幸福の海に眠る/寄稿作品

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「問うて、返ってくる言葉もなしに」
 己の妻だったモノは今は腹の中。静かに、しかし着実と己の力となっている。あまりにみなぎるその力に恐怖さえ抱くほどだ。
 壁に散った鮮血を指で撫で掬い、口の中に入れた。ほのかに甘味を帯びた其れを口の中でじっくりと味わう。

「己の妻は、酷なことをしてくれるものだ」

 己はもう何も欲さない。贄の花嫁は要らない。己はもう、誰も喰いたくない。あの娘以外。己の妻以外。この腹を満たすのは、これで最後だ。
 この海を支配する己の力が尽き、それで地上の人間が滅びたところで己は知らない。其れを傲慢だと言われようとも己はもう喰いたくはないのだ。

「見損なったか?」

 腹を撫で、そこに在る妻に声を掛ける。返ってくる言葉がないことを知りながら。それでもきっと、これは繰り返し行われるのだろう。己が力尽きるまで、永遠に。
 この胸に巣食う感情を、愛などと陳腐な言葉で片付けることはするつもりはない。

 これは――執着。あの娘に対する、執着だ。

 それもまた、神の傲慢というやつなのだろうか。それもまた良しとしよう。何せ己は神なのだから。そうして彼の娘は己の嫁。

「神嫁、とでも言われるのであろうな」

 己の神嫁など望まれてはいないだろうが、それでも己は消滅するその時まで彼の娘を妻と呼び続けよう。

「――この感情を、人は幸せと呼ぶのだろうか」

 人間の血肉を浴びて醜い痣を得た海神は、人間の血肉で満たされた腹をさする。
 誰も居ない海の底、海神はひとりきり。力尽きるその瞬間を待ち望むかのように己の神嫁と共に深い深い眠りについた。
 この後、醜い痣を持った海神の姿を見たモノは誰も居なかった。
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