瞬きの日々
畳の上に布団が敷かれた部屋。
そこに横たわるのは今にも息を引き取りそうな老年の男性。
黒いセーラー服を身に纏った金髪の少女がすぐ横に座っている。
「静」
男性は少女の名前を呼ぶ。
その声は、掠れていた。長いこと声を発していなかったのだろう。
静、と呼ばれた少女は男性に応えるようにその皺くちゃの手をそっと握る。
少女は男性を見つめながら思い出す。
男性と初めて会った時のことを。
**
男性。その時はまだ少年であった彼を見付けたのは、古びた神社の境内。
「童。このような時間に何をしておる」
「……っ!だ、だれ?」
少年はあからさまに怯えていた。
それもそうだろう。このような寂れた、誰も訪れないような神社に自分以外の誰かが居るとは普通は思わない。
声を掛けた古風な喋り方をした主もそう思いながら少年に近付く。
「何をしている、と訊いておる」
「……か、帰ったら、また、なぐられるから……」
「ん?」
「お母さんが、新しいお父さんを連れてきた日から、ずっと、っぼく……っ」
「なんだ。お主、親に虐げられておるのか」
こくん、と力なく頷く少年に少女は、ふふ、と無邪気に笑う。
「お主、おなごかと思いきや、おのこであったか」
「え?」
話の流れを無視した少女の言葉に、少年はきょとんと目をまんまるくする。
「おのこがそう泣くものではない」
「でも、だって……っ」
もう痛いのはいやだぁ……。
絞り出すように吐き出された悲鳴に、少女はよしよしとその小さな頭を撫でる。
数度撫でてやれば、頬を伝う涙が落ち着いた。少年にとって、久しぶりの柔らかな触れ合いである。
それを見て少女は手を離す。少年は少女を見上げた。
赤いリボンが付いた黒いセーラー服を身に纏う中学生くらいの少女は見たこともない美しい金の髪を持っていた。
夕焼けの中で溶かしているかのように輝くそれに見惚れる。そよぐ風にリボンと金の髪を軽く遊ばせ、唇に弧を描いた少女は可笑しそうに言う。
「童は弱いのう。体もわらわと同じくらい白くて貧弱じゃ。それに何より、此処が弱い」
トン、と少女は少年の心臓の上を突く。
服は夏も盛りだというのに長袖だ。恐らく怪我の隠蔽だろう。
甘い『我々』が好む血の臭いが少女の鼻をついた。
「我が子を痛めつけるなどということが出来る親など、此方から捨ててしまえばいい」
何故、子が親に縋る形が一般化しておるのだ。
少女はコロコロと鈴が鳴るような声で言う。
「このまま此処に居たらお主の甘い香りに呼び寄せられた奴等がお主を喰らいにくるだろうな」
「……っ、あの、こわいの?」
「ほう、やはり視えるか」
少女は心底楽しそうな顔をして続ける。
「この穢れ多き時代で、清廉なる清き魂を持つお主が居なくなるのは、ちと惜しい」
故に、と少女は首を傾げ金色の瞳を細めた。
「強く生きろ童。身も、心も。それまでわらわが面倒を見てやろう」
まあ、気が向いた時だけだがの。
「……おねえさんが、ぼくを助けてくれるの?」
「はは。まあ、そうじゃのう。……そうなるのかの?」
疑問符を浮かべながら少女は少年の涙に濡れた頬を撫でた。
冷た過ぎる肌が、この少女が人間ではないと語ってた。
少年はそのことに目を見開く。とは言っても、長い黒髪に隠されて少女には見えなかったが。
その長い前髪に隠されたのは、日本人離れした緑がかった灰色の瞳。それはこの世のモノではないモノを映し出す。
俗に『妖――あやかし――』と呼ばれるそれらは、普通の人間には見えないモノ達だ。
その妖を少年は見てしまう。故に、気味悪がられ虐げられる日々。
その瞳は少女が呟いた『清らかな魂』を持つ人間にしか与えられない。故に、少女に気に入られた。
