零箔神話関係のもの
その日、街に雨が降り注いだ。これまでの快晴続きは何処へやら、天気予報ではこの一週間傘が手放せないだろう、と申し訳なさそうに言っていた。
昔の人なんかは「恵みの雨」なんて呼んだはずなのに、現代人はどこか雨のことを毛嫌いしている。まあ仕方ないことだろう、昔の穏やかな雨は何処へ、今降っているのはゲリラ豪雨なるものだから。
「あー! 髪ぐっしゃぐしゃ。マジ萎えするわ」
ストライプのリボンを下げた女子高生が、明るい髪をわしゃわしゃと撫でる。彼女が手に持ったスマートフォンには、ここ一体が濃い青で塗りつぶされたような図が表示されていた。
「なんだよ、またあの路線大雨で運休かよ」
雨粒が描いたコントラストが、苛立っている彼のスーツに描かれていた。
右を見ても左を見ても、雨の愚痴が聞こえてくる。「現代人は余裕がない」。今日の朝刊でどっかの准教授が言っていた。全くその通りである。
しかしそれは私も同じ。私は腕時計の存在を忘れ、わざわざスマホを取り出して時計を見る。土曜日の昼下がり、13:05。気分もお空も、今日はぐづついたままでしょうかね、と口角が横に引っ張られた。
湿っぽくて仕方ない髪を耳に引っ掛け、ぐずり続けている雨を咎めるように見つめる。困ったものだ、とため息をついて、それを取り戻すように一呼吸吸い込んだ。
コンクリートの埃っぽい匂い。何パーセントか排気ガスを含む空気。それらが喉にまとわりつくように入ってくる。気分の針が悪い方向へ揺れる。
普段は超常現象的なことは信じないのだが、休日出勤後の私にはこの不運さえ「今日の星座占い、最下位だったせいかな」なんて思えてくるのだった。
だが雨もいつかは上がる。惰性的に続けているパズルゲームをやって、ちょうど2000面の大台に乗った、という頃には止んでいた。あんなにも波紋で揺れていた水たまりが、平然とそこに佇んでいる。コンクリートは乾いたところと湿ったところでまだら模様。
また平均へと戻っている街並みに、ふと陰湿な気持ちがわく。それは嫉妬のような、迷い子の心境のような。
それで私は、目の前の水たまりを思い切り踏んづけて、ずんずんと進んでいった。
ひとりの女が通った水たまり。踏んづけられたにもかかわらず、それは平然と私の影を映し出していた。
──────────────────
かつかつと響くヒールの音が、アスファルトに少しずつ染みこんでゆく。奇抜なあの子が履いている高さでも、女学生が履く低さでもない、実に平均的なヒールを響かせ、私は歩いていた。手に瀕死のスマートフォンを持たせて、同じように死にそうな精神を体には持たせて。
そこが閑静な住宅街だからか、ほかに人の音はなかった。そのかわり自然は賑やかだ。雀が羽をぷるぷると震わせて露を払う様子。野良猫がぼわりと膨らんだ毛をつくろっている姿。いつもは小さな長方形に囚われている視野が久し振りに広がっていくようだった。それはなかなかに良いもので、せっかちなはずの私を立ち止まらせるほど。
「にゃあ」
野良猫が鳴いた。「まあちょっと寄っていけよ」と先輩風をなびかせて、あくびを一つ浮かべた。
「...そうだねえ」
くるりと視点を回してみる。濡れたブロ
ック塀に腰かけた猫、青々とした空を映す水たまり、そんな日常の中に、一つ、ぽつんと店があった。
「なんだろうな、あそこ」
そこは、今では数少ない平屋建ての家屋に縦看板を取り付けた、なんともレトロな店だった。赤錆の名札をさげて、雨上がり特有の光を受けた様はまさに大物そのもの。しかしその呼び名には「近寄りがたい」というニュアンスも含まれているのも事実。私はその磨りガラスの戸を開く勇気がなかった。
だが、そこには一人先客がいた。店先にある木製の椅子に腰かけた、それも若い女性が。
「にゃあ、にゃあ」
また猫が鳴いた。入るんなら入ればいい、と軽快な声色で喉を鳴らして。
その声があってか、それとも彼女の姿が見えたからなのか、私は店へと近づいていった。
かつり、かつりと乾いた靴音に勘付いたらしく、店先にいた女性はちらりとこちらを一瞥する。明るめの髪が揺れ、銀縁の眼鏡から黄の瞳が覗いた。
「…………」
しまった、目が合ってしまった。
現代人とはこうも複雑で、たったそれだけで心が飛び出そうになってしまう、脆い人種だ。私もそれに属しているからだろうか。今のようなたった数秒でも心が動転してしまうのだった。
どうしたものかと固まっていれば、彼女は唐突に声を上げた。
