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一般に赤毛と呼ばれるよりもなお燃える炎のような髪色は、その名と相まって軍内に広く知られていた。
ダリエベルクの裔、侯爵家の七光り。赤犬ウルガー。
頭上、赤い頭髪に埋もれて短く切られた獣の耳が、彼の出自を示している。亜人種とされ人間とは違う種族で括られた彼の父は、表向きは平等を謳う法の下、現実では拒絶の対象だった。
それは血を引いただけのウルガーにも、向けられる視線として現れた。
例えば。本来、士官として指揮に励み殆ど白兵戦には出されない程の血筋の持ち主にも関わらず、獣人は肉弾戦向きだろう、と嘲笑交じりの采配をされて。幾度も幾度も、前線に配属されてきた。
けれどその全てで戦果を挙げられたのは、血に流れる魔力の多さや獣人としての身体能力とは全く別に、異常なまでの勝利への執着があったためだった。
銃弾が尽きれば魔術を、魔力が切れたら剣を、刃が鈍ったなら拳を。
集中と殺気は硝煙に晒されてなお途切れることはなく、傷も痛みも枷にはならない。
「まだ退けとは言われていないよ」
戦の最中、穏やかな声色で繰り返されるただ一言。ウルガーの歩みが止まらない理由は、ただそれだけだった。
撤退を指示されていないから、勝つまで進む。
流した血と築いた屍は、当初は軽口を叩いていた雑兵が、肩を並べ戦に立つ毎にその口を慎むようになる程度の数だった。
そうして積み上げられた成果を、何度も歪に曲げられて。
ダリエベルクに名を連ねる者とは思えない亀の歩みで重ねた昇進でやっと掴んだ大尉の位は、中将には価値あるものとして映らなかった。
――そもそもレイモンドが一言でも口を出していたのであれば、ウルガーがここまで蔑ろにされることは無かった。直接的に暴行や中傷を受けることこそ無かったが、親族である中将にすら見放された駄犬、それが彼の評価だった。
赤い髪の下、同じく紅い瞳を鈍く光らせて、軍舎に靴音を響かせる。その目が探すのは「協力者」の存在。
――魔物を呼び出した際の危機回避のため、有り体に言えば生贄、と言えばいいのだろうか。船の舵を切り、いざというときには切り離すことのできる程度の人材。
レイモンドから支持された材料は幾つかあれど、ウルガーの頭を最も悩ませているのはその人選だった。誰を、どのように、抱き込むのか。それすら試されているのであろうことは想像に難くなかったが、如何せん彼にはそういった機微に疎かった。
故に。
たまたま、偶然。
すれ違った兵が、アリベルトと話す姿をよく見かける者だった場合。声をかけるのはごく自然とも言えた。
「君!……少し、同行願えるかい?」
既知でもない上官に声を掛けられたライネケは、驚きつつもその背に付いていくことを了承した。
やましいことが無いわけではなく、呼び出しをされる理由として幾つかの規律違反が頭を過ったが。真赤な頭髪に心当たりのある名前から連想されるのは、彼らと対立している家系。
彼の友人、アリベルトに関してだった。
*
背後にライネケを従えて、ウルガーはそのまま、軍舎の中を進む。ただ散歩をしているだけにも見えずどこか目的地に向かうような足取りだったが、ライネケには覚えのない区画だった。
足を進める毎に窓の数が減り、開いている扉の数が減り、古書と薬品のにおいが鼻をつく。時折すれ違う人影は目深に黒い外套を被り、兵というよりは魔術を生業とする者の衣装に見えた。
「単刀直入に聞くよ。……ライネケ・ネフライト軍曹」
それこそ、雑談でも始めるような声の調子で。あちらこちらへ目が散っていたライネケも、二人きりで声を掛けられてしまっては興味を引く薄暗い廊下よりも自分の上官に向き直る他無く、その赤い後頭部に視線を移した。表情こそ窺えなかったが、緩い癖のある巻き毛の中に埋もれた短い獣の耳が見え、思い浮かべるまでもなく彼の二つ名が脳裏を過った。
赤犬ウルガー。
もっと狂犬じみた噂を耳にしていただけに、穏やかな声色と表情は予想外だった。