「おねえさん、人間?」
少年は分かっていて訊いた。
自分に手を伸ばしてくれた少女が、まさか自分を害そうとする妖達と同じとは思いたくはなかったからだ。
「もちろん違うぞ。分かっていよう。童よ」
少女は隠し立てすることなく言った。
少年は一度俯いて、けれど顔を上げると口を開く。
「『わっぱ』なんて名前じゃないよ。ぼくは清水。そう、呼んでよ、おねえさん」
母親が再婚してから呼ばれることも少なくなった自分の名前。
少年、いや。清水は髪で隠れたままの目で、真っ直ぐと少女を見つめる。
「ふふ。妖に名を名乗るとは。可笑しな童じゃのう」
「だからぼくは、」
「清水。その真名に免じてわらわの名を教えてやろう。特別じゃぞ?他の者等にも滅多に呼ばせん」
清水の目線に合わせてしゃがんだ少女は、そっと耳打つ。
「わらわの名は静。清水よ。これからわらわの瞬きの暇つぶしに付き合うが良い」
清水から離れた少女、静はにっかりと笑うと清水の頭をわしゃわしゃと撫でた。
――それが、清水が小学二年生の時。
それから清水は静の居る神社に通っては体を鍛えた。
何でも『健全なる精神は、健全なる体から成るものじゃからのう。とりあえずお主はその細い体をなんとかせよ』とのこと。
食事も静が作ってくれた。
世間体を気にした母親が給食費だけは払ってくれていたので、昼食は食べられていたが、朝食と夕食は義父が「こんなガキに食わせるモンはねぇ」と言ったから、食事を作られることはなくなった。母親は我が子よりも義父が大事らしい。
そう気付いたのはいつからだったか。
義父が暴力を奮っているのを母親はただジッと見ている。
その清水とは違う黒い眼には何の感情も浮かんではいなかった。
助けを求めることもやめた。……筈だったのに。
清水は静と出会ってしまった。
笑いながら手を差し伸べてくれた。暇つぶしと言われようとも構わない。
清水は自分のことを見てくれる誰かが欲しかったのだ。
「静おねえちゃん」
「うん?どうした。清水」
「ぼく、少しは強くなれたかなぁ?」
長袖の下は未だに青痣だらけだし、やり返すなんてとてもじゃないけど。
静の暇つぶしに少しはなれているのかと、不安になった。
「ふむ。体術も精神も、まだまだじゃのう」
黒いセーラー服から伸びる白い腕が金色の髪を掻き上げる。
少し前までは同じくらい白かった肌は、今では清水の方が黒い。健康的に日焼けした証拠だろう。
静は食卓に出された小鉢から、じゃがいもを箸で摘まんで口に運ぶ。うむ、美味い。そう零していた。
清水は静のその言葉に、まだ幼い自分には見合わない茶碗を持ちながら俯いた。
「清水」
静が声を掛ける。
「前髪を切るか」
「……え、や、やだよ!」
「そのような前が見えにくい髪なんぞ切ってしまおう」
そうだ、そうしよう。
静は楽しそうに自分の案に頷く。
突拍子もない言動はいつものこと。
こうなったらもうどうしようもないことを、清水は嫌というほど知っていた。
「食事が済んだら切るからの」
「……うぅ……」
清水は小さく項垂れた。
せめて少しでも髪を切るまでの時間が長くなるように、いつもよりゆっくりと食事を咀嚼する。
今日の夕食は肉じゃがだ。
妖のくせに、いや、人間とは異なる時間を生きる妖だからこそ、か。
静は意外にも料理が得意らしく、作る料理で外れたモノは今のところひとつもない。
その静の一番の得意料理が肉じゃがだ。清水も自主的に良く手伝う。
料理なんて出来なかったのに、今では小学校の家庭科の実習授業では他の生徒に頼られる存在となっていた。
憐れまれるだけの人生が、少しずつだが変化してきていた。
