with dogtag
室内は数週間前までは使われていたとは思えない程に荒み、酷い有様だった。元がそうだったのかはたまた事故によってか、壁だけでなく天井までが焦げ、煤に覆われ、廃墟の一室だと言われても信じてしまいそうな。
ある程度片付けられている様子ではあったが、部屋に足を踏み入れ息を吸う直前、ライネケは殆ど本能で鼻を覆った。
――肺に届くその臭いはまるで、戦場のような。
人体を焼いた悪臭の名残を感じ、喉の奥がせり上がる。死体やそれに類する痕跡こそ見られなかったが、暗く淀んだ地下の空気からは粗雑に処理された死の気配がした。
立ち止まったライネケを尻目に、ウルガーは淡々と進み、周囲を見回した。
元々、器具や調度品があったのかは定かでない。全てが焼き払われているようで、地下を掘り平らに整えただけ、といった粗雑な床には何もなかった。
その上に、懐から取り出した羊皮紙を広げて、ライネケに手招きする。
「……ここに描かれている意味は分かるかい?」
隅を押さえるよう指示された通りに動きながら、ライネケはその紙面を見る。
人間が横になれる程の大きさの羊皮紙には、大きな円と、沿うように描かれた呪文が目立つ。それが何かを喚ぶためのものだということは予想できたが、果たしてそれが何を指しているのかまでは分からなかった。
より正確に表現するならば、読み取ることは出来たが……一般にそれは、有り得ない事象を示していた。
---
---
「……概念の召喚、……ですか?」
「そう、概念。世界を構成するもの、人に仇なす悪魔」
心当たりでもあったかな、と雑談でもする調子で笑みを含めるウルガーは、ライネケの表情の変化を見逃さなかった。
何も知らない、訳ではなさそうな。
――概念とは、言い換えるならばそれは、神にも等しく、その足跡はそのまま人類の歴史と重なる。大陸から辺境の島々まで、その存在を語らない神話体系は存在しない、世界を構築する存在。概念は糸状であると伝えられており、その織物で包まれた世界こそがこの世である。
正確には、概念それそのものを視認したという公の記録は存在しない。しかし、一枚の大いなる布からほつれた糸がこの世のどこかに落ちた時、その場に在る物質に宿り、時に莫大な魔力と叡智を授ける神となり、はたまた混沌を与える悪魔になる、とされた。
人の理の外にあるそれは、長い年月の果てに信仰を集め、一時期は盛んに研究されていた。けれど、いつからか。魔術師たちは世界の均衡が崩れることを恐れ、深淵へ至る道の解明を禁じた。
それはまたさらなる時を経た後、国家間の条文に禁忌として記されるほど、脅威と見なされた存在だった。
――だからこそ、概念を、悪魔を喚ぶのは不可能だと。
それでも、ウルガーの問いに咄嗟に応えられたのは、出陣前に交わしたアリベルトとの会話があったからだった。
『それはな、魔性だよ。悪魔、概念の生体――召喚に成功した、隷属の生き物だ』
あの時は隷属という言葉に反応しその正体にまで頭が回っていなかったが、正体不明の彼女の由来が、そうであるのならば。色恋に疎いアリベルトが彼女を囲う意味も理解できた。
「……それは、アレクサンドロフ大尉が連れている女性に関係があったりしますか?」
「……」
返事は無く、顔を上げれば、相も変わらず真意の読めないウルガーと目が合う。
生来の顔形なのか、あるいは意識してなのか。緩やかに上がった口角とは対照的な強い眼光を湛えた眼差しが、ライネケを捉えた。
……隠し事をしているわけでもないのに、酷く居心地が悪い。狂った、と形容される彼の噂は戦場での活躍ではなく、底の見えない表情のせいかもしれないと、仄暗い闇の中、爛々と光る瞳を前に、ライネケは喉を鳴らした。
「……あの、」
「僕は、今から喚ぶモノを君に任せようと思っている」
「え、」
何故、と続けようとした口はそのまま、声を失う。人差し指を口元に寄せ、黙るよう指示したウルガーの所作に従って、口を閉じた。
「君は交渉や駆け引きに長けていると思っていてね。……上官や部下、同輩らとの良好な人間関係の構築やあのアレクサンドロフ大尉の友人と呼べる立場のキープ、というのは目を掛けるに相応しい才だ」
上手く立ち回った自覚こそあれど、それが特別なものだという認識は無かった。人に合わせるのは苦ではなかったし、それで生きやすくなるならそうしない理由がない。多かれ少なかれ皆がしていることだと思っていたから、改めて認められると、それはそれで些かむず痒い心地になるのも確かだった。
「……僕は、それとのやり取りに自信がない。その点を君が担ってくれるというのであれば、何にも代え難く心強いだろう。……それに、それと上手く関係を築けたとして、表に出るのはやはり君だからね」
「俺が……?」
「出自による序列を廃するための先導なのに、貴族であるダリエベルク家の人間がそんなことを声高に叫んでも、説得力がないだろう?」
どのように動き、どのように動かすかは君に任せる、と。
ウルガーにとってのメリットは、ライネケには分からなかったが、これだけ重い役割を任されたことも、今まで無かった。