「アレクサンドロフ大尉は、その階位に足る人間だと思うかい?」
声の温度は変わらず、歩む速度だけがやや落ちたのが分かった。思考を促し回答を促すための配慮だろうことは想像できたが、同時に何故か、言葉を急かされているようにも感じた。
――偶然にすれ違ったとはいえ、ウルガーがライネケに声をかけたのは、投げ遣りな人選ゆえではない。
レイモンドに渡された名簿の中に連ねてあったのは多くがダリエベルクに由来する影であり、ある程度の融通が利く兵の名ばかりであった。
その中でも特に異色だったのがライネケ・ネフライト。出身が自国であることの他は殆どダリエベルクとの接点も見当たらなかった彼は、アリベルトの唯一の友人ということでその名が挙がったらしい。
彼らの差異は、その階級に表れる通りだった。
ライネケとアリベルトは歳を同じくして魔術学校、士官学校を卒業し、全く同じ道を辿って入隊した同輩だった。が、二人の階級は、いつの間にか大きく開いていた。
――否。その差は、入隊時に授けられたその時から異なっていた。
士官と一兵卒。片や現役の将校の一人息子、片や街角の道具店の次男坊。成績表よりも露骨に二人を分ける、正服の意匠。
「僭越ながら、ア……レクサンドロフ大尉がその階級に見合う人間であることが評価されたため、大尉を任命されたものと考えます。……私個人が意見すべき事柄ではないと存じております」
問いは返さずに、大意のみ汲み取って上澄みだけを答える。白黒や賛否を曖昧にしたままの回答は世渡りの知恵だったが、言葉にしたそれもまた彼にとっては真実だった。
隣で見ていたからこそわかる、圧倒的な魔力差。それは不用意に扱われるようなものではなく、人の上に立ち、いつかの有事に使うべきなのだろう、と。
――そう、飲み込んできた。
「そうかな。他国から我が国に渡って来た高貴な血、彼の父が切り開いた道を歩むだけで評価が得られる産まれ。それに座すだけの人間だと思ったことは?」
「そのような、……そのような、易しい道ではなかったかと」
魔力には、量や質とは別に幾つかの型がある。熱を流れを操り、素材を組み立て、認識を歪め思考を傾ける。得意とされる分野によって大まかには五つに分けられる体系から省かれた、もう一つ。
不得手の魔力。
余程集中しない限り、編んだ魔術が意図しない形や火力で出力される。元となる魔力の得手の上から塗り潰す形で発現するため一生気付かれないこともあるが、早々に自覚あるいは指摘され、そうである、とされた場合。本人の反応は研鑽と諦観に二分され、家族の反応は隠蔽の一筋に絞られる。
かなり繊細な問題であるため公表はされていなかったが――隣で見ていたからこそ、分かってしまう。魔力量の差だけではなく、アリベルトの魔術が尽く成功の形に収まらないこと。そして彼自身がある種の諦観に飲まれてしまったこと。
だから、アリベルトの歩んできた道が決して平坦でなかったであろうことは想像に難くなかった。
「易しい道ではなかった、……それは認めよう。他でもない彼の友人である君が見てきたことだ」
「いえ、ダリエベルク大尉の仰ることも尤もです」
「なら、君の道はそれと比して、今の立場に甘んじなければならない程に悪路だったということかな」
「そ、れは……」
悪路と称される程悪い道のりだったかと問われれば、そういう訳でもなかった。ライネケは、平民出身にしてはよくやっている方だった。出世が早いわけではなかったが、上官に可愛がられ部下に慕われ、プレイボーイとして人の噂に乗り。人並み以上に処世術を身に着けている、と、自覚があった。
しかし。目の前の上官の言葉と――未だ記憶の片隅に居座り続ける彼女の影が。普段は意識するまでもなく切り離していた二人の人生を重ねてしまう。
言葉にさえしなければ、確かな形を持つことのなかった感情を。
廊下の端、地下へ向かう階段を下りながら。相変わらず動揺も感情の起伏も感じられない声が、壁に反響する。
「ネフライト軍曹。出身を理由に序列を付けられる、そんな連鎖を断ち切りたくはないか」
