このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

with dogtag

「……おい、起きろ」

 起床を促す、一言。それだけでアレックスの意識は浮上し、世界が回るような感覚を覚えながら瞼を開いた。ベッドサイドには既に軍服に袖を通したアリベルトが、険しい顔をして立っている。

「いつ起きるかと思っていたんだが、まさか一晩丸々寝こけるとは」
「……?は……?」

 見れば窓の外はとうに日が昇り、薄青の天蓋が空を覆っていた。
 室内を照らす陽光は、アレックスの瞳を、そして、アリベルトの胸元に光る鉱石を、鮮やかに照らしている。
 木の葉を通して色を帯びた光が、水面を射して湖の底すら暴くような。澄んだ色でありながら内包される煌めきは強く、昨晩までのそれとは勝るとも劣らない眼光を湛えていた。
 濃い葡萄酒や血を思わせる赤から一転し、あまりにも透明な、緑。
 ――それは、アレックスをこの世に顕現させるために拠代とした宝石の、特性によるものだったが。

「……まぁ、どうでもいい」

 残虐な印象すら拭い去ってしまう変貌を、簡単な言葉で片付けて。アリベルトはアレックスの腕を掴み、柔らかく弛緩した肢体をベッドに座らせた。

「支度しろ。上官が待っている」

 かち合った視線の両端にある瞳の色は、最早似ても似つかない。然して。

「あぁ。――仰せのままに、大尉殿」

 無造作に晒された裸体に、アリベルトと同じ軍服を構成しながら。慇懃無礼な物言いと口の端を吊り上げる笑みの形は、主のそれをそのまま鏡写しにしたようだった。


 *


「――で、それが成功例、と?」

 アリベルトの部屋よりも生活感を欠き、多くの書籍と額に飾られた褒賞の目立つ室内。暗い艶のある木材と磨かれた石材が組み合わされた壁には刺繡の施された大型のタペストリーが、床には同じ紋様の厚い絨毯が敷かれている。窓から差し込む日の光が暖かに照らす、その柔らかさとは不釣り合いに仄暗い部屋だった。
 事務的かつ豪奢な机の奥には、男が一人。二人には一瞥すらせず手元の書類に目を通し、時折、大振りな羽根ペンを手に取り、何やら筆を走らせていた。
 金属製の筆先をインク瓶に浸しながら、再度口にする。

「アリベルト。それが、成功例と。間違いはないな?」
「お言葉ですがアレクサンドロフ少将閣下。職務中は私のことは大尉と呼ぶようにと」
「些事だな。……それに、親子が言葉を交わすならそれ相応で然るべきだ、と。俺も何度も言ったはずだが?」

 カッ、と飛沫が飛ぶほど強い筆圧でペン先を止め、男がようやく、顔を上げる。
 よく似た瞳だと、アレックスはまず、そう思った。
 アリベルトよりはやや彩度の高い、赤褐色の虹彩。造形は息子に似て、それよりもやや頬がこけていた。眼下には拭っても落ちないであろう隈が影を落としている。オールバックの黒髪には幾筋か白髪の束が見え、年若くないのであろうことが見て取れた。
 ――しかし、それらが彼を老けて見せているかと問われれば。
 細身にも関わらず衰えている様子のない筋肉と、座っている状態でなお威圧感のあるその上背。そして何より、不自然な程ぎらつく目が、彼を老いとははるか遠い印象に置いていた。
 その目が、値踏みでもするかのような視線をアレックスに絡める。上から下へ、下から上へ、と。

「……こう……悪魔と言えば、禍々しく……野獣のような姿を想像していたが。」
「はい」
「……女か?」
「雌雄同体、より正確に表現するなら『どちらにも成れる』と言える状態です」
「何にでも、ではなく?」
「生憎、昨晩の召喚後から現在までの私の観測範囲では、主だった器は人型のようです」

 黙っていろ、とこの部屋に入る前に釘を刺されていたアレックスだったが。尋問の内容はあからさまにアレックス自身への疑念であり、肌を舐める目の動きは不愉快の一言だった。

「……確かに俺は成果を出せと言った。一部隊を率いる長として、成功を形にして見せろと」
「だから成功を掴みました」
「俺は嘘を吐けと指示したのではない。……分かるか?戦場を駆けるに向かないお前の代わりに戦果を挙げる、正真正銘の悪魔を顕現させろ。それが上官としてお前に課した任だったはずだが」

 革張りの椅子に深く背を預けたアリベルトの父――エウゲーニィは、そう、告げた。二人の間では何度も交わされたのであろう、親子の会話と言うにはあまりに重く、けれど崩れていく敬語が二人の関係性を示していた。

