それ以外
「ここに来たのは久しぶりね」
一人の夫人がこのホールへと入ってくる。外は明るいにもかかわらず、油のランプを灯して。しかし、そのぼんやりとした光が彼女の足取りを確かなものにしていたのには違いなかった。一歩、二歩と踏み出される足はもともと決まっているようで、まるで演目に書かれているかのように彼女は歩く。やがてホールの中心に差し掛かり、彼女は立ち止まった。
「このランプといい、この時間といい、似ているわね。あの時と」
夫人はくるりと裾を翻し、品のいいパフュームをあたりへと振りまく。もちろん笑顔も忘れておらず、その姿はうら若き少女を残しているようだった。もっとも、彼女はつい先日19本のろうそくを吹き消したばかり。それでも彼女には「夫人」と呼ぶほどの教養、マナー、美徳が染み付き、それが立ち振る舞いにも現れていた。
スカートをそっと持ち上げる仕草。ふわりと手を添えて微笑む姿。レディファーストに正しく礼を払うその姿勢。上流階級、その中でも指折りの名家からの出身なのがうかがえた。
「最初ここで踊ってから、9年も経ってしまったのか」
勿論そんな貴婦人の隣に立つのは、他でもない、この国唯一の皇帝であった。この祖国の色である金色の髪と、静けさを結晶にしたような青の瞳。懐かしそうに言葉を発する薄い唇も含め、彼はこの国を体現するほどの美しい容姿を持っていた。
美しく着飾った二人はやがて、目を合わせる。トパーズとラピスラズリが互いの光をきらきらと反射し合う。ホール内の空気はぴたりとその流れを止め、二人を優しく包み込むようなものへと変化した。
視線が交差しあい、言葉では言い表せぬ感情が息遣いから伝わっていく。それは一種のラブロマンスのように、儚く、うっとりとするほど甘美なものだった。
凪が訪れてから、皇帝が初めて口を開く。
「どうか、私と踊ってはくださいませんか」
はっと夫人が既視感を感じ取った。二人、許嫁であったころ。深夜、こっそり二人で抜け出して練習した、ワルツの記憶を。
ほろり、と夫人の目から涙が零れた。その涙は、これから美しい記憶が革命の赤い炎に焼かれてしまう恐怖からだろうか、ひたりひたりと近づいている暗殺者の足音からだろうか。頰から伝うそれは一本の線を描き、月明かりと外から漏れ出る革命の炎に照らされ絹糸のように輝いていた。人は死にさらされるほど綺麗に煌めく、と聞いたことがある。その時彼らの宝石も、瞳の中でゆらゆらと揺れ動いていたに違いないだろう。
皇帝は今はいない侍従のように、恭しく腰を折り彼女へ会釈する。ふっと彼が顔を上げれば、あどけなさを残したトパーズと視線がかち合った。努めて微笑むようにして目を細めれば、彼女はついにうなづく。そこに言葉なんて邪魔なものはなかった。あるのは宝石みたく磨かれた愛が、そこにはあったのだ。
「恐るでない。我が妃よ」
彼は立ち上がり、自らもまたホールの中心へと踏み入る。そして、命令にしては優しい声色で彼女に囁いた。というよりは言葉をうまく紡げなかったと言った方が良いだろう。なぜなら、彼も夫人と同じく泣いていたからだ。
二人の心が共鳴したように、二人のティアラと王冠が金色に輝く。その輝きを合図に、夫人がランプを手から投げた。火の花に包まれた玉座から、ブーケトスのようにあげられたそれは壁にぶつかり、ちろちろと絵画が焼かれるようにあたりを侵食していく。
すっかり明るくなった室内。彼らは手を取り合い、はっきりと見えるようになった互いの顔を見つめあう。そして昔のように、少し照れくさそうに笑ってこう言った。
「一度、ワルツでも踊りましょうか」
一人の夫人がこのホールへと入ってくる。外は明るいにもかかわらず、油のランプを灯して。しかし、そのぼんやりとした光が彼女の足取りを確かなものにしていたのには違いなかった。一歩、二歩と踏み出される足はもともと決まっているようで、まるで演目に書かれているかのように彼女は歩く。やがてホールの中心に差し掛かり、彼女は立ち止まった。
「このランプといい、この時間といい、似ているわね。あの時と」
夫人はくるりと裾を翻し、品のいいパフュームをあたりへと振りまく。もちろん笑顔も忘れておらず、その姿はうら若き少女を残しているようだった。もっとも、彼女はつい先日19本のろうそくを吹き消したばかり。それでも彼女には「夫人」と呼ぶほどの教養、マナー、美徳が染み付き、それが立ち振る舞いにも現れていた。
スカートをそっと持ち上げる仕草。ふわりと手を添えて微笑む姿。レディファーストに正しく礼を払うその姿勢。上流階級、その中でも指折りの名家からの出身なのがうかがえた。
「最初ここで踊ってから、9年も経ってしまったのか」
勿論そんな貴婦人の隣に立つのは、他でもない、この国唯一の皇帝であった。この祖国の色である金色の髪と、静けさを結晶にしたような青の瞳。懐かしそうに言葉を発する薄い唇も含め、彼はこの国を体現するほどの美しい容姿を持っていた。
美しく着飾った二人はやがて、目を合わせる。トパーズとラピスラズリが互いの光をきらきらと反射し合う。ホール内の空気はぴたりとその流れを止め、二人を優しく包み込むようなものへと変化した。
視線が交差しあい、言葉では言い表せぬ感情が息遣いから伝わっていく。それは一種のラブロマンスのように、儚く、うっとりとするほど甘美なものだった。
凪が訪れてから、皇帝が初めて口を開く。
「どうか、私と踊ってはくださいませんか」
はっと夫人が既視感を感じ取った。二人、許嫁であったころ。深夜、こっそり二人で抜け出して練習した、ワルツの記憶を。
ほろり、と夫人の目から涙が零れた。その涙は、これから美しい記憶が革命の赤い炎に焼かれてしまう恐怖からだろうか、ひたりひたりと近づいている暗殺者の足音からだろうか。頰から伝うそれは一本の線を描き、月明かりと外から漏れ出る革命の炎に照らされ絹糸のように輝いていた。人は死にさらされるほど綺麗に煌めく、と聞いたことがある。その時彼らの宝石も、瞳の中でゆらゆらと揺れ動いていたに違いないだろう。
皇帝は今はいない侍従のように、恭しく腰を折り彼女へ会釈する。ふっと彼が顔を上げれば、あどけなさを残したトパーズと視線がかち合った。努めて微笑むようにして目を細めれば、彼女はついにうなづく。そこに言葉なんて邪魔なものはなかった。あるのは宝石みたく磨かれた愛が、そこにはあったのだ。
「恐るでない。我が妃よ」
彼は立ち上がり、自らもまたホールの中心へと踏み入る。そして、命令にしては優しい声色で彼女に囁いた。というよりは言葉をうまく紡げなかったと言った方が良いだろう。なぜなら、彼も夫人と同じく泣いていたからだ。
二人の心が共鳴したように、二人のティアラと王冠が金色に輝く。その輝きを合図に、夫人がランプを手から投げた。火の花に包まれた玉座から、ブーケトスのようにあげられたそれは壁にぶつかり、ちろちろと絵画が焼かれるようにあたりを侵食していく。
すっかり明るくなった室内。彼らは手を取り合い、はっきりと見えるようになった互いの顔を見つめあう。そして昔のように、少し照れくさそうに笑ってこう言った。
「一度、ワルツでも踊りましょうか」