その血を理由に理不尽な扱いを受けてきた上官が口にするには、あまりに正当な誘い。
どれだけ上手く立ち回ったとてそう遠くはない将来、決して高いとは言えない天井に頭をぶつけてそのまま終えるであろう自らの背を見てしまった後では、もう、目を瞑ることは出来なかった。
名のある親元に産まれ、強い力を持て余し、捻じ曲がった結果を残す魔術しか使えなかったとしても。
――うらやましい。
それは、学生時代にアリベルトの友人となってから、見ないふりをして飲み込んできた感情の形。
「……」
言葉を失ったライネケを尻目に、ウルガーは階段を降り切った先を更に進む。所々を照らす白色電球は頼りなく、通り過ぎた一本道でさえ見失ってしまいそうな濃い闇が辺りを揺蕩っていた。
ある扉の前で、ウルガーは足を止めた。自然とその後ろで立ち止まったライネケを振り向く。
「ネフライト軍曹。……いいや、ライネケ・ネフライト。僕は君の価値を知っている。一人の人間として、どうか協力してはくれないかな」
不自然に電線の途切れ、地下でもいっとう暗いその部屋の前。焼け焦げ、木の板で打ち付けられた扉を背に、ウルガーは静かに腰を折った。軽い会釈のような姿勢と伸ばされた手は、ダンスに誘う貴公子を彷彿とさせる所作で。
「……チャンスを、その手で掴んではくれないだろうか」
ライネケの背後から射し込む電球の心許ない灯りは丁度、差し出された手を照らす。光の当たっていない端から闇に溶けていく赤髪とは対照的に、その瞳は内側から零れるような微かな輝きを宿していた。
血に濡れたと噂される虹彩はむしろ、花弁の華やかさで色付いている。婦人の唇を彩る濃い紅を閉じ込め、涙液で閉じ込めたような。話に聞いていた物騒な色からはかけ離れた印象だった。
感情や揺らぎの見えない代わりに、完璧な凪を見せる。そんな瞳。
そして、ライネケに向けられ、照らされた掌。白い手袋も相まり、眩いばかりの輝きを放って。
――それはあまりに完璧で、救いと正義が形を成したような光景だったから。
「……ありがとう。君の協力に、応えよう」
その手を取ってしまっても、仕方のないことだった。
ダリエベルクの裔、侯爵家の七光り。赤犬ウルガー。
頭上、赤い頭髪に埋もれて短く切られた獣の耳が、彼の出自を示している。亜人種とされ人間とは違う種族で括られた彼の父は、表向きは平等を謳う法の下、現実では拒絶の対象だった。
それは血を引いただけのウルガーにも、向けられる視線として現れた。
例えば。本来、士官として指揮に励み殆ど白兵戦には出されない程の血筋の持ち主にも関わらず、獣人は肉弾戦向きだろう、と嘲笑交じりの采配をされて。幾度も幾度も、前線に配属されてきた。
けれどその全てで戦果を挙げられたのは、血に流れる魔力の多さや獣人としての身体能力とは全く別に、異常なまでの勝利への執着があったためだった。
銃弾が尽きれば魔術を、魔力が切れたら剣を、刃が鈍ったなら拳を。
集中と殺気は硝煙に晒されてなお途切れることはなく、傷も痛みも枷にはならない。
「まだ退けとは言われていないよ」
戦の最中、穏やかな声色で繰り返されるただ一言。ウルガーの歩みが止まらない理由は、ただそれだけだった。
撤退を指示されていないから、勝つまで進む。
流した血と築いた屍は、当初は軽口を叩いていた雑兵が、肩を並べ戦に立つ毎にその口を慎むようになる程度の数だった。
そうして積み上げられた成果を、何度も歪に曲げられて。
ダリエベルクに名を連ねる者とは思えない亀の歩みで重ねた昇進でやっと掴んだ大尉の位は、中将には価値あるものとして映らなかった。
――そもそもレイモンドが一言でも口を出していたのであれば、ウルガーがここまで蔑ろにされることは無かった。直接的に暴行や中傷を受けることこそ無かったが、親族である中将にすら見放された駄犬、それが彼の評価だった。
赤い髪の下、同じく紅い瞳を鈍く光らせて、軍舎に靴音を響かせる。その目が探すのは「協力者」の存在。
