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 あまりにも唐突であまりにも残虐な命令を下す主だったから、それ、はこれから訪れるであろう殺戮の予感に胸を躍らせていた。
 概念とは本来、善も悪も無く、人外の物差しで以て行動するものだった。――然して、此度ばかりは、攻撃性をそのまま溶かしてエネルギーとしたようなアリベルトの魔力を使用して喚ばれてしまったものだから。国の為を謳い世に悪意を向けた集団に引き摺り堕とされたそれは、顕現した時点で既に土台を汚染されていた。
 体内に燻り渦を巻く力を放出し、数多の命を咀嚼して嚥下し、破壊と虐殺と淫蕩と――。どこかアリベルトに似た女の顔で、それは笑む。明確な形すら定まらない、名前もない衝動を、早く解きたくて仕方がなかった。
――けれど。地下室を出て下された言葉は。

「待て」
「は」

 喉から漏れた不満の音は、そのまま表情に表れて。

「……騒ぎは起こすな。待て」

 以上だ、と、噛んで含めるような言い草に、それの目が爛と光る。焦燥に濡れる眼球を、地下の仄暗い灯りが舐めるように照らしていた。

「……我は我が喚ばれた理由を知らぬ――知らぬ、が。少なくとも、怠惰に時を過ごすためでは無いことは確かであろう?」

 世を蹂躙せん為に、自分を喚んだのではないか、と。
 歩みを止めたそれをちらりと一瞥し、アリベルトは溜め息を吐いた。

「物事には順序がある。……貴様が活きるのはここではない」

 手の内に握り込んだ赤い宝石を、胸元から取り出した認識票に繋いで。チェーンに並んだ銀と赤をもう一度、軍服の胸元に仕舞った。

「……おい、」
「焦るなよ、魔性」

 背後で二の句を継ごうとした、その言葉を遮り。
 今度こそ、身体ごと、それを振り返って。白熱灯を背に受け逆光の中で存在感を放つ瞳の色は不吉に濁っていた。

「俺だって――早く、破壊したい」

 乾いた血色の瞳は暗く澱んで。言葉よりもなお雄弁に、剣呑な悪意に塗れていた。


 *


 アリベルトの宿舎に連れ帰られ、待機を命じられたそれだったが。幾ら主の命とはいえ己の存在意義に反する指示に易々と従うはずも無く、闇に暮れた窓の外に視線を投げた。
 ーー外灯に照らされて宿舎の建物の間を歩く、二人組。軍服の男に腕を絡ませる、露出の多いドレスを纏った女の姿。その、雄を絡め取るための衣装と蠱惑的な容姿を、急拵えで模倣して。
 溶けるように色を変えた亜麻色の髪はくるりとうねり、顔は幼さを感じさせるような。いたいけな表情とは裏腹に豊満な肉体を強調するような紫紺のドレス――とはいえ殆どネグリジェのような様相であったが――を、蕾が花開くその瞬間を切り取るように、体の周囲に咲かせて。
 室内灯が照らす瞳だけは、硬質の赤、そのままに。
 一目見ただけでは誰も彼女がそれであったとは分からないだろう。それ程までに華麗な変貌だった。
 部屋から出て直ぐ、真っ先に目に付いた男に目を合わせる。軽薄な笑顔を浮かべた男は軽く手を挙げ、それに、大股で近付いた。余裕のある振る舞いと低すぎない声。――慣れている、のだろうと、他人事のように、それは思った。

「アリベ……アレクサンドロフ大尉のお知り合い、かな?」

 使い魔を知り合いと呼ぶのならばそうなのだろう、と吐き捨てようと口を開いたが、艶のある唇から零れたのは。

「どうだと思う?……確かめてみても、損は無いと思うわ」

 自らも驚く程に。男の、そしてそれ自身の鼓膜を震わせた声色は甘かった。生来の声よりも尚高く、例えるならば丁度、年頃の娘のような――現在の姿にぴたりと合うような。
 未だ自らの能力に無自覚なそれであったが、声帯と舌に乗る言葉すら模すことが可能なら、これほど都合の良いこともないな、とにんまりと笑った。――とはいえその笑みは傍から見れば、幼げな顔に似合いの、人懐こそうな印象を与えるもので。
 二人の瞳の間に、視線が交差する。三日月の弧を描いた血色と男のオリーブがかち合い、三拍ほどの呼吸の間、沈黙だけが流れた。
 ――否、正確には。それの唇は幾つかの形を取り、人の耳には聞こえない、非常に簡単な呪文を紡いでいた。
 とはいえ、傍から見ればその仕草は、果実にも似た唇を二三震わせただけで。真正面に据えた男にも決して、気取られることはなく。

「……もしも、君が大尉と関係の無い娘なら、僕にもチャンスがあるのかな? 良ければ……」

 男は、軍に所属している人間としては大分軽薄な言葉を吐きながら、大胆にはだけたドレスの肩口にするり、と手を伸ばした。腕の中に抱き寄せられたそれ自身も男に身を任せ、誘われるままに歩を進め。
 ――軍服の厚い布地の下にある、肌と肉と血の仄かな熱、を感じる。首筋からは生命力が香り立ち、それの鼻腔をくすぐった。生きとし生けるものが持つ命の源――、精力の香は、仮に誂えた胃を刺激した。
 血に飢えた獣が肉をちらつかされた時に取る行動と幾分の差もなく。ドレスを揺らめかせて、形ばかりは従順に男に歩みを合わせた。

