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一章

促されるままにドアを通れば、そこは意外にもこじんまりとしたダイニングだった。シックな装いの室内には二つの椅子が向き合わせで置いてあり、黒い猫足のテーブルを囲うようにして悠然と佇んでいた。
上質な革でできているであろうその椅子に座れば、程なくして使用人であろう男がナプキンを渡してくる。それを静かに受け取れば、同じく席についていた閻魔が口を開いた。

「......ここから先は、まあ言ってしまえば無駄話になるのだが」

「良いですよ。どうぞ続けてくださいませ」

「私達は獄卒、つまりは罪人を捕らえ罪を償わせる立場なのだが、あいにく今回逃してしまった者がいてな」

赤色の目がぎりりと歯痒そうに若干曲がる。しかし一つ呼吸置かれた後、その目は強く見開かれた。

「物史華子、という女を探しているのだが」

始め、櫻子の心のうちは激しくざわめくものではなく、水の縁から波紋が広がっていく、そんなものだった。しかし波紋は次から次へと広がっていく。なぜ今この話が出たのか、なぜ華子がこの場で挙げられているのか、謎は謎を呼ぶばかりだった。
せっかくの会食だ、会話に花でも咲かせたいなどと考えていた櫻子は面食らった。卓の中央に咲いたのは、まぎれもなく棘を持った華ではないか、と。
奇しくも櫻子の真正面には、橙色の刺々しい薔薇が一輪飾られていた。

ぱさ。櫻子の手にあったナプキンが膝へと落ちる。慌ててそれを拾い目線を上げると、無表情の閻魔がこちらを冷たく見ていた。

「どうした? 神官よ。何か気に触ることでも? それとも────」

「その「物史華子」はお前の中で「生きて」いるのか?」

張り詰めた空気にあてられて、思わず口を覆った。下手に喋ったら終わり、といやでも悟ったからだろうか。
それでも櫻子は、粛々と、震える声で言ってみせた。

「......彼女は、生きています。それは事実です。しかし、しかし...しかしながら。私は物史華子についてのことを一切合切忘れています」

「...を作らなかったことは評価しよう。しかし私は閻魔なのでな。隠し事をされるのはいささか心地が悪い。そうだろう? 篠宮櫻子」

白い白い歯を見せながら、白々しい笑みを浮かべる閻魔はとても末恐ろしいものだった。何しろ目線が凍てつくように冷たく、意識せずとも叱責されているように感じられるのだから。
この閻魔の前に立つのは、他でもない、私、篠宮櫻子なのだと認識させられる。では、これ以上隠すこともできはしないだろう。櫻子は観念したかのように息を吐き、吸った。そして一息で、それを静かに述べた。

「...夢です。確かに物史華子は、私に幼女の姿で私に接触してきました」

「というと?」

「とある湖、といっても私のあばら家に近い場所にあるものですが......その場所にて、華子は全てを忘れている私に対し、自分を探すよう求めてきました。...舟の、上にて。そして最後、彼女は自分の名前を私に教え、消えてしまいました」

「...成る程」

櫻子が真情を吐露すれば、閻魔は神妙な顔へと変わる。きっと彼女の頭には様々な情報が渦巻いていることだろう。それを洗い流すように、閻魔は卓上のワインをごくりと飲んだ。そして少し湿った己の唇に手を当て「では、こうしよう」と呟いた。

「この女には懸賞金がかかっている。有力な情報などについてかけられるものだ。貴様さえよければ、その賞金だけではなく「協力者」としてのささやかな支援金を乗せることもできるのだが、どうだろう?」

「それは、正規のものなのでしょうか」

「ああ。勿論だ。何しろこの都は物騒なんだ、三年に一度は凶悪な亡者や罪人が逃げる。まあ昔は半年に一度だったが。ではせめて迅速に対応できるようにと、その罪人の親族や友人に対して協力を仰ぐことがある。それは金を使っても、だ」

「司法取引に当たることなのですか?」

「まあ通常は。だが貴様は罪人ではないだろう、金か何かがいるかと思ってな」

閻魔は唇から手を離し、指をぱらぱらと動かしてみせた。貴様にも悪くない話だろう、そんな黒い笑みを浮かべて。
笑みを保ったまま閻魔は尋ねる。

「で、どのくらい零はいる? 別に金に無頓着なのであれば、別のものでも良いが」

「では......天の都との契約として6銭、支払っていただけますでしょうか」

その言葉を聞いて、閻魔はより一層くつくつと笑った。そう、6銭とは獄の都において約因の最低限度の金額であった。そうかそうか、天下の都様に金は必要ないものだったなあ。そう言って乾いた喉にまた一口、ワインを含んだ。

「...生憎、私には六文銭は持っておく必要がないので。代わりにといってはなんですが、約束していただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「ああ、なんでも言うといい」

「この協議、この篠宮櫻子に引き続き担当させていただきたく思います」

少し、いやかなり強めに出たがどうだろうか。一抹の不安を感じつつ、櫻子は言った。するとどうだろうか。閻魔はあっけらかんと承認の言葉を呟いた。

「あァ。勿論だ。貴様は気に入ったからなあ」

酒が混じったからかと閻魔の顔色を見るが、そういうことではないらしい。先程よりかは軟化した空気と表情を鑑みるに、首の皮一枚繋がったと言えるのだろう。

「ありがたき幸せです」

「さて、そうと決まればお手紙を出すとしよう。都の上の方にな」

閻魔は中指にはめていた指輪印章を外すと、霊華の持ってきたワゴンへことりと置いた。

「先程打ち終えたものです。どうぞサインを」

閻魔は羊皮紙色のレターセットを霊華から受け取ると、懐から取り出した万年筆を手紙の末に滑らせた。かちり、と万年筆の蓋が閉まる音。この世界を変えるかもしれない手紙が生まれた証拠だった。
それを確認した霊華が再びレターセットを受け取ると、マッチで溶かされた赤を手紙の蓋へとたらした。
そして数モーメント。血痕のような蝋へ素早く、槌のように重い一撃が指輪によって落とされた。
そう。この長い長い仲違いに、一時的ではあるがピリオドが打たれたのだ。

「さあ、仕切り直しだ。グラスは持ったか?」

閻魔が目をゆっくりと目配せしてくる。櫻子もそれに応じ、新しい赤が注がれたグラスを持つ。

「では古い時代へ、」

「「献杯」」
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