「本、お好きなんですか」
それは本当に急だった。普段は店の従業員か会社の人間、それか家族としか喋ることがないものだから、彼女のようなまったくの他人に話しかけられるとますます固まってしまった。
「...ああ、すみません。急に話しかけてしまっては困りますよね。でもここ、絶版になってしまった本から、古書という名に相応しい本まで色々揃ってますから。きっとそういう方なのかと」
息を吹くようにして話す彼女は、少なくとも悪い人ではなさそうだった。
「そう、ですね。好きな方ですが、最近は忙しくてなかなか... 第一、近所に住んでいるのですが、ここに来たのも初めてでして」
「......でしょうね。忙しいですもの、社会人は」
彼女はまた一度本に目を落としたかと思えば、すぐに閉じてこちらを見つめ返してきた。
「そんな時だからこそ、本はいいのだと思いますよ。きっと別の世界へ逃がしてくれるでしょうから」
「…なるほど」
嬉しげに黄色の目が細められる。無表情に見える表情だが、そこには少なからず本への愛情が滲み出ていた。
「じゃあ、長話になってしまうのもあれですし。私はそろそろここで」
彼女はおもむろに立ち上がり、先ほどの本も鞄へとしまい始めた。
「ああ、こちらこそすみません。ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。お話に付き合っていただきありがとうございました」
彼女の言う通り、こんな世知辛い世の中から逃げる術があっても良いと思う。その一つとして、本を読むということがあるのだとも。文で言えばほんの数行ほどの会話、それも何気ないものだったが、それは私の湿気った探究心を燻らせた。
「じゃあ、片瀬さん。また会う時まで」
ふんわりとしたセミロングをなびかせて、彼女は去っていった。その後ろ姿を見送り、私は再度店頭の磨りガラスへと向き直る。
暖かな光がガラスによってぼんやりとしたモザイクに変換されている。それがなんだか新鮮に感じられて、戸の先の世界へ期待が膨らんだ。
さて、戸を開こう。そうして一人盛り上がっていた私に、ふと一つの事柄が思い浮かぶ。
「……なんであの人、私の名前知ってたんだろ」
昔の人なんかは「恵みの雨」なんて呼んだはずなのに、現代人はどこか雨のことを毛嫌いしている。まあ仕方ないことだろう、昔の穏やかな雨は何処へ、今降っているのはゲリラ豪雨なるものだから。
「あー! 髪ぐっしゃぐしゃ。マジ萎えするわ」
ストライプのリボンを下げた女子高生が、明るい髪をわしゃわしゃと撫でる。彼女が手に持ったスマートフォンには、ここ一体が濃い青で塗りつぶされたような図が表示されていた。
「なんだよ、またあの路線大雨で運休かよ」
雨粒が描いたコントラストが、苛立っている彼のスーツに描かれていた。
右を見ても左を見ても、雨の愚痴が聞こえてくる。「現代人は余裕がない」。今日の朝刊でどっかの准教授が言っていた。全くその通りである。
しかしそれは私も同じ。私は腕時計の存在を忘れ、わざわざスマホを取り出して時計を見る。土曜日の昼下がり、13:05。気分もお空も、今日はぐづついたままでしょうかね、と口角が横に引っ張られた。
湿っぽくて仕方ない髪を耳に引っ掛け、ぐずり続けている雨を咎めるように見つめる。困ったものだ、とため息をついて、それを取り戻すように一呼吸吸い込んだ。
コンクリートの埃っぽい匂い。何パーセントか排気ガスを含む空気。それらが喉にまとわりつくように入ってくる。気分の針が悪い方向へ揺れる。
普段は超常現象的なことは信じないのだが、休日出勤後の私にはこの不運さえ「今日の星座占い、最下位だったせいかな」なんて思えてくるのだった。
だが雨もいつかは上がる。惰性的に続けているパズルゲームをやって、ちょうど2000面の大台に乗った、という頃には止んでいた。あんなにも波紋で揺れていた水たまりが、平然とそこに佇んでいる。コンクリートは乾いたところと湿ったところでまだら模様。
また平均へと戻っている街並みに、ふと陰湿な気持ちがわく。それは嫉妬のような、迷い子の心境のような。
それで私は、目の前の水たまりを思い切り踏んづけて、ずんずんと進んでいった。
ひとりの女が通った水たまり。踏んづけられたにもかかわらず、それは平然と私の影を映し出していた。
──────────────────