「気をつけてね。誰が呼んでこんな所に置いてったのかは知らないけど……君も、素人じゃあないんだから」

 男の舌はよく回り、そして、それ自身を脅かすように。肩を抱いた手に力を込め、厚い胸板に抱き寄せた。

「万が一、機密を知られてしまったら、君の娼館にも話が行ってしまうだろうしね」

 脅しと欲と、どこか獲物に狙いを定めるような声色で、それの耳元に囁く。

「……不思議だ……他の娘と大して差はないはずなのに……どうして、どうして君は、そんなにも魅力的に見えるんだ……?」

 荒い息。紅潮した頬。顔に添えられた手が、熱い。
多くの人に美丈夫だと言われるであろう男の顔が、蕩けて歪む。身に巡った衝動が溢れるように、目からは涙が零れた。
 熱に浮かされたその身で、それでも紳士であろうとしたのか。廊下の側壁にそれの肩を押し付ける力は差程、強くはなかった。振り払うことも叶うだろう、そんな加減で。
 しかしそれは逃げず、とろりとまなじりを下げ、艶の良い唇にしっとりと笑みを浮かべて、男の手に自らの指を絡めた。

「……なにが違うのか、貴方様のその手で……」

 同じ高さよりは幾分足りない背で、熱に濁った緑色を覗き込み。少しでも踏み外せばすぐさま喉に食らいつきかねないような、危うい駆け引きの糸の上を、少女の姿で軽やかに飛び跳ねて。

「……ほら、確かめてくださいまし?」

 理性の天秤を人差し指で揺らしながら、そろそろかと、男の耳朶に唇を寄せた瞬間だった。

「……何をしている」

 ――硬い声は、聞き間違えるはずのない響きだった。軍靴を鳴らし近付くその姿は。

「っ、……これはこれは」

 男の吐息から、熱がひく。それを壁に押しやった手すら離し、苦々しさをたっぷりと声に滲ませて、乱入者の方を向いた。

「噂の人、アレキサンドロフ大尉ではありませんか」

靴の踵を揃えて、姿勢を正し。立ち姿ばかりは正しく、上官を前にした時の礼儀をなぞっていたが、言葉に含まれる刺ばかりは尊敬の一文字もない有様だった。

「お前の娼婦遊びには辟易しているが……まさか、魔性にすら発情するのか?」

 呆れた、と言うよりは細い針で刺すような響きの声だった。アリベルトは殆ど表情の変わらないままに男からそれに視線を移した。女の姿を模したことで背が低くなったそれはアリベルトに見下ろされながら、サーベルで貫かれた痛みと共に脳裏に刻まれた冷たい視線に、ごく僅かながら怯えにも似た色をその瞳に浮かべていた。

「おや、ただの娼婦ではなく。……まさかまさか、大尉閣下の情婦だったとは」
「弁えろよ少尉」

 暗褐色の瞳が男を射る。しかし、肩を竦める姿から反省の色は見えない。
おどけた調子の男とは打って変わり、それはアリベルトの眼光の鋭さをそのまま鏡返しにするように睨んでいた。
 ゆっくりと、重い色の視線が、男の顔からそれの瞳に移る。

「で、.....何をしている、と、聞いている」

 それには、その気にさえなれば主従も何も関係なく、アリベルトを消し炭に出来るだけの魔力があった。けれど、前後不覚の中で打たれた杭はあまりに深く。それの衝動を留めさせるには十分だった。

「.....我を我たらしむ概念は、愛欲ぞ」

 何を、という問いの答えでは無かったが。絞り出した声は囀りのような先程の声とは変わり、落ち着いた音程に戻っていた。魔法が解けるように――否、魔法が解けて。亜麻色の髪は灰に戻り、頭の傍には角が二対。残ったドレスだけが辛うじて、血色の悪い肌を守っている。

「……小腹が空けば、そこにある軽食を食らうは、必然であろう?」

 一瞬、思考の裏に刺さった杭を振り払い、悪魔らしく口角を吊り上げて。
 ――二度と痛みなど感じたくはなかったが、下位存在である人間如きに屈服させられたままというのも癪に障る。勿論、多少の魔力の空きを感じていたことも事実ではあったが。……わざとらしい挑発的な態度はまるで、何処までなら仕置を受けないのか、推し量っているようでもあった。
 ――然して。返答は、寡黙な男から発せられるには、少々意外なものだった。

「成程。.....なら、精気さえ得られればそのような愚行は犯さないと、そうだな?」
「は、」

 子猫でも拾い上げるような動作でアリベルトはそれの首を掴んだ。軍に属する人間の腕力は、人ならぬそれを軽々と引き寄せる。

「アリベルト!」

 そのまま部屋へと踵を返したアリベルトに、男が声をかけた。見れば名残惜しそうに伸びた手が目に入り。

「……これは馴染みとしての忠告だがな」

 ここまで淡々と感情の欠片も見せなかったその口の端が僅かながら吊り上がり、微動だにしなかった眉が少しばかり緩んだ。

「ライネケ、女を見る目は磨いた方がいいぞ」

 優越なのか、はたまた。純粋な忠告だったのか。
 呆然とした表情の美丈夫を残し、一人は一体を引き摺って、長い廊下の先に消えていった。
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