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 腕の中から少女を奪われ、露骨すぎるほどの牽制を掛けられてから早二日。それでもなお胸の端を焦がす衝動に、ライネケは一人、悶々としていた。
 ――亜麻色の髪の少女。何度か兵舎で見たことがあった。懇意にしている娼館に在籍している、美しい少女。見た目の可憐さから夜の空きは殆どなく、遊び人として一通りの少女達に手を付けた彼でさえ逢瀬を果たせていない、正しく高嶺の花、だった。

「実際に見るとやっぱり綺麗だったな……けど」

 けれど、あの晩に出会った彼女にはどうにも、幾つかの妙な点があった。
 慣例として娼婦を呼ぶことは暗黙の了解ではあるものの、機密に溢れ、下手を打てば呼んだ兵の処罰のみでは済まされない兵舎の中を、一人で徘徊していたこと。それも、あの様子であれば誘ったのは十中八九アリベルトであろう。学生時代からほぼ浮いた噂のないアリベルトが娼婦を呼ぶという、違和感。
 それに、アリベルトが来てからの変貌。見間違いでなければ少女の髪色が変わり――角が。二対の角が、生えたように、見えた。
 ただし、淫魔の類であれば、後者は説明がつく。
 亜人種とされる彼女たちは人のようでいて、厳密には人間ではない。その見目を相手に合わせて変え、美しさで魅了し、精気を食らう。
 ……そこまで、少女の素性についての思考をぐるぐると煮詰めて。しかし明確に言葉になるのは。

「……なんて美しい瞳だったんだろう……」

 甘い鈴音の声でも華奢な体躯でも艶のある色よい唇でもなく、彼の瞳を真正面から射抜いた血色の瞳。
 蒸留酒を臓腑に直接注ぎ込まれたような燃える感覚を、今でも鮮明に思い出すことができる。手先まで巡る感情と、衝動を。言葉と仕草の駆け引きを楽しむ普段の遊びではなく、手の内から逃さないよう、慎重に蝶を捕らえるような高揚。そうして、胸の高鳴りの残滓が今も、抜けない棘のように痛みと苦しみを与え続けている。
 かつて、幼い頃にはあったかもしれない。そんな情動を呼び覚まされて。
 あれから何度も娼館には連絡を出したが、顧客の情報は渡せない、信用があるので順を繰り上げることは出来ないとにべもなく断られてしまった。唯一聞き入れられたのは、ふた月先の彼女の夜を買うことだけ。
 そんな折だった。
 ――廊下を歩くアリベルトと彼女を目にしたのは。

 *

 あの夜に見た姿とは一変して――否、あの夜、最後に見た姿で。すなわち、長いアッシュグレイの髪にトパーズの角を戴いた、かの娼婦とは別の顔で、アリベルトの後ろを歩いていた。

「なぁアリベルト、彼女は」

 廊下の向こうからやってきた二人に、思わず声をかける。溜息を一つ吐き、ライネケの方を向いたのはアリベルトのみで、彼女の瞳は無関心に宙を漂っていた。

「……挨拶も敬称もなし、は上官として咎めなければいけないが……お前が相手なら意味はないだろうな」
「俺とお前の仲だろ……なあアリベルト、入れ込んでいる娘がいるなら教えてくれたっていいだろう?」
「入れ込む?」
「隠さなくたって知ってるぜ。彼女、娼館の売れっ子だろ」

 その言葉に、アリベルトは少しばかり目を見開いた。まるで、予想外のことを言われた、とでも言いたげな。
 一拍の驚きの後に、ふ、と笑って。

「はは、お前……だからか。相変わらず面白い勘違いをするな」

 学生時代からの馴染みとはいえ滅多に見られない彼の笑顔は、見る度新鮮に柔らかく、仏頂面を年相応の青年の顔に近付ける。けれど口から零れた機密は、今度はライネケにとって思いもよらないものだった。

「それはな、魔性だよ。悪魔、概念の生体――召喚に成功した、隷属の生き物だ」

 隷属、服従、屈伏。
 ぐるり、と思考の中に淀みが生まれる。その滓は鎖の形をして、あの夜から何度もなぞった美しい少女の輪郭を絡めとっていく。

「……は?」
「あまり公に出せるような存在ではないが……俺の隊が奇跡を掴んだと、そうとでも思っておいてくれ」

 呆けたライネケの肩に手を置き、遠征の用意があるからと歩みを進めるアリベルトに、ようやく、後ろの彼女も動き出す。
 すれ違いざま、自分と同じ軍服を着ながらより華奢なその肩に手を伸ばしかけた、その僅かな動きに反応するように、彼女は、ライネケを見た。

「……っ、」

 蕩けるような熱はなく、射貫く強さもない。瞬きの刹那、ただ澄んだ緑色が、ライネケの視線と交差する。
 虹彩の色すら記憶のそれとは全く異なって、あの夜からこの瞬間に継いだものは何一つないのだと、感情の色の見えない瞳が物語っているようだった。
 けれど、それでも。
 遠ざかる二人の背に――彼女の背に、確信したのは二つ。
 どれだけその姿が変わろうと、あれは、あの夜の彼女と同一の存在であること。
 そして、彼女がアリベルトの下に居る理由が、彼女の意思によるものではないこと。
 ――今更になって思い出す。あの日あの夜、確かにライネケ自身に熱を向けていた彼女が、アリベルトが来ると同時に身を強張らせ、自らを装っていた顔形すら解いてしまっていたことを。アリベルトの声色に含まれていた怒気を、異様な空気を。
 ……彼女は、怯えていたのではないか。
 望まぬ主従を結ばされ、そこから逃げる道中でライネケに出会ったのではないか。
 そうとも気付かなかった己の鈍感さに吐き気すら込み上げる。然して、ライネケには何も出来ないのもまた、事実だった。
 アリベルトとは同じ学び舎で過ごし時を同じくして軍属となった身とはいえ、今では階級も、任される任務の重さも違う。感情に任せてその仕事に口を出すことは出来なかった。
 口を出したとて、止まる性格ではないのは重々承知している。
 その上、実力行使も難しい。ライネケは知っていたから――見ていたから。
 魔術を不得手とするアリベルトは、かつては侮られることも多かった。けれど、魔術を苦手とすることと、戦闘に不向きであることはイコールではない。事実として、アリベルトは上級生、上官を問わず、己に害をなした者達を術の巧拙を塗り潰す魔力量で返り討ちにすることで有名だった。
 人を寄せない性格の彼の、唯一の友人という立場で。報復というには過ぎるその惨状を――見ていたから。

「……クソッ」

 遠ざかる、二人の背に。
 一人、拳を握り締めることしか出来なかった。
 
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