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それ以外

その森は夜に落ちようとしていた。
ここから遠く離れた場所で、真昼を過ごしている明星。何処かで獲物を狙うフクロウの羽ばたき。人間含め昼行性の動物は寝静まる時間だというのに、あるひとりの少年は獣道を歩いていた。その手には藁のように細いミサンガが一本巻きついているが、それ以外に体を守るものはなかった。そのなけなしのお守りもどこか汚れていて、今にも切れそうに彼の腕に横たわっている。それを大事そうに手で包み、綿の薄着を寒そうに引っ張る彼はまさに弱者そのものだった。
さらに、彼は疲弊していた。前の主人から受けた鞭の跡が残る体を引きずり、歩いているところからも察せるだろう。
しかし、ある時彼は立ち止まる。目線の先に位置する、一つの希望が見えたのだ。ランプが吊り下げられた、明らかに人がいるとわかる小屋がそこにはあった。
彼は細く繋がれたミサンガをぎゅっと握りしめ、天にいる母へその幸福を感謝した。続いて彼は、少し錆びたドアを丸めた手で叩いた。この寒い夜の中、ドアの温度は特に冷たかったが、少年はこれっぽっちも気に留めなかった。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいませんか?」
少年は掠れた声でドアの向こうに話す。すると、10秒もしないうちに戸は勢いよく開いた。
「ありがとうござい......」
中から覗く視線に、少年は思わず口を塞いだ。言いかけた言葉は短い悲鳴に引き摺られ、喉の奥へと消えてゆく。その原因とは、目の前の魔女と言うべき女の姿だった。
朱色の蛇目が爛々と輝く中、その眼光に縮れた魔女帽子が影を落としていた。黒いレースドレスの合間から覗く六角形の集合体は鱗なのだろうか、その硬い表面が月光を反射させている。
まるで人間と蛇のキメラのような女は、ゆっくりと舌を動かした。
「どうしたのかしら? こんな寒い夜に。貴方も捨てられちゃったの?」
「え、あ...」
「いいの、喋らなくてもわかるわ」
心が読めるのよ、と彼女は付け足す。読心術が使える、邪な魔術と言ったら黒魔術以外にありえない。それを不幸にも知っていた少年を、恐怖が蝕んでいった。
ずるずると後退りして、彼はちらりと後方の道を見やる。その獣道は案の定、闇に包まれていて、月光すら樹木の影に阻まれて見えなくなっていた。
しかし、逃げなければもっと深い闇に呑まれてしまうだろうと、容易に想像できた。
「...逃げるのなら止めないわ。こんな身体だもの、そうよね」
今まさに踵を返そうとしていた少年の足が止まる。恐る恐る彼が振り返ると、小さく溜息をつき、ぎこちなく笑う魔女の姿がそこにはあった。
「私、悪魔が媒介する病気に罹っちゃってるの」
「......嘘、なんじゃ」
「レプティリアン症候群」
少年の肩がびくりと震えた。彼の母親を殺した大人達が口々に言っていた病の名が今になって思い出されたのだ。
「...やっぱり。あなたのお母さんは私と同じ病に罹ってしまったから、殺されちゃったんでしょうね」
真実と言う名のナイフが深々と精神に突き刺さる。「悪魔の子」という自分に投げられた言葉と「レプティリアン症候群」という悪魔が媒介する病の名が頭の中で強く結びついてしまったのだ。
そしてそれは、一つの事実を指し示す。「自分の母親は悪魔によって殺されたのだ」ということを。
「そんな、じゃあ、なぜ...なぜあなたは生きているんですか? 僕の母さんは、なぜ、なんで、殺されないといけなかったんですか!!」
確かに前述した事柄は真実だ。しかし少年にはにわかに信じられなかった。教会でロザリオを握りしめ、敬虔な祈りを捧げる母をずっと隣で見ていたからだ。
信心深い母がまさか悪魔の手に堕ちるなんてことはないはず、というよりも「神は僕たちのことを見捨てたりはしないだろう」ということを少年は信じたかった。しかし、目の前の魔女は悲しそうに眉を下げる。
「私は神を捨てたからよ。あなたのお母さんは、代わりに命を捨て、綺麗な魂のまま眠ることを選んだ」
「じゃあ、あなたは...」
「そう。悪魔は選択を迫った。黒魔術で身体を延命するか、清らかな魂のまま死ぬかをね。蛇のように肌が鱗にかわり、やがては這うような形でしか動くことのできない、この奇病を突きつけることで。選択できなかった者は全員、病気が進行して理性を失い、大蛇か自殺者の死体になったわ」
あなたも聞いたことがあるでしょう、と魔女は言う。彼女の言う通り、少年の故郷には忌まわしい大蛇の伝承があり、少年も一度耳にしたことがあった。
点と点が繋がった今、少年の中では、目の前の女に対する恐怖よりも同情する心の方が優っていた。
少しばかりの安心感からか、少年はいつのまにか泣いていた。瞳に映る満月から白糸が垂れるように、一筋の涙が光る。魔女はゆっくりと少年に近づき、鱗が残る人差し指でそれを掬いあげた。ひんやりとした硬い感触に少し彼は後退りするが、女は片方の手で少年の手を握り、落ち着くよう促した。
「ハサミも黒魔術も使いよう。だから私は、あなたを傷つけるためにはこの力を使わない」
「...はい」
「私はマリア。マリア・タダイ」
「......ヨセフ、です」
いつまでたっても止まらない涙を見て、マリアはヨセフを抱きしめた。大丈夫よ、安心して。そう優しく扱われるほど、彼の涙は多くなっていった。
「...二人で、しばらくは過ごしましょう。その方が安心でしょ?」
「でも、」
「いいの。もし見つかったら、悪い蛇に唆されたとでもいいなさい」
魔女は蛇目を細めて、悪ぶるように笑った。

その森は、神の目から逸れた者たちが住まうという。

「レプティリアン症候群」
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