世界を壊したかった王子と、世界に愛されたかった魔女

「逃げろ」

開口一番にそう言ったのはこの国の王子。
私はきょとんとした顔を向けた後に、ふふ、と笑う。

「どうやら私は貴方をちゃんとたぶらかせたみたいね」

「そう言う問題ではない。逃げろ。これは命令だ」

「イヤ、と言ったら?」

「……どうして、逃げようとしないんだ……」

鉄格子に指を絡め、項垂れるように頭を鉄格子につける王子に私は、そうねぇ、と指先を唇に宛がい考える。
薄桃色の唇はこの牢獄生活のせいで荒れてしまった。
それだけではない。自慢だった銀髪もくすんだ灰鼠のような色になってしまっているだろう。

「お前ならばこんな場所から簡単に逃げられるだろう」

「まあ、逃げられないこともないけれども……」

「なら、」

「それでも私はここから出る気はないわ」

唇を弧のように歪め、私は眦を下げる。
これが笑顔に見えていればいいわね。
そんな願いをした瞬間、咳が出た。肺が痛む。口端から零れたのは紅い華。
世界はどうにも私に優しくはないわね、と悪態をつきたくなった。

「こんな世界、俺が……」

「それ以上は言ったらダメ」

「お前に何が分かる!それともお前を愛しておきながら、お前を守れなかった憐れな男を嘲笑っているのか!」

「憐れな姿だとは思うわよ。明日死ぬ私に惨めったらしく会いにくるのだもの。とても、憐れでならないわ」

嘘を吐いた自覚はある。何度、彼に嘘を吐いただろうか?
今までは単純な嘘ばかりだったけれども、今の嘘は彼を怒らせるくらいわけないと分かっていた。
それでもそう言わざるを得なかったのは、彼の身体に刻まれているだろう盗聴魔術の匂いを嗅いだからだろうか。
彼が不利になる発言はなるだけ控えた方が良いのは目に見えている。
ただでさえこの世界から嫌われている魔女を妃に添えたような男なのだから。
単なる魔女王と人間の王との間で交わされた約束で嫁に来ただけだけれども、結構、楽しかったのもまた事実で。

まあ、その約束も人間が魔女という存在を結局のところ畏怖し続けた故に泡沫のように消えて無くなり、私は朝になったら処刑されるのだけれども。

怖いかと聞かれたら即座に『怖いわ』と答えられるのに。
そういうところは鈍いままね。

「セピア……頼む。俺の手を取ってくれ」

伸ばされた腕に、私はそっと微笑む。

「私は貴方のお妃様じゃもうないのよ?そこのところ分かっているの?」

「お前以外の妃など要らない」

「あら?『魔女の妃など誰が愛するか』なんて言っていた貴方が随分と心変わりしたものね」

「……それをここで出してくるのか」

呆れたように発された言葉。
それが何だか普段通りで。
つい昨日までそんなやり取りをしていたのではないのかと思ってしまう程には自然に出てきた。

「ねぇ、我が儘を言ってもいいかしら?」

「……逃げる気は、ないんだな」

ギュッと噛み締められた唇。噛み千切ってしまうのではないかと心配してあげたいのは山々だけども、そんな資格は剥奪されてしまったから。
最後の我が儘を口にしようとした瞬間、彼は口を開いた。

「なぁ、少しで良い。本当のことを話してくれないか」

「え?」

「お前が隠している本音を。少しで良い。話してくれ」

「私は何も隠してなんかいないわよ。徹頭徹尾、本心から出た言葉だもの」

「お前はどうにも、可愛げがないな」

「それは新しいお妃様に求めてくれるかしら?」

「妬いてはくれないのか」

「明日死ぬ身には関係のないことだもの」

「そうか……」

眉を苦し気に寄せ、何処か諦めたような顔をした王子。
私が生きる道がもうないのだと悟ってくれたのだろうか?

「それでも俺は、お前を愛し続けよう」

「……馬鹿ね、貴方」

「夫を馬鹿と呼ぶのは、いや、俺をそう呼べるのは、俺の生涯の中でお前だけだ」

「嬉しくもない立ち位置ね」

まあ、でも。貴方の中に私が居ると言うのは心地好いものだわ。
ふっと笑って瞼を閉じる。そうして胸の前で祈るように手を組んだ。
きっと彼を通じて視ている王宮の魔術師達が今頃大慌てでしょうね。

私が彼に危害を加えるわけがないのに。
こんなにもいとおしい人に危害を加えるわけがないのに。

「この世界と貴方に、永遠の幸せを」

これが私の我が儘。

「……俺だけではない、というのが少し癪に障るな」

「ふふ、私は結局。この世界を愛しているからね」

胸の前で組んでいた手を解いて、腕をだらりと下ろす。
かなりの時間拷問されていたから、実は立っているのもつらいのよね。
貴方は死ぬまで知らなくてもいい情報だけれども。

「俺の幸せにはお前が必要だと知っても、お前はそう言うのか?」

「私は魔女。異形を扱い、魔術に長け、そうして……嘘つきなの」

これだけで彼には伝わっただろう。変なところで聡いから。
いえ、伝わっていなくても構わないけれども。
それでも伝わっていて欲しいと願うのは自由でしょう?
生まれてから今ままで。
自由なんて彼の隣でお喋りしている時でさえなかったのだから、これくらいの自由は許して欲しいものだわ。

例えば敷かれたレールの元で貴方と出逢ったとしても。
私の生が明日終わろうとも。

「貴方を想っている私くらいは許して欲しいものね」

「……なんだ、お前」

空が白んできた。私の処刑の時間が迫り来る。

「ようやく本音を零したな」

綺麗な硝子のような涙を零す貴方に、私はしてやったとばかりに口端を吊り上げた。
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