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 魔力とは、不変であろうとする世界を歪め変化を発露させるに足るエネルギーを指し、魔力を術として行使する際、最も必要とされるのは想像力だ。
 それは、魔術学校でまず初めに習うことだった。
 『形にしたい願いを細部まで想像することが叶うのであれば、その思考一つで理を曲げることが出来るだろう。しかし、現実から離れるほどに子細に描けなくなる空想や、術の行使中に一度たりとも途切れることの許されない集中を補うため、呪文を唱え魔術式を描き、場合によっては魔道具に頼るのだ』と。

 四隅に置いたランタンの明かりを頼りにして魔術式の中に水晶や宝石、植物の葉などを配置するウルガーを眺めながら、ライネケはぼんやりと、かつて学舎にて学んだことを思い出していた。
 庶民であれば幾つかの用途別の杖さえあれば事足りるし、入隊後もさして覚える魔術の数が増えたわけではない。攻撃と治癒、それ以外は専門の隊が請け負う領域だった。
 目の前の上官は噂通りであれば一兵卒と同じ扱いをされていたはずで、であればこれほどの魔術を扱う必要はない。それが貴族ゆえに課されたものなのか、はたまたこの為に習得したものかまでは定かではなかったが……立場が変われば学ぶべきことも増えるのだなぁと、ライネケは他人事のようにその背を見ていた。

「……これで最後、かな」

 アリベルトの隊が失敗に失敗を――正確には、成功と認められる結果を掴むまでの犠牲を――重ねた魔術式。アレクサンドロフの血筋を象徴する宝石の代わりとして、ダリエベルクの家紋となった深紅のダリアをその上に。
 振り向いたウルガーはライネケを隣に呼び、自らの後ろに立たせた。

「……いい?召喚に成功したら……多少、強引でもいい。契約は任せたよ」

 完成された魔術は、その手順や呪文を間違えなければ少なくとも事故が起こることは無い――余程その魔力に見合わない、規格外の望みを叶えようとしない限りは。
 そして、ウルガーはダリエベルクの名に恥じない魔力量の持ち主だった。

「――空をも包む理の織、世に降ろされた帳の内にてそれを喚ぶ。事象を編纂せし運命の織り手に乞う――」

 詠唱が始まり、式が燐光を帯びる。
 術者とそれに繋がる者の魔力を糧に、大地を食い破る根は魔力を吸い上げ、天へとその幹を伸ばし。伸びた枝の先、葉の一枚もない棘立った梢で、天のその先、夜の帳をなお超えて、世界を包み構成する織物を、穿つ。
 裂けた理はほつれて解けて、その一糸が――今、ここに。
 
「……っ!」

 突風とも紛う空気の乱れは、膨大な魔力がそこに注ぎ込まれたが故のもの。実際には髪すら揺れることは無かったが、強烈な平衡感覚の乱れにライネケの膝が折れる。
 術者であるウルガーへの負担はその比でなく、額には脂汗が滲み、頬からは血の気が失せていた。地から天へと繋ぐ道標としての役割を果たしただけだというのに、生命の危機を感じる程の強烈な魔力の枯渇を感じる。
 果たして、全てを終えるまでに力及ばなければどうなるのか。凡そ例のないだろう規模の事故の気配を感じて、寒気がした。
 ――けれど。ウルガーの姿勢は崩れない。
 芯でも通ったかのような背筋はもはや、意識して保てるものではなかった。高貴な血を継ぐ者として育てられたという矜持だけが、この場の主として胸を張る理由だった。
 暗記した呪文を記憶のままに、息継ぎすら惜しんで。舌が乾き、口角が裂けるほど長い呪文を、諳んじる。
 ……そうして、最後に。
 満ちていた重圧が唐突に解かれ、冷風が二人の顔を一吹きして。
 魔方式の中心に顕現したのは――銀色の水溜まり、だった。

 「……お願いできるかな」
 「……了解、です……」

 魔方式の中央、全て掬えたとしても両手に一杯あるかどうかの液体が、ランタンの光に反射している。吹いた風の所為なのか、穏やかに波打つ水面は金属光沢を湛え、目を凝らせば鮮やかな被膜が表面を覆っているようにも見えた。
 魔術式を踏まないギリギリまで寄り、咳払いをひとつ。森に棲む軟体魔生物よりもなお生気を欠いたその澱みに声をかけた。

