誇り抱く桜の如く

天界の回廊の奥深くには花園がある。
たまたま近くを通った時に、花々が色濃く香る中、佇む女に目が行った。
金糸の長い髪を緩やかな風に遊ばせながら、ただ真っ直ぐと空を見上げるその女。
まるで風に拐われてしまいそうだと、そんな夢見がちなことを思ってしまった。
そんなことあるわけが無い。馬鹿げたことだ。
けれど。

「おい」

「……ああ、天帝ではありませんか」

一度きょろりと視線を巡らせた女は声を掛けた俺に気付くと笑みを浮かべた。
あまりにも冷えた笑みに、胸の内から込み上げてくるものをぐっと抑える。

「どうかしましたか?」

彼女が、睡蓮が、俺に話し掛けている。
それが悲しくなる程に嬉しくて、愛おしい。
なのにどうして俺は声を発せないのだろう。
どうして名前を呼んで抱き締められないのだろう。

「用がないようならば、お仕事に戻られたら如何で……」

冷めた声に、冷たい言葉は途中で途切れさせた睡蓮は何故だか驚いた表情をしていた。

「……はあ、相変わらずですねぇ。貴方様は」

呆れたような物言いに、何が、と声を発する前にスっと睡蓮は近付いてきた。
その距離に思わず半歩だけ距離を取ろうとするのを、ギリギリで抑える。
今此処で距離を取ってしまえば、睡蓮はまた心を塞いでしまう気がしたから。
俺を見上げた睡蓮は、何を思ったのか眉を下げた。

「政務でお疲れなのでしょう。少し此処でお休みになられたら如何ですか?丁度昼時ですし」

「……ぁ、ああ」

少し戸惑って、ようやく絞り出せたのがそれだけで。
けれども睡蓮が珍しく柔らかく微笑み、くるりと背を向けた。
薄氷色の裾から出た白い手を掴みたくなって、やめた。
きっとこのまま手を掴んだら、また冷たい視線が返ってくるだろうから。

「先程、何を考えていた」

「はい?」

「物憂げに何かを考えていただろう」

「……天帝には関係のない話ですよ」

「……そうか」

会話がなくて、先程の睡蓮が物憂げに何事かを考えていたのが分からなかったから訊ねてみたけれども、睡蓮は答えてくれなかった。
けれども俺が隣に在ることは許してくれた。

それだけで俺は今日という日を生きていけるだろう。
大袈裟だと思われるかもしれない。
けれども本当にそうなのだから、仕方がない。

睡蓮が居なければ俺は息をすることすら儘ならない。
睡蓮が酷い目に合っていると分かっていても傍に置き続けている理由がそんな事だと知られれば、睡蓮は呆れるだろうか?
こんなにもいとおしく想っているのに、皮肉だな。
傍に置けば置くほど、睡蓮の身も心も離れていく。
周りの睡蓮を見る目も冷たくなっていく。
ただ、傍に。それだけなのに。

「ああ、そうでした。天帝、宜しければ食べますか?」

「何をだ?」

思考を飛ばしていれば、睡蓮が突然声を発した。

「昼食、正確にはお弁当ですね」

「……何故、そんなものを持っている?」

睡蓮が見せた重箱に少しばかり期待した。
俺を想って作ってくれたのではないのかと。
また笑い合いながら共に食事が出来るのではないのかと。

「どうしてと言われましたら、」

睡蓮が答えてくれようとした、その時だった。

「あら?第三夫人様では御座いませんか」

この場にそぐわぬ鼻を抑えたくなるほどの香の臭いが鼻をついた。
折角の美しく芳しい花々の匂いが台無しだと、眉を一瞬顰める。

「第一夫人様……」

睡蓮も同じことを思ったのか、俺だけが分かる程度に顔を歪めた。

「第三夫人の――誰の子を生んだか分からぬ売女のアナタ様の手料理なんて、高潔なる天帝がお食べになられる筈が無いでしょう?恥知らずだわ」

「……第一夫人様の言う通りですね」

にっこりと貼り付けたような笑みが心を抉る。
折角、睡蓮が俺と距離を詰めてくれたのに。
どうしてこうも邪魔をする?

(どうして、だなんて馬鹿げているな)

この状況を作り出したのは俺だ。
睡蓮にそんな顔をさせる原因も──俺だ。

一番守りたかったのに。
一番いとおしい存在なのに。

触れたくて、触れられなくて。
それでも今、睡蓮を選ばない選択をしたのも俺だった。

目を数瞬閉じて、再び開ける。
そこには全てを諦めた顔の睡蓮が居て、勝ち誇るような醜い顔をする第一夫人……睡蓮を押し退けてその座に居る『正室』が居て。
俺はただの男から『天帝』にならなければいけなかった。

「行くぞ、香鈴」

「はい。天帝」

自分でも驚く程に冷たい声が出た。
それでもうっとりとした表情で俺の腕に腕を絡める香鈴。
香る鈴とはよく付けたモノだ。
臭くて煩くて堪らない。

去り際に見た睡蓮の瞳にほんの少しだけ寂しさが見えて、今すぐにでも抱き締めに行きたかった。

「天帝、手料理がお好きならばあたくしがお作り致しますのに」

「構うな。私は……手料理が嫌いだ」

「まあ、そうでしたの。お可哀想な天帝。お嫌いなモノをあの売女に食べさせられそうになったのですね」

「……ッ」

ぎゅっと拳を作り血が滲む程に爪を握る。

誰が売女だ……!
睡蓮は唯一、俺が選んだ女だぞ……!

そう叫びたいのをひたすらに耐えた。
睡蓮以外の女を正室に添えると決めた時に決めたのだ。

いつか俺にとっての不幸な世界が終わるその日まで耐え続けると。
そのせいで睡蓮を傷付け続けるとしても。
睡蓮を傍に置き続けたかった、これは俺のエゴだから。


のちに今よりも後悔することになると、この時の俺は知らないままに。
睡蓮ではない女の香をなるべく嗅がないように意図して顔を逸らした。
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