぎ払い、抱き起こした彼女の名前を何度も呼んだ。
彼女はかろうじて、と言わんばかりにゆるりと瞼を持ち上げると、はくはくと唇を動かした。
どうしたの?と声を掛ける僕に、彼女は唇を動かす。けれど何度動かしても唇から彼女の声が聴こえることはない。
どうしたのかと何度も問い掛け、そうして気付いた。


彼 女 の 喉 が 引 き 裂 か れ て い た こ と に。


どくどくと流れる黒い血液は止まらない。
彼女の瞳からは少しずつ光が失われていく。
このままでは彼女が居なくなってしまうと。失ってしまうと。
そう思ったら、耐えられなくて。
自分の手首を噛み切り血液を口に含むと、彼女の唇に口付けた。
ごくり、と僕の血液を飲み込んだのを確認すると、そっと唇を離す。
その瞬間。びくん、びくんと彼女は身体を跳ね上がらせる。
天使の血は彼女にとってはただの毒だ。けれど彼女の命を繋ぎ留める為にはコレしか方法がない。
苦しそうに目を限界まで見開いた彼女は、けれどそれでも悲鳴を上げることすら出来ずに、気を失った。
弛緩した身体を抱き上げて、黒い血液を流し続ける喉に軽く触れ合うように口を付け、囁くように呟いた。


「君を傷付ける存在を、僕は赦さない」


絶対に、赦せない。
噛み締めるように吐き捨てて、彼女を連れて住み慣れた世界も、幸せだと思えていた場所も、何もかも捨てた。




――その時から、僕と彼女の逃避行は始まったのだ。




「ただいま。ミレット」


今の住処にしている家に帰り、ベッドで横になっていたミレットに声を掛ける。
ミレットは僕の声に反応して身体を起こす。
おかえり、と唇を動かしたミレットに微笑む。
そのまま抱き締めてしまいたい衝動をグッと抑えて、返り血で赤黒く染まった服を着替える。
天使の血が付いた服では、ミレットを穢してしまう。
ただでさえあの一件以来身体を弱らせているというのに。
それ以前に、僕以外の存在がミレットに触れることを許すことなんて出来ない。
考えただけで怒りを覚える。


そんな感情を抱いていた僕は気付かなかった。
着替える僕をミレットが哀しそうに眉を寄せながら見ていることに。









何が間違っていたのだろう。
私がフィルを愛したことがそもそもの原因なのだろうか。
天使と悪魔。
相容れない存在同士が惹かれあうなど決して赦されていいことではないと分かっていたのに。
どうしたってフィルに会うことをやめることが出来なかった。
悲劇しか待っていないと分かっていたのに。
私はその近しい未来のことを見ない振りをしてしまった。


――その結果がこれだ。


天使に引き裂かれた喉は声帯を失い、声を発することが永遠に出来なくなった。
そして私の身体に巡らされたフィルの血が、私を生かす代わりに悪魔ですら無くしてしまった。
けれどだからと言って天使になれた訳でもない。そうなれたなら話は簡単に解決してしまうのに。
私は悪魔でも、天使でも、ましてや人間でもないものに成り果ててしまったのだ。
まあ、それはいい。
フィルが私を想い、救おうとしたことなのだから。咎める気は起きない。
それでも、と思う。


(フィルは私のせいで可笑しくなってしまった)


優しく穏やかであった筈のフィルは今、何の感慨もなく同族をその手に掛ける。
そのことをフィルから聞いたことはない。
けれど匂いに敏感な悪魔の嗅覚は、フィルが放つ強い血の匂いを確実に拾う。
虫も殺せなかったフィルが。
私を守る為にその手を紅に染めてしまう。
あんなにも綺麗な手だったのに。


もうやめて欲しいと言いたいのに。
私にはそれを伝える術がない。
それ以前に、フィルは私の言葉を聞こうとはしないのだ。
想いが通じないということではない。
ただ、フィルの都合の悪い。例えばこの関係を終わらせようとする素振りを見せると、美しいまでの笑みを浮かべながら「赦さないよ?」と、まるで愛を囁くように拒絶するのだ。


きっと出逢わなければ、こんな酷いことにはならなかったのだろう。
フィルを可笑しくすることも、その綺麗な手を紅く染めさせることもなかったのだろう。


――嗚呼、それでも、それなのに。
この関係を本気で終わらせる気が湧かないのはどういうことだろう?


(私も可笑しくなってしまったのかしら?)


それとも最初から可笑しかったのだろうか?
天使と悪魔が惹かれ合うだなんて、そんな摩訶不思議なことが起きたのだから。


(私達はどこまで行くのだろう)


どこまで行って。どこに行き着くのか。
そんなことはきっと、いつまで経っても分からないのだろう。
けれど、


(フィルと一緒に居られるなら、それだけで私は幸せだわ)


例えばフィルを不幸にさせたって。
私は自分からフィルと離れるということができないのだから。


(ごめんなさい、フィル)


それでも、


「どうしたの?ミレット」


私の視線に気が付いたのか、着替え終わったフィルは優しく微笑み掛けてきた。
そんなフィルに私も微笑みを返して唇を動かす。
私の声なき声を聞いたフィルは蕩けそうなほど顔を綻ばせる。


「うん。僕も愛してるよ、ミレット」


そう囁きベッドに腰掛けたフィルは私を抱き寄せると、傷付いた喉にそっと口付けた。
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