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一章

ふと、記憶が呼び起こされる瞬間がある。それはそう、冷たい夜風が、仕事終わりで熱い頭を冷やしてくる、そんな時だろう。
少なくとも櫻子はそうだった。遅くなってしまった、と焦る頭をそっと撫でるように風が通り過ぎる。その時、櫻子はこの前見た夢を思い出したのだ。

「なんだったのかしら。あの夢」

ちょっと足を止めて思い出してみる。一房、あの子の髪が頰に触れた時の感覚。心地よい湖の水音。櫻子の記憶は鮮明だった。
しかし夢のことは思い出せても、肝心の少女の素性については何一つ思い出せなかった。まあ言ってしまえばただの夢なのだから、櫻子には少女に構う必要はない。だが、子供の願いを無下にすることも、せっかくの非日常を捨てることもなんとなく勿体ない。だから櫻子は、あの出張が終わったら合間を縫って調べてみようかと思案していた。

「...あ! お豆腐切れてたんだっけ!」

あいにく櫻子も現実に生きているため、その事項は後ろに追いやられそうだが。
現実に引き戻された櫻子は仕方なく豆腐屋を探す。幸い今いる場所は繁華街だから、いつも行っている店には遠くなさそうだ。
とてとてと草履を地面へ叩きつけ、一歩ずつ進んでゆく。すると、まばらに分布しているはずの天人達のなかに、ぽつりと一箇所だけ穴が空いているのがわかる。

櫻子がそこへ駆け寄れば、一オクターブほど低く、小さい声達が一斉に、また静かにはけてゆく。そしてその空白は繋がり、やがて一本の道を作った。
不思議そうに佇む、水仙へと続く道として。

「......は?なんで水仙が?」

「あら、姉様。お豆腐が切れていたので、買いに来たんですよ」

ただそれだけですよ、と笑う水仙を見て、櫻子は思い出した。
口角も、そこまで引かれた紅も、それは綺麗な綺麗な弧を描いて曲がっている。街灯よりも明るい月光が、水仙の長髪と濡れた唇を照らしていた。その全てが美しいはずなのに、なにか仕組まれてそうなっているような、不思議な感覚。それもこれも、この女が不気味の谷の住人だからこそ起こっているのだと櫻子は感づいた。
しかし今目の前に立っている女は、それが原因で目立っている事実から目を伏せ、わざとらしく笑っている。その理由が何かは知らないが、変に目立たれたままでは困る。櫻子は咎めることにして、口を開いた。

「......あんた、外出するときは気をつけなさいって言ったじゃない」

「私は子供ではないのですから、お使いぐらいできますよ? 心配なさらなくとも」

こうしている間にもそそくさと散ってゆく天人達を見て、櫻子は息を吐く。そういうことじゃないの、と目を合わせたら、水仙はにこりと微笑んでみせた。ああ、この妹、わかっているのにわかろうとしていない。

「ええ、私が美しいということはわかっておりますとも。それで人々が遠ざかってしまうことも、ね」

「わかってんならそういうことを踏まえて行動しなさいな」

たしかに春のたんぽぽを連想させるまつげに、森林の深緑を思わせる瞳の色などなどは筆舌に尽くしがたいほど美しいだろう。しかし、チャームポイントとは一人に一つあってこそ、一点物として輝くものだ。それを何個も持っているとすれば、人々が怪しがっても仕方がない。何処かから盗ってきたのではないかと、疑わしいからだ。
名もなき人から奪った宝物をつけているのでは、そう連想してしまうほど、人々の生まれ持った想像力は逞しいのだ。
そんな怪しさ満点の女は、それを気にも止めずに変わらず笑う。

「ふふ。わかりましたとも。姉様」

欠けることない満月の下。完全で不完全な女が、瞳を三日月に曲げた。











それをひっそりと、見つめている者に気がつきながら。
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