「あー……言葉を発することは出来るか?というより……成功してるんですかね?これは……」

 すると。
 小動物のような仕草で、水分の尾を引くこともなく。それはライネケのすぐ傍までその身を寄せた。
 ふるるる、と、カップの紅茶に息を吹きかけたような挙動で揺れる水面は、何かを訴えかけているようにも見えた。しかし当然、その意図を汲み取ることは不可能だった。
 一目見て分かるのは、武力としてはその存在があまりに頼りない、ということ。

「……大尉、意思の疎通は不可能です。指示を願います」
「……仕方ない、ね。こういった失敗は茶飯事だったようだから」

 ウルガーはライネケとその足元で魔方式から出ようとするそれに、視線だけを向けた。……酷い眩暈がする。立つことにも限界を迎え、壁にもたれかかった。
 ――機密漏洩の危険も考えられる中、何故複数人で術に挑んだのか。術には詳しくない筈の彼を、何故術の要として置いたのか。
 相応の人数と底無しの魔力量を揃えなければ、回数を重ねるどころか、一度の行使で廃人にすらなってしまいそうな。落ち零れが徒党を組んだだけだと侮られていた彼の隊だったが、術の編纂に当たり揃えるべきものは揃えられた上での成果だったのだろう、と。集中が途切れて方々に散った思考は、そんなところに集束した。
 それと比して。自分は。
 公に人を集めるわけにもいかず、喚び出せた概念は戦力にもならないような有様で。再召喚を試みようにも魔力は枯れ、回復に数日かかることは確実で。
 お前には過ぎた役だったかと、祖父の溜息が聞こえるようだった。

「……処分してくれ。僕は……動けない」
「……了解しました」

 けれど、退却の合図まで戦線を退かない狂犬は、諦めたわけではなかった。……撤退ではなく翻転のため、一時的に背を向けたに過ぎない。
 鼻の奥で血管が切れたのか、鉄の匂いがする空気を吸いながら奥歯を嚙み締めながら、次善の策を巡らせる。
 その精神力が、運命を喚んだのかもしれない。

「……」

 血より濃く炎より紅い瞳が見つめるのは、ライネケの背中……否、その背を透かすように焦点を合わせるのは、召喚したばかりの概念の姿。 
 ライネケへ手を伸ばすように水面を伸び縮みさせる姿は生存を乞うているようでもあったが、命令という形を得た以上、憐れみを傾けることは無かった。腰に差したサーベルを抜いて、魔方式にその切っ先を向け――刺した、はずだった。
 ライネケの後ろから様子を見ていたウルガーには一瞬、何が起こったか分からなかった。
 魔方式の中にその剣先が入った瞬間。中に囚われていた液状のそれが、視認できる限界の速度でサーベルを伝った。

「っ、?」

 声を上げる間すら与えられない。
 それは秒針が刻まれるよりも僅かな間に起こった。
 ライネケの手袋の上を這い軍服の袖から中に侵入し、首筋にある太い血管を探り当てると、金属光沢の液体は溶けるようにその姿を消した。

「ぁ、え……?」
「……ネフライト軍曹?」

 ウルガーの呼び声に応じ、振り向いた、ライネケは。

「……あぁ、随分と硬い身体だな。どうせ地を踏むのなら、国を傾けるに足る程度の容れ物であれば尚、良かったが」

 ――ライネケだったものは銀の瞳を七色に反射させ、ウルガーに笑いかけた。

「御前、御前。思考が透けて見えるぞ、偽善の君。望みを叶えたければ……そうだな、新しい器でも用意するがよいよ」

 取り繕っていた面の皮の奥、秘められた害意と勝利への執着を、眼だけを細めた微笑みで看破して。もの言う口を手にしたそれは、そんな取引を持ち掛けた。
 ……そしてそれは。協力的な概念の召喚は、ウルガーには願ってもない奇跡だった。
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