「……ダリエベルクの駄犬が功を立てるより先に、」

 溜息交じりのその名を耳にした途端、アリベルトの眉間に僅かな皺が寄る。

「――どうでもいい。ダリエベルク中尉と……その父親と、俺に、何の関係が」
「今となっては大尉、だ」

 諫める口調で、相手の昇級を知らされ。アリベルトの手は瞬間、強く、震える程に握り締められたが、自制心の強さを示すが如く、すぐに体側に揃えられた。

「……お前が認識しようがしまいが、あの駄犬とお前は、傍から見れば派閥の行き先を決める馬に過ぎない」

 高価な木材で作られた机に肘をつき、その手の甲に顎を載せて。息子の様子とは対照的な、悠然とした動作からは余裕も垣間見えるが、表情からの真意は、読めない。

「勿論、血を分けた親子だからな。俺はお前に全てを賭けるとも」

 涙液に濡れた瞳はぎらぎらと、アリベルトを覗き込んでいる。
 ――決して、嫌がらせのための言葉ではなかった。不要な重圧を与えたいわけでもなかった。それでも、自分一代で掻き分けた獣道を後ろからついてくる一人息子には、強くあって貰わねばならなかった。魔術の扱いが不得手なのであれば、尚のこと。幾ら肉体を鍛えたところで、魔力に恵まれていたとて、それを生かすには魔術が不可欠とされる戦場を、駆け抜けるために。

「……な?別に俺だって怒っているわけじゃあない。失敗は誰にでも、何度でも、等しく訪れるだろうからなぁ」

 これまでも何度もあっただろう?と指を折り、声色は変わらない。

「成功例を持って来る、これは最善だ。成功は無く、事実の報告のみ。これは次善だ。上官としてお前を叱責することはあろうが……まぁ、当然だな」
「……」
「成功だと嘘を吐く。これは、紛れもなく、悪手だ」

 手慰みに顎を触りながらエウゲーニィは淡々と、子供に説教をするというよりも、ただただ事務的な説明をしているかのような口調で、そう言った。今までにこんなことは無かったから言うまでもなかったが、と独り言のように続けて。

「人型の悪魔は初めて、だな。それだけでも進歩だ。術編部には今回の旨は伝えておいてやるから、お前はそれの処分と次回の実験に」
「――ない」
「なんだ?」

 ここまで言葉を鵜吞みにしていたアリベルトだったが、ようやく、口を開いた。険しい表情に変わりはなく、眉根には皺が寄ったまま、だったが。

「術編部はもういない」
「いない?」
「部隊は全員実験時に死亡している。今回の術を再度編む者も、実行する者も、既にこの世にない」

 確かに。翌日まで持ち越すことは稀ではあったが、実験後、普段であればアリベルトからのみならず、隊の中からも報告が上がっていた。――軍部の中でも特異な立ち位置にある部隊であり、隊員の点呼や生存確認は殆んど行われていないため現時点での真偽は定かではないが、恐らくは。

「……アリベルト、それは」
「事故死だ。……この、魔性が少々暴走して」

 隣に立つアリベルトから向けられた視線と、眼前のエウゲーニィの目線がアレックスに収束する。ここまでの話を退屈そうに聞いていた本人はようやく向けられた不快ではない関心に口の端を吊り上げた。

「ようやく我の存在を思い出したか?」
「……ほう。悪魔が人の言葉を操るか」
「それだけじゃない――人語を解し、意思の疎通が可能であり、攻撃性のある魔法を自在に操る。そして何より、手綱は俺の手中だ」

 契約の証などは何もないが、そう付け足したアリベルトに、上官としての父の言葉は厳しい。

「完全な従属を示したかも分からない悪魔など、成功と呼べたものか」
「被害者多数の事故を引き起こした張本人だ。少なくとも、俺に従っていないのならこの場に大人しく立っているわけがない」

 それでも半信半疑といった表情のエウゲーニィに、アレックスは笑った。
 微笑、哄笑、嘲笑、どれとも違って。細めた瞼の隙間から漏れる緑色があまりにも煌めいている所為なのか、場には似つかわしくない、朗らかな笑顔だった。

「ではこうしよう――戦の最前線に我らを送るがいい」

 くるり、と長い灰の髪を指に巻き付けて、表情とその動作だけを切り取れば年若い女性そのものであるというのに。砂糖菓子を選ぶような声の調子では放たれるべきではない、そんな言葉が艶のある唇に乗せられた。

「黙って頭を垂れ指示に従い戦果を挙げれば信用に足るのだろう?」
「そう……だが」
「別にお前たちの信用はどうでも良いが。我が炉心となった主様の魔力は破壊を、蹂躙を、殺戮を所望しているからなぁ。……我にとっても都合がよい」

 ――それは、彼ら親子にとっては、願ってもいない好条件だった。

「……アリベルト、本当に、この悪魔を従えられるのか?」
「勿論……勿論。そうでなければ報告には来ない」
「ならば、お前たちに相応しい戦線がある」

 エウゲーニィは積まれた書類の中から、先ほどペンを走らせたばかりの書簡を取り出して。

「南方だ。詳細は追って伝える……我が国の軍を以てしても劣勢。状況打破のための新兵器を寄越せとせっつかれているが……生憎、そんな奇跡はないのだと、返事の手紙を書いたところだ」

 瞬間、エウゲーニィの手の中で鮮やかな炎が翻った。紙は簡単に煤となり、炎はすぐに消える。一瞬、照らされた彼の瞳は野望の色に強く、濡れていた。

「――どうやら、書き直さねばならなくなったようだな」
4/10ページ
スキ