幸福の海に眠る/寄稿作品

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 それはあまりに唐突な言葉であった。

「海神様、私を喰らってくださいませ」

 何故、この娘はそのような甘い声で残酷な言葉を吐くのだろうか。
 蜜のような甘さを宿す瑠璃色の瞳で、あまりに酷なことを言ってくれるものだと笑いたくなった。けれども笑い方など知らない己が、そのような表情も出来るわけなく。
 己が忌み嫌われているのは知っている。それはあまりに当然のことのように生まれてからずっと『そう』だったからだとも言えるだろう。
 産み落とした母神にも嫌われ、血が交わる兄妹神にも嫌われ、傍仕え達にも忌まわれる。

 とはいえ、其れも当然なのだろう。己の顔は見れたものではないようなあまりに醜い痣がある。
 産まれ落ちるその瞬間に人間の血肉を浴びたからだ。己は醜い痣と共に、人間の血肉なしでは生きられない神となったのだ。
 ささやかながらの恩情で、母神が己の住まう国の海に生贄制度なんてものを作ったが、己はそんなものに興味はなかった。

 いっそのこと己の住まう国の海など荒れ果てて無くなってしまえとさえ思った。
 だからこそ今回の生贄にも何も感じていなかった。生贄は数年に一度大量の死者が出るほどに荒れる海を鎮める為に、その年でもっとも霊力の強い人間の娘が選ばれる。
 己が血肉を喰らう為だけの理由で荒れる海の、なんと可笑しなものか。

 地上では『贄の花嫁』などと呼ばれてるらしい。花嫁だなどと、聞こえはいいが己にとっては単なる食事でしかない。
 娘は生きたまま海に沈められもう二度と地上を拝むことも出来ない。当然だ。己に喰われる為だけに生まれたのだから。それが地上でいうところの贄の花嫁の存在意義である。
 だから、今回は大層驚いたものだ。

「海神様? どうして私を喰ってはくださらないのですか」

 責めるような口調に、己は何も言えなかった。今までならば何も言わずに喰っていたというのに。
 どうして其れが出来ない。どうしてこの娘を生かして『妻』と皆に呼ばせている。
 己にはこの感情の名前が分からない。……分かりたくないとも思っている。理解してしまえばどうなるかくらい分かってもいる。

「何故、喰われることを望む」

 それは純粋な疑問だった。今までの贄たちは皆一様に震えていた。言葉を交わす前に喰った人間も居た。数日過ごした人間も居たが、涙をはらはらと毎日流すものだから段々と鬱陶しくなってすぐに喰った。
 この海の底に来る者達が皆、望んで来ているわけではないことも理解しているつもりだ。
 この娘にとって『死』というものは恐怖ではないのか。

「海神様。……私は海神様に喰われる為だけにこの海の底に来ました。海が荒れ、飢餓に喘ぐ村を救う為にです」

 私はその者達の為に、海神様に喰われなくてはならないのです。
 そうハッキリと言った娘の言葉に、己は何も言えなかった。
 己を見て畏れなかったモノは居ない。母神でさえ己が醜いからと己をこんな海の底に捨てたのだ。にも関わらず、この娘は己を見たその瞬間に「……綺麗」とただ一言漏らしたのだ。
 その言葉を聞いた瞬間、娘を喰らおうとした口が閉じた。心の臓が苦しくなった。己にそんな感情の揺らぎがあるのかと驚きもした。
 この感情に名は付いていない。否、付けるべきではない。

「海神様。どうか、村を思う私を救うと思い、私を喰らってはくださいませんか」

「……まだ、その時ではない」

「え、」

 それは咄嗟に出た嘘だった。

「満月の夜、三日後の晩に贄の花嫁を喰らうことで己の力は増幅する。故に、三日。そう、三日待て」

「三日、ですね」

「……嗚呼」

「約束ですよ」

「嗚呼、……約束だ」

 咄嗟の嘘とはいえ、神が交わした言葉は絶対。それを分からぬほど、己は阿呆ではなかった。
 己は三日後――この娘を喰らわねばならない。それが神が人間と約束をするということだ。
 分からぬほど、阿呆ではない筈だったのに。三日後など来なければ良いと思ってしまう。

「海神様? どうしてそのようなお顔をなさるのですか」

「分からぬ。己は一体、どのような顔をしている」

「とても、悲しそうな顔です」

「……悲しい、か」

 そうか、この胸に巣食う感覚を、人間は悲しいと言うのか。もう、あと戻りは出来ぬと言うのに、皮肉なものだ。

「妻よ、今宵は己の腕の中で眠ってはくれぬか」

「寂しがり屋さんですね、海神様は」

「嗚呼、……そうだな」

 寂しいなどと感じたことはなかったが、己は確かに今、この娘と離れることが寂しいのだろう。悲しいのだろう。
 娘は困ったように眉を下げて、それでもそれ以上は何も言わずに寝台に入る。己はそれを目で追いながら娘の横たわる寝台に滑り込む。そうして己の腕の中に抱えた。
 人の世でいう『幸せ』というものを体現するならば、きっとこのようなことを言うのだろう。
 娘の体温を感じながらそんなことを考え、寝息を立てる妻と呼んだ娘の顔を見つめて、己も眠りについた。
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