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 不定形の中に、溶け込む感覚。混濁する意識の中で名も知らぬ感情だけが――「それ」をそれたらしめる感情だけが――鮮烈だった。
 身の内に巡らせるには大き過ぎて、しかし、誰かに渡すにはあまりにか細いその、熱。絶えず身体を蹂躙する熱は、それ、の存在意義となる核であったが、自覚する間もなく。唐突な衝撃によってそれ、は覚醒を迎えることとなった。
 不快、とはまた違って。けれど決して愉快ではない感覚と共に。

「あああああぁぁぁぁぁ!!」

 時の支配すら及ばないその場所から、柱時計が大きく時を告げる地下室へ。引き摺り出されたそれは、苦痛とも歓喜とも判別の付かぬ咆哮を上げながら形を成した。

「あああああぁぁぁぁぁ!!」

 黒い影のような不定形が、人、のような輪郭を形作る。人間の粗悪品のような醜悪な黒い肉体の、頭部と思しき場所から長い長い灰色の髪を生やした。……髪は身体を覆い、一切の挙動を曖昧にする。その合間から左右に二本ずつ、金の角が姿を現した。
 その様子を、それを中心に描かれた不可思議な円の向こう、立ち並ぶ数人の人影が見守っていた。目深に被った外套の所為で、その顔は見えない。震える背に突き立てられた視線は全て、この集団から発せられていた。

「……ふ」

 吐息にも似た、嘲笑。それ、は敏感に反応し、ぐるりと角の向く先を変えた。そこには、若い男のシルエットが。
 大して明るくもない電灯に照らされ、ただただ赤く光る一対の瞳が、髪の隙間から嘲笑の主を、射抜く。――まるで、宝石のような、しかしそう喩えるにはあまりに邪悪すぎる暗さを宿した瞳孔が、じっと、一人を見つめていた。

「今度は成功か?  ……相も変わらず醜いものだな」

 異形のそれを鼻で笑った男は、外套の下から漏れる笑みを隠すこともせず、軍靴を鳴らし、複雑に絡み合う紋様で編まれた陣の中に踏み込んだ。
 .......今まで幾度となく行われてきた儀式に、男が特別な興味を向けたことは無かった。何人か居る内の魔術師の一人として、術の行使に必要な魔力の供給源として。そして時に、魔術師たちを叱咤する上官として、その場に居合わせているに過ぎなかった。
 ただ、これまでの儀式の中で人の形をとるものを喚び寄せたのは初めてのことだったから。興味が湧いた、と言えばそういうことだったのだろう。
 ,――もしくは、喚び寄せたものの性質故か。

「止まって下さい!」
「止まりなさい! ……アレクサンドロフ大尉!」

 数人の制止を振り切って、それの髪を掴み、目を合わせる。暗い赤色が室内灯に照らされ、爛々と輝いていた。

「何と、何という事を……」

 魔法陣の外に固まった、外套の集団がざわめく。
 概念を呼び出したならば、主従を結ぶまで、あちらに隙を与えてはいけない。
 概念、とは、魔力で編んだ網と枷を取り付けてようやく、こちらの意志通りに出来る存在だった。それは物の形を取ろうと獣の形を取ろうと、全て同じこと。そして一概に、人の形を成した概念は、擁する魔力量も、それを扱う術も、思考の複雑さも桁違いだった――まるで、一人の人間と同様に。
 だから、それを喚び出した魔術師達は必死で、己の上官を止めようとした。

「早く、早く! 離れて下さい!」

 集団が、口々に叫ぶ。決して陣には踏み入らぬよう、男をこちらに引き戻そうと手を伸ばして。
けれども、遅かった。
 色素の薄い髪の合間を縫い、寒々しい色の腕が、伸ばされる。五本揃った指が、男のフードを捲った。
 外套の下から現れたのは、黒い短髪の、精悍な男.....青年と呼ぶには少々、大人びた風貌の。切れ長の目は、葡萄酒を思わせるそれの瞳から鮮やかさを奪ったような、くすんだ色をしていた。
 それの手は、質感を、形を確かめるように男の顔を撫で、そして最後には男の手を握った。
 瞬間。
 それの髪が、端から溶けるように無くなった。同時に髪色は男と同じ黒に染まり、露になった顔は男に良く似て、そして目の色はやはり鮮烈に。
 男と同じ髪の長さでその消失は止まり、そして、人としてあるべき器官を欠いた簡素な裸体が晒された。
 それは、笑顔を消した男の耳に、囁く。

「よく、見せろ」

 艶のある声は、嘲笑を含ませた男の声と、よく似ていた。
 色素の薄い手が、今度は軍服を撫でる。深い緑であつらえられたそれを、始めは概略だけ、次第に細部まで、身体の周囲に構築する。
 左胸に連なる胸章と、腰のベルトに下がるサーベルまで模して。
 立ち上がれば背丈まで同じの、それが、変化の最中微動だにしなかった男を見据えた。
同一であると言っても良いほど似ているだけに、並んだ時にはその瞳の色が際立っていた。