かつかつと響くヒールの音が、アスファルトに少しずつ染みこんでゆく。奇抜なあの子が履いている高さでも、女学生が履く低さでもない、実に平均的なヒールを響かせ、私は歩いていた。手に瀕死のスマートフォンを持たせて、同じように死にそうな精神を体には持たせて。
そこが閑静な住宅街だからか、ほかに人の音はなかった。そのかわり自然は賑やかだ。雀が羽をぷるぷると震わせて露を払う様子。野良猫がぼわりと膨らんだ毛をつくろっている姿。いつもは小さな長方形に囚われている視野が久し振りに広がっていくようだった。それはなかなかに良いもので、せっかちなはずの私を立ち止まらせるほど。
「にゃあ」
野良猫が鳴いた。「まあちょっと寄っていけよ」と先輩風をなびかせて、あくびを一つ浮かべた。
「...そうだねえ」
くるりと視点を回してみる。濡れたブロ
ック塀に腰かけた猫、青々とした空を映す水たまり、そんな日常の中に、一つ、ぽつんと店があった。
「なんだろうな、あそこ」
そこは、今では数少ない平屋建ての家屋に縦看板を取り付けた、なんともレトロな店だった。赤錆の名札をさげて、雨上がり特有の光を受けた様はまさに大物そのもの。しかしその呼び名には「近寄りがたい」というニュアンスも含まれているのも事実。私はその磨りガラスの戸を開く勇気がなかった。
だが、そこには一人先客がいた。店先にある木製の椅子に腰かけた、それも若い女性が。
「にゃあ、にゃあ」
また猫が鳴いた。入るんなら入ればいい、と軽快な声色で喉を鳴らして。
その声があってか、それとも彼女の姿が見えたからなのか、私は店へと近づいていった。
かつり、かつりと乾いた靴音に勘付いたらしく、店先にいた女性はちらりとこちらを一瞥する。明るめの髪が揺れ、銀縁の眼鏡から黄の瞳が覗いた。
「…………」
しまった、目が合ってしまった。
現代人とはこうも複雑で、たったそれだけで心が飛び出そうになってしまう、脆い人種だ。私もそれに属しているからだろうか。今のようなたった数秒でも心が動転してしまうのだった。
どうしたものかと固まっていれば、彼女は唐突に声を上げた。
「本、お好きなんですか」
それは本当に急だった。普段は店の従業員か会社の人間、それか家族としか喋ることがないものだから、彼女のようなまったくの他人に話しかけられるとますます固まってしまった。
「...ああ、すみません。急に話しかけてしまっては困りますよね。でもここ、絶版になってしまった本から、古書という名に相応しい本まで色々揃ってますから。きっとそういう方なのかと」
息を吹くようにして話す彼女は、少なくとも悪い人ではなさそうだった。
「そう、ですね。好きな方ですが、最近は忙しくてなかなか... 第一、近所に住んでいるのですが、ここに来たのも初めてでして」
「......でしょうね。忙しいですもの、社会人は」
彼女はまた一度本に目を落としたかと思えば、すぐに閉じてこちらを見つめ返してきた。
「そんな時だからこそ、本はいいのだと思いますよ。きっと別の世界へ逃がしてくれるでしょうから」
「…なるほど」
嬉しげに黄色の目が細められる。無表情に見える表情だが、そこには少なからず本への愛情が滲み出ていた。
「じゃあ、長話になってしまうのもあれですし。私はそろそろここで」
彼女はおもむろに立ち上がり、先ほどの本も鞄へとしまい始めた。
「ああ、こちらこそすみません。ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。お話に付き合っていただきありがとうございました」
彼女の言う通り、こんな世知辛い世の中から逃げる術があっても良いと思う。その一つとして、本を読むということがあるのだとも。文で言えばほんの数行ほどの会話、それも何気ないものだったが、それは私の湿気った探究心を燻らせた。
「じゃあ、片瀬さん。また会う時まで」
ふんわりとしたセミロングをなびかせて、彼女は去っていった。その後ろ姿を見送り、私は再度店頭の磨りガラスへと向き直る。
暖かな光がガラスによってぼんやりとしたモザイクに変換されている。それがなんだか新鮮に感じられて、戸の先の世界へ期待が膨らんだ。
さて、戸を開こう。そうして一人盛り上がっていた私に、ふと一つの事柄が思い浮かぶ。
「……なんであの人、私の名前知ってたんだろ」
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