――あくまで皆の目に映る人形として選ばれたのだとしても、ライネケには知る由もなかった。
ある程度片付けられている様子ではあったが、部屋に足を踏み入れ息を吸う直前、ライネケは殆ど本能で鼻を覆った。
――肺に届くその臭いはまるで、戦場のような。
人体を焼いた悪臭の名残を感じ、喉の奥がせり上がる。死体やそれに類する痕跡こそ見られなかったが、暗く淀んだ地下の空気からは粗雑に処理された死の気配がした。
立ち止まったライネケを尻目に、ウルガーは淡々と進み、周囲を見回した。
元々、器具や調度品があったのかは定かでない。全てが焼き払われているようで、地下を掘り平らに整えただけ、といった粗雑な床には何もなかった。
その上に、懐から取り出した羊皮紙を広げて、ライネケに手招きする。
「……ここに描かれている意味は分かるかい?」
隅を押さえるよう指示された通りに動きながら、ライネケはその紙面を見る。
人間が横になれる程の大きさの羊皮紙には、大きな円と、沿うように描かれた呪文が目立つ。それが何かを喚ぶためのものだということは予想できたが、果たしてそれが何を指しているのかまでは分からなかった。
より正確に表現するならば、読み取ることは出来たが……一般にそれは、有り得ない事象を示していた。
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「……概念の召喚、……ですか?」
「そう、概念。世界を構成するもの、人に仇なす悪魔」
心当たりでもあったかな、と雑談でもする調子で笑みを含めるウルガーは、ライネケの表情の変化を見逃さなかった。
何も知らない、訳ではなさそうな。
――概念とは、言い換えるならばそれは、神にも等しく、その足跡はそのまま人類の歴史と重なる。大陸から辺境の島々まで、その存在を語らない神話体系は存在しない、世界を構築する存在。概念は糸状であると伝えられており、その織物で包まれた世界こそがこの世である。
正確には、概念それそのものを視認したという公の記録は存在しない。しかし、一枚の大いなる布からほつれた糸がこの世のどこかに落ちた時、その場に在る物質に宿り、時に莫大な魔力と叡智を授ける神となり、はたまた混沌を与える悪魔になる、とされた。
人の理の外にあるそれは、長い年月の果てに信仰を集め、一時期は盛んに研究されていた。けれど、いつからか。魔術師たちは世界の均衡が崩れることを恐れ、深淵へ至る道の解明を禁じた。
それはまたさらなる時を経た後、国家間の条文に禁忌として記されるほど、脅威と見なされた存在だった。
――だからこそ、概念を、悪魔を喚ぶのは不可能だと。
それでも、ウルガーの問いに咄嗟に応えられたのは、出陣前に交わしたアリベルトとの会話があったからだった。
『それはな、魔性だよ。悪魔、概念の生体――召喚に成功した、隷属の生き物だ』
あの時は隷属という言葉に反応しその正体にまで頭が回っていなかったが、正体不明の彼女の由来が、そうであるのならば。色恋に疎いアリベルトが彼女を囲う意味も理解できた。
「……それは、アレクサンドロフ大尉が連れている女性に関係があったりしますか?」
「……」
返事は無く、顔を上げれば、相も変わらず真意の読めないウルガーと目が合う。
生来の顔形なのか、あるいは意識してなのか。緩やかに上がった口角とは対照的な強い眼光を湛えた眼差しが、ライネケを捉えた。
……隠し事をしているわけでもないのに、酷く居心地が悪い。狂った、と形容される彼の噂は戦場での活躍ではなく、底の見えない表情のせいかもしれないと、仄暗い闇の中、爛々と光る瞳を前に、ライネケは喉を鳴らした。
「……あの、」
「僕は、今から喚ぶモノを君に任せようと思っている」
「え、」
何故、と続けようとした口はそのまま、声を失う。人差し指を口元に寄せ、黙るよう指示したウルガーの所作に従って、口を閉じた。
「君は交渉や駆け引きに長けていると思っていてね。……上官や部下、同輩らとの良好な人間関係の構築やあのアレクサンドロフ大尉の友人と呼べる立場のキープ、というのは目を掛けるに相応しい才だ」
上手く立ち回った自覚こそあれど、それが特別なものだという認識は無かった。人に合わせるのは苦ではなかったし、それで生きやすくなるならそうしない理由がない。多かれ少なかれ皆がしていることだと思っていたから、改めて認められると、それはそれで些かむず痒い心地になるのも確かだった。
「……僕は、それとのやり取りに自信がない。その点を君が担ってくれるというのであれば、何にも代え難く心強いだろう。……それに、それと上手く関係を築けたとして、表に出るのはやはり君だからね」
「俺が……?」
「出自による序列を廃するための先導なのに、貴族であるダリエベルク家の人間がそんなことを声高に叫んでも、説得力がないだろう?」
どのように動き、どのように動かすかは君に任せる、と。
ウルガーにとってのメリットは、ライネケには分からなかったが、これだけ重い役割を任されたことも、今まで無かった。
――あくまで皆の目に映る人形として選ばれたのだとしても、ライネケには知る由もなかった。