「好い器だな。礼を言った方が良いか?」

 余裕に満ちた、不遜とも取れる態度で。嘲りに近い笑みを浮かべながら、男の顔を覗き込む。
 先ほど受けた嘲笑を返すように向けられた言葉に、周囲の黒外套は震えた。
 喚び寄せた直後、前後不覚の意識と未完成の肢体に枷をつけることは容易い。しかし、意思疎通が出来るまでに覚醒し、確固たる姿形を手に入れてしまった今となっては。その手綱を握るのは、難しいだろう。
 未知の力に怯える集団を背に、男はどこまでも寡黙だった。睨むように自分と同じ造型の顔を見て、宝石の輝きを捉えて。

「っ!! ……がっ……ぁ?」

 ――その目線を外す事無くサーベルを抜いて、それの胸章の間から差し込み、貫いた。
 薄い唇から、黒い液体が吐き出される。

「ぁ……が……っ。」

 予期せぬ衝撃に跪いたそれを尻目に、男はサーベルに付いた黒い雫を払い、鞘に収めた。

「魔性めが。」

 恐怖を全く感じさせぬ、ともすれば軽蔑すら篭ったような声が、それの頭上から降る。鬼人の気迫で威圧されたそれは、思わず目を逸らした。決して清潔とは言い難い床に滴る黒々とした体液を――それ、にとっては血液ということになるのだろうか――信じられないといった面持ちで見つめて。

「主従を契れ。貴様に選択肢など無い。」

 宣告は冷たく、声は硬い。跪いたそれ、は打開策を探すため己の記憶を辿りながら、尋ねた。

「契らなければ、我はどうなる」

 答えは簡素。

「斬って還す」

 先程のサーベルの太刀筋に迷いは無く、言葉に偽りのないことの証左に思えた。それ、は一筋、こめかみから冷や汗を流し、手に入れたばかりの身体の隅々に散った意識を手繰った。本来世に堕ちるべきでない時に堕とされた身である。己のことすら曖昧で、実を言うならば男の姿形へと変化した術すらも殆ど本能のままに行ったことであった。
 遠く、寄せては返す波のような。記憶とも言い難い細かな欠片の山に手を伸ばせば、ちくりと胸を刺す痛みに指先が触れた。痛みというよりは熱、だろうか。身体の奥に針を穿ち、思考の隙間に充ちる、重い熱の感情。
 どうして今まで忘れていられたのか。
 それは、自身の存在意義。

「……我、たる、概念……は」

 ひと繋ぎになった意識と共に、身の内に巡り出した熱。かつて、誰かに渡すには余りにか細かったその熱は。

「……愛欲、」

 ――人を堕とし糧とする、そのための劣情ではなかったか?

「ならば、愛欲の魔性……悪魔、と言う方が相応しいか?」

 服従を誓え、とサーベルを鞘に収めながら言った青年に、目を合わせる。
 本能のまま、妖艶に。揺らいだ頬の輪郭や目の縁が、女性らしい丸みを帯びる。
 獲物を狩る時の緊張感が、指先まで軽い電撃を走らせる。軍服の下、傷の再生を感じながらしなやかに手を伸ばしたが、ぱしり、と軽い音がして。叩き落とされた手は力無く体側に落ちた。

「もう一度、刺し貫かれたいか?」 

 サーベルを引き抜く耳障りな金属音が響く。最後の抵抗も虚しく術を折られたそれは一つだけ息を吐き、自分に向けられた刀身に指を滑らせた。口から零れる液体と同じ色をした血が珠となり、糸を引くように滴り落ちる。

「……名を」
「アリベルト。アリベルト.........エウゲーニエヴィチ・アレクサンドロフ」

 薄い唇に乗せられた姓名の響きは、偽りの名でないことを示して。
 魔性の前に自らの真名を晒すことに幾ばくかの躊躇を覚えるかと僅かながらに期待したが、その様なことはなく。――代わりに周囲の魔術師達は息を飲んだが。

「……我、愛欲たる概念は、この身を巡る血と魔力において……。」

 それ、が、正しく術を行使すると疑わない、そんな威圧を受けて、苦々しく口元を歪めながら、詠唱が、始まった。
 男――アリベルト、と、それの周囲に、旋風が渦を巻く。閉ざされ、空気の循環のない空間で巻き起こるそれは、魔術の行使による、魔力の渦だった。ともすれば平衡感覚すら失いかねない、濃密な魔力が、二人を中心として、溢れる。
 先程まで怯え竦んでいた黒外套達は、それでも魔術師としての矜持がそうさせるのか、朗々と紡がれるその言葉一つ一つを聞き漏らすまいと耳をそばだてた。
 概念が操る魔術は、人の使うそれなどとは比べるまでも無い強度を誇る――存在そのものが魔力によって編まれたものなのだから当然の話ではあるのだが――ため、それが人語を操る存在であれば、その禁術を盗もうとするのは至極当然の思考であろうか。
 しかし、それの口から出る呪は次第に人の耳には聞き取れない言葉に変化し、遂にはその場の誰もが意味を解せない、どの言語にも似て非なる音の羅列へと終着した。

