二章
星は見えないのに月だけ浮かぶ、ちぐはぐとした夜空の下。深い深い、木の絨毯が広がる中に一点、虫食ったように小さな切れ目があった。そこには月のきらめく、綺麗な水が注がれた湖へ続く道があり、続く点として木製のテーブルとティーセットが置いてあった。
背丈の高いスタンドは大ぶりのイチゴやピエのレース、ジャムクッキーが所狭しと並ぶ。そのぎっしりとした様子を、アールグレイの水面が映し出していた。
するとそこに、ふっと僅かな風が流れる。水面は揺らめき、代わりにセーラー服の袖が割り込んできた。黒に隠された腕はスタンドへと伸ばされ、やがて一枚のクッキーを掴む。またアールグレイが揺らめいてから、そのクッキーはセーラー服の口へと運ばれた。
あどけないくちびるを覆い尽くす紅が、がり、と音を立てて生地を染める。
「...なんだか」
少女の口に広がるのは糖と小麦の砂がぼそぼそと砕かれていく感触のみで、実に味気ないものだった。口の中でざらざらと液体に変わる砂は、夜の序章に観るぶつりぶつりと切れる夢のよう。掴み所はないのに後味だけ現実みたいなそれは、彼女に紅を引いた女と似ている。
この御茶会では「椿」と呼ばれている、美しい女と。
「お気に召さなかったかしら。月宮さま?」
横でくつくつと笑う、赤装束の女。枝のない髪に咲いた椿がゆらゆら揺れて、そこらの花に「恥じらいなさいな」と命じているようだった。彼女は少女の髪をすくい上げ、うつむきがちの顔を覗いた。じっとりと見つめる紅に、少女は次の言葉を促される。どくり、と契約の証に塗りたくられた口紅が熱を帯びた。気がした。
月宮と呼ばれた少女は弱く頭を振り、緑色の瞳を閉じる。そして一言「...眠り、たいんです」と口にした。
「どうしてかしら?」
椿は俯いた顔をすくい上げ、少女を月光の下へ曝す。月宮は月さえ眩しいと身をよじり、眉をひそめる。その様子が気に入らないようで、椿はわざと少女の朱を指でなぞった。くるり、くるり。往復するたびに震える唇が、月宮を子羊のように見せる。すると椿は裏返してにこにこと笑みを浮かべた。そしてあやすように青白い頬を撫で、一言こぼした。
「 ...また、なのですか」
「だって、だって私は...あのとき、軽い、軽い感情で......姉を、櫻姉さんを」
「やめなさいな。もう、彼女は悪い狼に食べられてしまったのですよ。記者様も刑事様もそうおっしゃっていたでしょう?」
ねえ? それでいいじゃあないのかしら。
また椿は念を押すように紅をなぞり、ぺっとりとついた紅を自身の首へ塗りつけた。それは濃く、擦っても擦っても消えなさそうなほどの赤であった。
「この朱色は、何の意味なの?」
首の赤筋を痛そうに摩り、椿は問いかける。
少女によって無意識に握りしめられた赤スカーフの皺が痛々しく影を落とす。それをまた握る気力がないからか、彼女の腕はすとんと落とされた。濁って深緑に変わった瞳がゆっくりと、諦めたように椿へと合わされる。
「...それは、私とあなたさまの契約の証そのものです」
「そうですよ。いいこねえ、貴方。私が主犯格で、貴方は告げられたままにしていればいいのです」
椿はゆっくりと頭を撫でて、子供のように少女を扱う。そして前述したことを、口を寄せて囁くとびっくりしたように月宮の肩が跳ねた。しかしじきにそれらを受け入れ、月宮は大人しくなった。それは彼女がこの環境に慣れ始めている証拠だろうか。なんにせよ、この御茶会が始まってから、実に半年が経とうとしていた。
「そろそろ貴方も慣れたでしょう。次は貴方の番ですよ。水仙様?」
さあ、と椿が手を伸ばせば、月宮は拒むことなくその手を取る。取る、というよりは添えると言った方がいいだろうか。その動作は先程とは打って変わってふんわりとした美しい仕草であった。
「ええ。ありがとうございますね。椿さま」
「いいえ。さあ、篠宮の方が帰ってきますよ」
「そうですね。急ぎましょうか」
少女はすっと黒の裾を持ち上げ会釈する。ゆっくりと顔が上がれば、そこには優雅な笑みを浮かべた「水仙」がいた。
やがて彼女は踵を返し、月の綺麗な湖へと歩みを進める。芝居掛かったように踏み出される足は、不自然とはいえど確実であった。
やがて、彼女の影が完全に隠れた。森の木がさわさわと揺れる音が聞こえ、一瞬場が完全に静かになったと感じる。しかし、すぐにまた新たな少女が現れた。あの少女と同じ深緑の瞳をした、不気味なほど美しい少女が。
