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 戦線の報せは公の伝令より早く、レイモンド・フォン・ダリエベルクの耳に届いた。
 普段であればティータイムとされる午後のひと時。淹れられたばかりの香り立つ紅茶は、急遽告げられた戦報によって手を付けられることなく、ただ湯気を立てるばかりだった

「中将閣下もご存じの通り、此度の戦は敗戦の兆しが色濃く、兵らの士気は淀み、惨憺たる有様でした」

 己の補佐官からの報告を聞く、その姿勢は正しく、背筋に板でも入ったよう。金糸交じりのグレイヘアーは長く一つに纏められ、一分の乱れもなく肩に流れている。封蝋の紅にも似た色の瞳は細められ、眉間には皺が寄っていた。

「しかし、アレクサンドロフ大尉の到着から戦況は一変。連れてきた”兵器”は圧倒的な力で以て戦場を蹂躙、遂には敵軍を、」

 最後まで言い切る前に、手で制し。思案の表情と共にレイモンドは己の顎髭に指を絡ませた。
 言葉にするまでもなく、レイモンドは自軍の勝利を切に願っていた。中将まで上り詰めたのは決して自国愛のためだけではなかったが――それでも、己が属する軍の名に傷をつけぬよう修練に励み、周囲や部下にも同等の意思と研鑽を求めてきた。それが実を結んだのが今の立場であり、胸に連なる徽章の数に表れていた。
 ――然して。此度の戦は例外の一つであった。否、戦線自体が例外なのではなく、そこに挙げられた兵が問題だった。
 溜息を吐き、補佐官から視線を外す。一瞬緩んだかに思えた空気だったが、少しでも動けば切れてしまいそうな鋭い緊張感は未だ、補佐官の身体を包んでいる。
 一拍、二拍。
 ……補佐官のこめかみを冷や汗が伝い、紅茶が冷めた頃。
 掠れた声が普段よりも一層低く、空気を震わせた。

「……アレクサンドロフ卿の子息は幸運にも、見事な得物を手にしたらしいな」

 補佐官の報告通り、投入された戦力の差や地の利から、開戦前から敗退が決まったも同然の戦いだった。最早その一敗すら戦略に組み込まれた、切り捨ての先駆隊。
 とはいえ戦績に傷を付けたくない将官各位はその指揮を投げ、その末端で引き受けたのがアレクサンドロフ卿――すなわち、エウゲーニィだった。
 そして、投下された彼の秘蔵児は、どうやら存分に成果を上げたようだった。
 ダリエベルクの血よりもさらに旧く、濃い血統の末裔。それ故その身に蓄えることを許された膨大な魔力と、それが容易く災害に変わってしまう致命的なセンスの欠落を以て、レイモンドは彼の息子を知っていた。
 秘蔵と称せば聞こえはいいが欠陥を隠すために秘された箱入り息子が、何を手に戦場を駆けたのか。

「此処に、例の魔術式を。それとウルガーを呼べ」

 補佐官に指示を投げ、冷めきった紅茶に口を付ける。
 何をしたのか、何を喚んだのか。秘された手の内は筒抜けで、使用された魔術式をも把握済みだった。
 ――兵として息を潜めた幾つもの影は、レイモンドの元に多くの情報をもたらす。それは将官の不祥事であり、他分隊の軍略図であり、部下たちの家族構成であった。エウゲーニィが秘密裏に編成した彼の隊の人員や目的、その手の内すら例外ではなく。結果として末端の兵からの音信は途絶えたままだったが、それでも成果としては充分だった。

「……こちらに。ただ、魔物を召喚するに至った最終の術式は不明のままですが」
「それで良い。あれでウルガーもダリエベルクの裔だ。最終の調整は奴にさせる」

 結果、裏で手を引くという点で一枚上手だったのはレイモンドであり、公には秘されたほぼ全ての内情を握っていた。

「……排除すべきは魔物それそのものではなく、その成果を握り闊歩するアレクサンドロフ卿らの存在よ」

 ……エウゲーニィは、隣国からの渡り者だった。
 他国から入って来た、新しく旧い血。アレクサンドロフ家と言えば祖国では五本の指に入る旧い家系だというのは、入隊するにあたっての素行調査で明らかになっていたことだった。
 高貴な生まれであればいずれどこぞの旧家が婿として迎え入れ、この国を支える土壌の一端となるだろうとその活躍を野放しにしたことが、そもそもの過ちだったのだろうか。
 一兵卒として入隊し、あまりにも目覚ましい成果を上げ将官にまで上り詰めたその背は、多くを庶民で構成される兵たちの心を強く掴んだ。それは貴族派の勢いを削ぎたい諸派にとっては降って湧いた成功譚の象徴だった。
 ――レイモンド率いる貴族派にとっては、目障りなことこの上ない。どの家の傘下にも入らず己が両足で立つのであれば、相応の仕打ちがあるのは当然だった。
 けれど未だその勢いは留まらず、遂には出来損ないとされていた息子の活躍さえ見届ける羽目になり。
 せめて彼らをどうにかしないことには、安心して引き際を決めることすらままならなかった。
 呼び出した己が孫を待つ間、微々たる姿勢の変化だけで背筋を伸ばし、軋む筋肉に眉根を寄せる。がらがらと声の絡まる喉も皺の目立つ皮膚も、自らの老いを実感し不快でしかなかった。
 ……席を譲るべき後進は若く、何もかもが未熟な孫が一人。
 いずれは退かなければいけないと理解しながら、けれど一人残したとて喰い物にされることもまた、想像に難くなかった。
 この座を奪われ、追われ、無残に散る未来のために身を引くらいならば。進めるべき駒すら無くす覚悟で、一か八か勝負に出た方が救われる。
 それは、家を守ることに固執した男の、最後の賭けだった。
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