Another Story

 冬から春に掛けて咲く花の名前。
 それが『俺』の名前。
 俺と言ったが、男ではない。れっきとした女である。
 けれども俺はこの天界で忌み嫌われる双子として生まれたが故に、男として育てられた。
 胸も平らだし、歩き回ることを許されている範囲にある書庫に篭って本の虫をしているからか、食事も忘れる程だから身体も細い。
 ひ弱な自分の身体は、決して武芸を嗜む男には見えないだろう。
 けれど、中性的な見た目で言うなら女だと断定するのも難しいと思う。
 俺の立場は屋敷に囚われた可哀想な忌み人だろう。いや、忌み嫌われている俺を可哀想だなどと、誰が思おうか。
 姉にはある程度の自由が許されていた。それは先に生まれたというだけで『女』として生きねばならないからだ。掻い摘んで言うのも面倒なので率直に言えば、何れは天帝になられる御方に嫁ぐことが決まっているからだとか、なんだとか。
 教養を学べ、広くを見よ。心を豊かに、そして、決して家の不利益にならないように。
 父上は何を考えていらっしゃるかは分からない。だが、俺たち双子を守ろうとする気持ちだけは分かっていた。
 だから俺も逆らわない。この家に囚われて飼い殺し状態になっても構わないとすら思っている。
 正直、その方が楽だしな、とも思う。
 姉上の勉強の時間と俺の自由時間を考えると、圧倒的に姉上の方が大変なようにも思う。
 まあ、それは人それぞれの考え方だし、俺にとってはこの生き方も構わないと思っていたんだ。

 だからだろうか?
 その出会いはまるで──春雷のようだった。

「なぁ! そこのお前! 悪ぃけどその布取ってくんねぇ!?」

 部屋の窓を開けて本を読んでいた時のことだった。
 下の方から声が聞こえたのは。
 一体誰に話し掛けているのやら。
 俺は書物の世界に飛び込もうとして、──出来なかった。

「おい! そこのお前だよ! 金髪の!」
「……?」
「あ、やっと見たな!」

 窓の外から下を見れば、おーい! と手を振る男がひとり居た。
 一体なんだと言うんだ? と思えば、その男は俺の近くにある木を指さした。

「その木に掛かった赤い布! 取ってくれ!」
「赤い布?」

 思わず声を発してしまった。やばいとは思ったが、近くに誰も居ないことで事なきを得ているらしい。
 俺は声を発することも禁じられている。本当に近しい存在の前でなければ言葉を発せられないのだ。女だとバレてしまうから。

「そう! その布!」
「……」

 俺は今度は声を発さないように、しかしどうしたものかと悩んだ。
 木には確かに赤い布が掛かっていた。
 でも俺は屋敷から出ることを許されていない。
 窓の外は屋敷外だろう。それは……ダメではないのだろうか。
 しかし地上で叫んでいる男の声で誰かが来ても不味い。俺の存在は一応、秘匿されているのだから。
 困った末に、木に巻きついた布を取ってやればこの男は居なくなるだろうから、さっさと取ってやろう。
 しかしその木はあまりに頼りなく、俺の身体がいくら細くてもこれは折れるのではないだろうか?
 困りに困っていれば、真下に居る男の声が段々と大きくなっていった。
 はあ、と溜息を吐いてから意を決して木に縋るように跨る。ゆっくりゆっくりと赤い布に近づいていき、もう少しといったところで、ポキリ、という音が聞こえた。

(あ、不味い)

 平常時、大きく感情変化のない俺でも怖いと思った。このまま落下したらタダでは済まない。それに外に出たことが知られたらどうなるのだろうか?
 そんなことばかり考えながら、緩やかに落下するのは変わらず。

(嗚呼、俺。死ぬのか)

 なんて、そんなことすら考えた。
 ──その時だった。

「あっぶな! 大丈夫か?」
「……っ、え?」

 落下時の衝撃に耐えようとギュッと瞑った目を開ければ、そこにあったのは紅い瞳を持った男の人。
 父上以外に男の人に会うのは初めてだ。いや、それよりこの状況はかなり不味いのではないのではないだろうか?