「篠宮水仙、ただ今戻りました」
「三人の心内御茶会議」
背丈の高いスタンドは大ぶりのイチゴやピエのレース、ジャムクッキーが所狭しと並ぶ。そのぎっしりとした様子を、アールグレイの水面が映し出していた。
するとそこに、ふっと僅かな風が流れる。水面は揺らめき、代わりにセーラー服の袖が割り込んできた。黒に隠された腕はスタンドへと伸ばされ、やがて一枚のクッキーを掴む。またアールグレイが揺らめいてから、そのクッキーはセーラー服の口へと運ばれた。
あどけないくちびるを覆い尽くす紅が、がり、と音を立てて生地を染める。
「...なんだか」
少女の口に広がるのは糖と小麦の砂がぼそぼそと砕かれていく感触のみで、実に味気ないものだった。口の中でざらざらと液体に変わる砂は、夜の序章に観るぶつりぶつりと切れる夢のよう。掴み所はないのに後味だけ現実みたいなそれは、彼女に紅を引いた女と似ている。
この御茶会では「椿」と呼ばれている、美しい女と。
「お気に召さなかったかしら。月宮さま?」
横でくつくつと笑う、赤装束の女。枝のない髪に咲いた椿がゆらゆら揺れて、そこらの花に「恥じらいなさいな」と命じているようだった。彼女は少女の髪をすくい上げ、うつむきがちの顔を覗いた。じっとりと見つめる紅に、少女は次の言葉を促される。どくり、と契約の証に塗りたくられた口紅が熱を帯びた。気がした。
月宮と呼ばれた少女は弱く頭を振り、緑色の瞳を閉じる。そして一言「...眠り、たいんです」と口にした。
「どうしてかしら?」
椿は俯いた顔をすくい上げ、少女を月光の下へ曝す。月宮は月さえ眩しいと身をよじり、眉をひそめる。その様子が気に入らないようで、椿はわざと少女の朱を指でなぞった。くるり、くるり。往復するたびに震える唇が、月宮を子羊のように見せる。すると椿は裏返してにこにこと笑みを浮かべた。そしてあやすように青白い頬を撫で、一言こぼした。
「 ...また、なのですか」
「だって、だって私は...あのとき、軽い、軽い感情で......姉を、櫻姉さんを」
「やめなさいな。もう、彼女は悪い狼に食べられてしまったのですよ。記者様も刑事様もそうおっしゃっていたでしょう?」
ねえ? それでいいじゃあないのかしら。
また椿は念を押すように紅をなぞり、ぺっとりとついた紅を自身の首へ塗りつけた。それは濃く、擦っても擦っても消えなさそうなほどの赤であった。
「この朱色は、何の意味なの?」
首の赤筋を痛そうに摩り、椿は問いかける。
少女によって無意識に握りしめられた赤スカーフの皺が痛々しく影を落とす。それをまた握る気力がないからか、彼女の腕はすとんと落とされた。濁って深緑に変わった瞳がゆっくりと、諦めたように椿へと合わされる。
「...それは、私とあなたさまの契約の証そのものです」
「そうですよ。いいこねえ、貴方。私が主犯格で、貴方は告げられたままにしていればいいのです」
椿はゆっくりと頭を撫でて、子供のように少女を扱う。そして前述したことを、口を寄せて囁くとびっくりしたように月宮の肩が跳ねた。しかしじきにそれらを受け入れ、月宮は大人しくなった。それは彼女がこの環境に慣れ始めている証拠だろうか。なんにせよ、この御茶会が始まってから、実に半年が経とうとしていた。
「そろそろ貴方も慣れたでしょう。次は貴方の番ですよ。水仙様?」
さあ、と椿が手を伸ばせば、月宮は拒むことなくその手を取る。取る、というよりは添えると言った方がいいだろうか。その動作は先程とは打って変わってふんわりとした美しい仕草であった。
「ええ。ありがとうございますね。椿さま」
「いいえ。さあ、篠宮の方が帰ってきますよ」
「そうですね。急ぎましょうか」
少女はすっと黒の裾を持ち上げ会釈する。ゆっくりと顔が上がれば、そこには優雅な笑みを浮かべた「水仙」がいた。
やがて彼女は踵を返し、月の綺麗な湖へと歩みを進める。芝居掛かったように踏み出される足は、不自然とはいえど確実であった。
やがて、彼女の影が完全に隠れた。森の木がさわさわと揺れる音が聞こえ、一瞬場が完全に静かになったと感じる。しかし、すぐにまた新たな少女が現れた。あの少女と同じ深緑の瞳をした、不気味なほど美しい少女が。
「篠宮水仙、ただ今戻りました」
「三人の心内御茶会議」
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