そこに横たわるのは今にも息を引き取りそうな老年の男性。
黒いセーラー服を身に纏った金髪の少女がすぐ横に座っている。
「静」
男性は少女の名前を呼ぶ。
その声は、掠れていた。長いこと声を発していなかったのだろう。
静、と呼ばれた少女は男性に応えるようにその皺くちゃの手をそっと握る。
少女は男性を見つめながら思い出す。
男性と初めて会った時のことを。
**
男性。その時はまだ少年であった彼を見付けたのは、古びた神社の境内。
「童。このような時間に何をしておる」
「……っ!だ、だれ?」
少年はあからさまに怯えていた。
それもそうだろう。このような寂れた、誰も訪れないような神社に自分以外の誰かが居るとは普通は思わない。
声を掛けた古風な喋り方をした主もそう思いながら少年に近付く。
「何をしている、と訊いておる」
「……か、帰ったら、また、なぐられるから……」
「ん?」
「お母さんが、新しいお父さんを連れてきた日から、ずっと、っぼく……っ」
「なんだ。お主、親に虐げられておるのか」
こくん、と力なく頷く少年に少女は、ふふ、と無邪気に笑う。
「お主、おなごかと思いきや、おのこであったか」
「え?」
話の流れを無視した少女の言葉に、少年はきょとんと目をまんまるくする。
「おのこがそう泣くものではない」
「でも、だって……っ」
もう痛いのはいやだぁ……。
絞り出すように吐き出された悲鳴に、少女はよしよしとその小さな頭を撫でる。
数度撫でてやれば、頬を伝う涙が落ち着いた。少年にとって、久しぶりの柔らかな触れ合いである。
それを見て少女は手を離す。少年は少女を見上げた。
赤いリボンが付いた黒いセーラー服を身に纏う中学生くらいの少女は見たこともない美しい金の髪を持っていた。
夕焼けの中で溶かしているかのように輝くそれに見惚れる。そよぐ風にリボンと金の髪を軽く遊ばせ、唇に弧を描いた少女は可笑しそうに言う。
「童は弱いのう。体もわらわと同じくらい白くて貧弱じゃ。それに何より、此処が弱い」
トン、と少女は少年の心臓の上を突く。
服は夏も盛りだというのに長袖だ。恐らく怪我の隠蔽だろう。
甘い『我々』が好む血の臭いが少女の鼻をついた。
「我が子を痛めつけるなどということが出来る親など、此方から捨ててしまえばいい」
何故、子が親に縋る形が一般化しておるのだ。
少女はコロコロと鈴が鳴るような声で言う。
「このまま此処に居たらお主の甘い香りに呼び寄せられた奴等がお主を喰らいにくるだろうな」
「……っ、あの、こわいの?」
「ほう、やはり視えるか」
少女は心底楽しそうな顔をして続ける。
「この穢れ多き時代で、清廉なる清き魂を持つお主が居なくなるのは、ちと惜しい」
故に、と少女は首を傾げ金色の瞳を細めた。
「強く生きろ童。身も、心も。それまでわらわが面倒を見てやろう」
まあ、気が向いた時だけだがの。
「……おねえさんが、ぼくを助けてくれるの?」
「はは。まあ、そうじゃのう。……そうなるのかの?」
疑問符を浮かべながら少女は少年の涙に濡れた頬を撫でた。
冷た過ぎる肌が、この少女が人間ではないと語ってた。
少年はそのことに目を見開く。とは言っても、長い黒髪に隠されて少女には見えなかったが。
その長い前髪に隠されたのは、日本人離れした緑がかった灰色の瞳。それはこの世のモノではないモノを映し出す。
俗に『妖――あやかし――』と呼ばれるそれらは、普通の人間には見えないモノ達だ。
その妖を少年は見てしまう。故に、気味悪がられ虐げられる日々。
その瞳は少女が呟いた『清らかな魂』を持つ人間にしか与えられない。故に、少女に気に入られた。