――魔物を呼び出した際の危機回避のため、有り体に言えば生贄、と言えばいいのだろうか。船の舵を切り、いざというときには切り離すことのできる程度の人材。
レイモンドから支持された材料は幾つかあれど、ウルガーの頭を最も悩ませているのはその人選だった。誰を、どのように、抱き込むのか。それすら試されているのであろうことは想像に難くなかったが、如何せん彼にはそういった機微に疎かった。
故に。
たまたま、偶然。
すれ違った兵が、アリベルトと話す姿をよく見かける者だった場合。声をかけるのはごく自然とも言えた。
「君!……少し、同行願えるかい?」
既知でもない上官に声を掛けられたライネケは、驚きつつもその背に付いていくことを了承した。
やましいことが無いわけではなく、呼び出しをされる理由として幾つかの規律違反が頭を過ったが。真赤な頭髪に心当たりのある名前から連想されるのは、彼らと対立している家系。
彼の友人、アリベルトに関してだった。
*
背後にライネケを従えて、ウルガーはそのまま、軍舎の中を進む。ただ散歩をしているだけにも見えずどこか目的地に向かうような足取りだったが、ライネケには覚えのない区画だった。
足を進める毎に窓の数が減り、開いている扉の数が減り、古書と薬品のにおいが鼻をつく。時折すれ違う人影は目深に黒い外套を被り、兵というよりは魔術を生業とする者の衣装に見えた。
「単刀直入に聞くよ。……ライネケ・ネフライト軍曹」
それこそ、雑談でも始めるような声の調子で。あちらこちらへ目が散っていたライネケも、二人きりで声を掛けられてしまっては興味を引く薄暗い廊下よりも自分の上官に向き直る他無く、その赤い後頭部に視線を移した。表情こそ窺えなかったが、緩い癖のある巻き毛の中に埋もれた短い獣の耳が見え、思い浮かべるまでもなく彼の二つ名が脳裏を過った。
赤犬ウルガー。
もっと狂犬じみた噂を耳にしていただけに、穏やかな声色と表情は予想外だった。
「アレクサンドロフ大尉は、その階位に足る人間だと思うかい?」
声の温度は変わらず、歩む速度だけがやや落ちたのが分かった。思考を促し回答を促すための配慮だろうことは想像できたが、同時に何故か、言葉を急かされているようにも感じた。
――偶然にすれ違ったとはいえ、ウルガーがライネケに声をかけたのは、投げ遣りな人選ゆえではない。
レイモンドに渡された名簿の中に連ねてあったのは多くがダリエベルクに由来する影であり、ある程度の融通が利く兵の名ばかりであった。
その中でも特に異色だったのがライネケ・ネフライト。出身が自国であることの他は殆どダリエベルクとの接点も見当たらなかった彼は、アリベルトの唯一の友人ということでその名が挙がったらしい。
彼らの差異は、その階級に表れる通りだった。
ライネケとアリベルトは歳を同じくして魔術学校、士官学校を卒業し、全く同じ道を辿って入隊した同輩だった。が、二人の階級は、いつの間にか大きく開いていた。
――否。その差は、入隊時に授けられたその時から異なっていた。
士官と一兵卒。片や現役の将校の一人息子、片や街角の道具店の次男坊。成績表よりも露骨に二人を分ける、正服の意匠。
「僭越ながら、ア……レクサンドロフ大尉がその階級に見合う人間であることが評価されたため、大尉を任命されたものと考えます。……私個人が意見すべき事柄ではないと存じております」
問いは返さずに、大意のみ汲み取って上澄みだけを答える。白黒や賛否を曖昧にしたままの回答は世渡りの知恵だったが、言葉にしたそれもまた彼にとっては真実だった。
隣で見ていたからこそわかる、圧倒的な魔力差。それは不用意に扱われるようなものではなく、人の上に立ち、いつかの有事に使うべきなのだろう、と。
――そう、飲み込んできた。
「そうかな。他国から我が国に渡って来た高貴な血、彼の父が切り開いた道を歩むだけで評価が得られる産まれ。それに座すだけの人間だと思ったことは?」
「そのような、……そのような、易しい道ではなかったかと」