「おーい? 大丈夫か?」
「……」

 喋らないように、こくりと頭を縦に振った。大丈夫というつもりで。そうして早く降ろして欲しいと思いながら。
 こんな、女みたいに横抱きにされているのが見られたら誰にどう思わるか。
 嗚呼、でも俺に関わる天界人は少ないわけで。たぶん大丈夫か。なんでどこかで楽観視もしていた。

「お前……」

 そこで言葉が途切れた。なんだろう? と首を傾げれば、男はにかりと笑って、そうして驚くようなことを言う。

「お前、綺麗だなぁ……。名前、なんて言うんだ?」
「……は?」

 この男、いま俺に『綺麗』だと言ったのか? 姉上に言うならまだしも。ってここには姉上居ないから比較のしようがないのか。そうは言っても男物の服装をしている俺に対して『綺麗』だ? この男の目は大丈夫なのか? と、少し心配になった。

「おーい、何処かに飛んでくなよー。送ってやっから」
「……っ! そ、それは……困る」
「なんで?」
「いや、なんというか……」
「其れは、お前が『忌み子』だってことが原因か?」
「知って、!」
「知ってる。会ってみたかったんだ。お前に」
「会って、どうするの?」

 そうだなあ、と男は首を捻る。どうしようかなぁ、なんていう言葉さえ聞こえてくる。

「まさか、無計画だったの?」
「バレたか」

 そこそこな年齢に見えるのに、少年のように笑う男の言っていることがなんだか可笑しくて、気付けば笑っていた。

「おかしな人だね、あなたは」
「ああ、俺の名前は──朱夜だ」
「そう。ところで、降ろしてくれない?」
「ここはお前の名前を教えてくれるところだろう?」
「いや、俺は秘匿されてる身だから……」
「大丈夫大丈夫。誰にも話さないから」
「そういう奴は信用ならないんだけどな」

 でもこのままだとずっとこのままな気がして、それは嫌だなあと思って仕方なく。それはもう仕方なく、口を開いた。

「俺の名は、──水仙」
「水仙……」

 噛み締めるように言う男に、名乗ったから離してくれ、と言えば男はそのままの体勢、要は俺を抱き締めた体勢で言う。

「水仙! 俺と結婚してくれ!」
「は、あ?」

 自分の口から出た呆れた声にも負けず、朱夜は笑顔で。
 今でも馬鹿な話だと思う。本当に馬鹿な話だ。
 でも、今でもそのことを昨日のように思い出せるのだから、きっとそれは大切な思い出だったのだろう。
 なあ、朱夜。
 お前は俺が良いと言ってくれたけれども、俺は少しだけ後悔しているよ。
 俺なんかと出逢わなければ、朱夜は今でも笑って、他の女との間に出来た子供を抱き締められていたのだろうから。
 ごめん、とも思う。俺なんかを助けたせいで捕縛されて、その場で命を絶たれることになったのだから。
 天帝に穢されてことをバレなければ、朱夜だってそんなことしなかっただろうに。
 でも、やっぱり。

「ありがとう」

 俺を連れ出してくれて。狭い世界で居続けるつもりだった俺に世界を見せてくれて。俺に家族をくれて。

「朱夜。今、そっちに逝くからね」

 水仙! と叫ぶ姉上の声。辞めてください! 水仙! と叫ぶ姉上に、俺は笑った。

「後は頼みます。姉上」

 心優しいあなたならきっと、俺達の子を蔑ろになんてしないでしょう。
 俺は朱夜が居ない世界がもうダメなんです。
 寒くて、寂しくて、ダメなんです。
 だから今から会いに行くんです。
 どうか、悲しまないでください。
 姉上、父上。
 俺は今日という日を、待ち望んで居たのですから。
 ちらりと見えた涙を流す姉上の腕の中にある我が子に、小さく微笑んだ。

「ありがとう、生まれてきてくれて。ありがとう」

 お前の人生に、幸多からんことを。
 それだけ言うと、俺は自身の喉を懐剣で躊躇うことなく一突きした。
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