「おねえさん、人間?」
少年は分かっていて訊いた。
自分に手を伸ばしてくれた少女が、まさか自分を害そうとする妖達と同じとは思いたくはなかったからだ。
「もちろん違うぞ。分かっていよう。童よ」
少女は隠し立てすることなく言った。
少年は一度俯いて、けれど顔を上げると口を開く。
「『わっぱ』なんて名前じゃないよ。ぼくは清水。そう、呼んでよ、おねえさん」
母親が再婚してから呼ばれることも少なくなった自分の名前。
少年、いや。清水は髪で隠れたままの目で、真っ直ぐと少女を見つめる。
「ふふ。妖に名を名乗るとは。可笑しな童じゃのう」
「だからぼくは、」
「清水。その真名に免じてわらわの名を教えてやろう。特別じゃぞ?他の者等にも滅多に呼ばせん」
清水の目線に合わせてしゃがんだ少女は、そっと耳打つ。
「わらわの名は静。清水よ。これからわらわの瞬きの暇つぶしに付き合うが良い」
清水から離れた少女、静はにっかりと笑うと清水の頭をわしゃわしゃと撫でた。
――それが、清水が小学二年生の時。
それから清水は静の居る神社に通っては体を鍛えた。
何でも『健全なる精神は、健全なる体から成るものじゃからのう。とりあえずお主はその細い体をなんとかせよ』とのこと。
食事も静が作ってくれた。
世間体を気にした母親が給食費だけは払ってくれていたので、昼食は食べられていたが、朝食と夕食は義父が「こんなガキに食わせるモンはねぇ」と言ったから、食事を作られることはなくなった。母親は我が子よりも義父が大事らしい。
そう気付いたのはいつからだったか。
義父が暴力を奮っているのを母親はただジッと見ている。
その清水とは違う黒い眼には何の感情も浮かんではいなかった。
助けを求めることもやめた。……筈だったのに。
清水は静と出会ってしまった。
笑いながら手を差し伸べてくれた。暇つぶしと言われようとも構わない。
清水は自分のことを見てくれる誰かが欲しかったのだ。
「静おねえちゃん」
「うん?どうした。清水」
「ぼく、少しは強くなれたかなぁ?」
長袖の下は未だに青痣だらけだし、やり返すなんてとてもじゃないけど。
静の暇つぶしに少しはなれているのかと、不安になった。
「ふむ。体術も精神も、まだまだじゃのう」
黒いセーラー服から伸びる白い腕が金色の髪を掻き上げる。
少し前までは同じくらい白かった肌は、今では清水の方が黒い。健康的に日焼けした証拠だろう。
静は食卓に出された小鉢から、じゃがいもを箸で摘まんで口に運ぶ。うむ、美味い。そう零していた。
清水は静のその言葉に、まだ幼い自分には見合わない茶碗を持ちながら俯いた。
「清水」
静が声を掛ける。
「前髪を切るか」
「……え、や、やだよ!」
「そのような前が見えにくい髪なんぞ切ってしまおう」
そうだ、そうしよう。
静は楽しそうに自分の案に頷く。
突拍子もない言動はいつものこと。
こうなったらもうどうしようもないことを、清水は嫌というほど知っていた。
「食事が済んだら切るからの」
「……うぅ……」
清水は小さく項垂れた。
せめて少しでも髪を切るまでの時間が長くなるように、いつもよりゆっくりと食事を咀嚼する。
今日の夕食は肉じゃがだ。
妖のくせに、いや、人間とは異なる時間を生きる妖だからこそ、か。
静は意外にも料理が得意らしく、作る料理で外れたモノは今のところひとつもない。
その静の一番の得意料理が肉じゃがだ。清水も自主的に良く手伝う。
料理なんて出来なかったのに、今では小学校の家庭科の実習授業では他の生徒に頼られる存在となっていた。
憐れまれるだけの人生が、少しずつだが変化してきていた。