魔力には、量や質とは別に幾つかの型がある。熱を流れを操り、素材を組み立て、認識を歪め思考を傾ける。得意とされる分野によって大まかには五つに分けられる体系から省かれた、もう一つ。
不得手の魔力。
余程集中しない限り、編んだ魔術が意図しない形や火力で出力される。元となる魔力の得手の上から塗り潰す形で発現するため一生気付かれないこともあるが、早々に自覚あるいは指摘され、そうである、とされた場合。本人の反応は研鑽と諦観に二分され、家族の反応は隠蔽の一筋に絞られる。
かなり繊細な問題であるため公表はされていなかったが――隣で見ていたからこそ、分かってしまう。魔力量の差だけではなく、アリベルトの魔術が尽く成功の形に収まらないこと。そして彼自身がある種の諦観に飲まれてしまったこと。
だから、アリベルトの歩んできた道が決して平坦でなかったであろうことは想像に難くなかった。
「易しい道ではなかった、……それは認めよう。他でもない彼の友人である君が見てきたことだ」
「いえ、ダリエベルク大尉の仰ることも尤もです」
「なら、君の道はそれと比して、今の立場に甘んじなければならない程に悪路だったということかな」
「そ、れは……」
悪路と称される程悪い道のりだったかと問われれば、そういう訳でもなかった。ライネケは、平民出身にしてはよくやっている方だった。出世が早いわけではなかったが、上官に可愛がられ部下に慕われ、プレイボーイとして人の噂に乗り。人並み以上に処世術を身に着けている、と、自覚があった。
しかし。目の前の上官の言葉と――未だ記憶の片隅に居座り続ける彼女の影が。普段は意識するまでもなく切り離していた二人の人生を重ねてしまう。
言葉にさえしなければ、確かな形を持つことのなかった感情を。
廊下の端、地下へ向かう階段を下りながら。相変わらず動揺も感情の起伏も感じられない声が、壁に反響する。
「ネフライト軍曹。出身を理由に序列を付けられる、そんな連鎖を断ち切りたくはないか」
その血を理由に理不尽な扱いを受けてきた上官が口にするには、あまりに正当な誘い。
どれだけ上手く立ち回ったとてそう遠くはない将来、決して高いとは言えない天井に頭をぶつけてそのまま終えるであろう自らの背を見てしまった後では、もう、目を瞑ることは出来なかった。
名のある親元に産まれ、強い力を持て余し、捻じ曲がった結果を残す魔術しか使えなかったとしても。
――うらやましい。
それは、学生時代にアリベルトの友人となってから、見ないふりをして飲み込んできた感情の形。
「……」
言葉を失ったライネケを尻目に、ウルガーは階段を降り切った先を更に進む。所々を照らす白色電球は頼りなく、通り過ぎた一本道でさえ見失ってしまいそうな濃い闇が辺りを揺蕩っていた。
ある扉の前で、ウルガーは足を止めた。自然とその後ろで立ち止まったライネケを振り向く。
「ネフライト軍曹。……いいや、ライネケ・ネフライト。僕は君の価値を知っている。一人の人間として、どうか協力してはくれないかな」
不自然に電線の途切れ、地下でもいっとう暗いその部屋の前。焼け焦げ、木の板で打ち付けられた扉を背に、ウルガーは静かに腰を折った。軽い会釈のような姿勢と伸ばされた手は、ダンスに誘う貴公子を彷彿とさせる所作で。
「……チャンスを、その手で掴んではくれないだろうか」
ライネケの背後から射し込む電球の心許ない灯りは丁度、差し出された手を照らす。光の当たっていない端から闇に溶けていく赤髪とは対照的に、その瞳は内側から零れるような微かな輝きを宿していた。
血に濡れたと噂される虹彩はむしろ、花弁の華やかさで色付いている。婦人の唇を彩る濃い紅を閉じ込め、涙液で閉じ込めたような。話に聞いていた物騒な色からはかけ離れた印象だった。
感情や揺らぎの見えない代わりに、完璧な凪を見せる。そんな瞳。
そして、ライネケに向けられ、照らされた掌。白い手袋も相まり、眩いばかりの輝きを放って。
――それはあまりに完璧で、救いと正義が形を成したような光景だったから。
「……ありがとう。君の協力に、応えよう」
その手を取ってしまっても、仕方のないことだった。