幸福の海に眠る/寄稿作品

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 深い海の色と同じ青色の髪と、あまりに美しい赤い瞳に見惚れてしまったのを私は今でも覚えている。

 ――時は過ぎるのは早い。あっという間三日過ぎてしまった。

 ようやくだ。ようやく海神様のお力になれる。海神様に喰われ、その腹の中でひとつになることで村は救われる。海神様はきっと約束を守ってくださる御方。何も心配することはない。
 流れモノの私を育ててくれた村で私が『花嫁』に選ばれた。それは恐ろしいほど人が死ぬことを意味している。少しでも私という存在が役立つなら、恩を返せるなら。この身この命など何も惜しくはない。死ぬことは怖くない。

 ああ、けれども。海神様が三日前に見せた悲しそうな顔は気になった。綺麗なお顔を歪ませてしまったことに罪悪感を覚えてしまった。
 神様というのは美しい存在だと思っていたけれども、私の想像通り海神様も綺麗だった。その顔を歪ませてしまったのは、とても悲しい。

「約束ですよ、海神様」

「……嗚呼」

 小さく頷いた海神様は三日前と同じ悲しそうな顔をされた。何が原因でそのように悲しそうな顔をさせてしまうのだろう。
 私が居なくなるから、だなんて、そんな甘い幻想は夢見ていないけれども。
 何故、海神様はそのように悲しいお顔をされるの? そのお顔を見ていると、私も何故だか苦しくなる。胸が締め付けられたような、そんな感覚に陥るの。

「……妻よ、お前に問いたいことがある」

「なんですか?」

「お前は己の顔にある痣を……醜いと思うか?」

「いいえ、まったく」

 それは素直に出て来た言葉だった。心の底からの言葉だった。
 海神様はそのお顔の鱗のような痣を気にされているみたいだったけれども、私にはとても美しく見えたから。

「海神様のような素敵な神様に一時でも『妻』と呼ばれ、喰われるのであれば本望です」

 素直に思ったことを伝えれば、海神様は目をまぁるくされて、そして困ったように笑われた。

「己は、己の顔を醜いと思っている。故に思うのだ」

 お前がそう言ってくれるのであれば。己はもう己の痣に拘るのはやめよう。

「――時は満ち足りた」

 海神様の言葉で、この海の底では見えないけれどもきっと月が天に登ったのだろうことが分かった。私は静かに微笑む。

「ありがとうございます、海神様」

「……礼を言われるとはな」

 海神様の気分ではなく、私のお願いを聞き入れ村を救って欲しいとの願いを聞いてくれたことへの感謝の意味も込めてそう言ったつもりだった。
 なのに、私の中に生まれたこの感情の名前はなんだろう?
 私はもうすぐ目の前の優しい神様の腹の中に納まる。死ぬこと自体は怖くない。痛みも海神様に与えられるならば甘受出来る。
 けれども恐ろしいのは、海神様をひとりにすること。また新たなる『花嫁』が選ばれたら、海神様はその娘のことも『妻』と呼ぶのだろうか。
 そう思うと胸の奥が痛い。喰われることは涙が出そうなほど嬉しいのに。離れるのはとても苦しい。ほんのひと月、海神様と在れた時間が幸せ過ぎたのだ。

「怖いか」

「いいえ、ちっとも」

「なら、何故泣く?」

「どうしてでしょう?」

「茶化すな」

「ふふ。……きっと、海神様があまりにも優しい神様だからでしょうね」

「……己を優しいと言うか」

 海神様はそれだけを言うとその深い海のような髪と同じ色の睫毛を伏せて、鮮血のような瞳を閉じた。

「もう、何も言うまい」

 言葉は要らぬとばかりに海神様はその姿を変えられた。瞬きの間に大蛇が現れ、私の身体に近付く。
 その身体は海のような色をしていて、その瞳は鮮血のように赤く。間違いなく海神様だ。
 私は自分の身体を差し出すように腕を前に広げた。愛おしい神様は、少しだけ戸惑うような、躊躇うような、そんな仕草をしたのちに大きく口を開けられた。
 この大蛇に私は喰われる。神の一部になる。そうすれば村を飢饉から救える。
 そう思えば何も恐怖が湧かなかった。海神様と離れるのは少しだけ寂しかったけれども。
 まるで私の心に応えるようにぼろりと真っ赤な瞳から一粒の大きな雫が落ちて来た。

「海神様?」

 問うて、返ってくる言葉はなし。本当に言葉は要らないのだと言うように。だから私もこれ以上は何も言わなかった。
 大きな口が、私を飲み込むのに時間は掛からなかった。
 辺りに散った鮮血も、肉片も、私は知らないままに。私という人間の生は呆気なく終わった。
 喰われる寸前、何かを言われたような気もしたけれども、もちろんのように喰われた私には何も届かなかったけれども。

(お慕いしておりました、海神様)

 きっとこれが、私の本心。
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