「……、……。……。」

 慌てる集団を視界の端に捉えながら、それは一人、笑む。
 この場での反逆が許されぬのなら。この場での堕落が叶わぬのなら。
 ――殺すより残酷に、堕ちるより緩慢に。真綿で首を絞めるように彼の存在諸共を縛り付け、隷属としてやろう。……それも、自らそう、願わざるを得ないよう。

「……、――、……。」

 誰も感知できないのを良い事に、主従の契約に、一言。加えたのは、呪縛だった。

「……汝の爪先に頭を伏し汝の命を乞い、この命この魔力尽きるまで汝に付き従う事、この血を以て誓おう」

 指先に滴る血が、赤く澄む。

「飲め」

 それが指を差し出すと流石のアリベルトもたじろいだ様子だったが、顔を近づけ、舌先で舐め取った。
 動いた喉仏を確認して、それは目を細める。

「これで我は貴様の哀れな奴隷と成ろう.........然して、然して」

 くつくつと口の端から笑いを零すそれを、怪訝な顔で見る。

「それは貴様にも言えることであるぞ。……なぁ、我が主様?」
「……何だと。」

 本来主従を誓う行為に、血を飲む動作など必要ない。血を伴う契りは、アリベルトをそれの元へ縛るものであった。
 さらに性質の悪い事に、その束縛は物理的なものではない。

「巡れ巡れ、我が主の体躯に巣食え! その心根を締付け、堕とし、我が物とせん!」

 人の感情を捻じ曲げて、一つとし、その全ての向かう先を固定する呪縛。
 町娘が頬を染めて行う呪いと同類の、しかし、それよりもいっそう、邪悪さを増した。

「効いたか?」

 悪戯の結果を待ち侘びる子供のように、いっそ無邪気に、それはアリベルトの顔を覗き込んだ。それの魔術は油断に緩み、髪色は灰に、頭には二対の角が戻ってしまっていた。
 しかしアリベルトの、硬い表情は崩れない。

「……戯言はそれだけか」

 呪いの効果の欠片も見られぬまま、アリベルトは溜め息を、一つ。足下から赤く光る石を拾い上げると、軍靴を返し背を向け、歩き出した。――先程、自分の胸を貫いたその背は、正面から見据えるよりも、存外広かった。
 くい、と曲げられた指に付き従うように、それも陣の外へ、踏み出した。一瞬、頬に走った電撃に眉を顰めつつも、アリベルトの背を追う。

「――! 良く、やった……良くやりました!」
「素晴らしい……奇跡だ……」
「これで我が軍の大幅な戦力増強に繋がるぞ!!」

 喝采。それまで怯え、静観していた黒外套の集団は、アリベルトの後ろに付き従ったそれの姿を見るなり、褒め称えた。目深に被った外套の下、口々に賛辞を送る彼らに、アリベルトが返す言葉は無かった。元より寡黙な人柄ではあったが。
 ――立ち止まり、誰とも目を合わせることなく。それは命令よりも、軽い、呟きだった。

「燃やせ」

 ともすれば、聴き逃してしまいかねないような。
 けれどそれ、とは、血で契られた繋がりがある。つまりその言葉が空気を震わせないものであっ たとしても、聞き届けるだけの耳があった。
そうして、その言の葉は、悪魔として喚ばれたそれの目に適うだけの、残虐なものであったから。

「――仰せのままに」

 それはにんまりと口角を挙げ、手を頭上に――電灯にかざした。真白く瞬き不穏に地下室を照らす電灯は、剥き出しの配線を隠すこともせず微かに揺れている。その光を受けて、白い肌に透けていた青い血管が、指先から赤く、染まっていった。――その硬質の輝きはまるで、鉱石のように。

「……? 何だ……!?」

 アリベルトの言葉を聞き漏らした黒外套の集団は、その行動に身を強張らせ、どよめいた。

「大尉! 大尉これは!?」

 アリベルトの肩を揺すり、それには畏怖の目を向ける。その様子に、悪魔の血が、歓喜した。

「はははははっ!」

 燃えるように真っ赤に染まった手を外套の集団に向けそして、火炎を生み出す。現存するどの兵器よりも高い温度のそれは無機質な地下室の床や壁を舐め、彼らの存在を消し去った。
 高い精度で放たれた火炎は、アリベルトに最も近かった黒外套をも器用に絡め取り、高温の中に飲み込んで。
 後には影すら残らず。
 アリベルトの顔に飛んだ僅かな煤のみが彼らの存在の残滓だったが、それすら、指の一挙に拭われて。

「……」

 視線をちらと向けることもせず、背後で起こった惨劇に言及することも無く。しかしその口元は、悪魔の唇と同じ形をしていた。
 指を曲げ、その動作だけでそれを従えて。
 軍靴を鳴らし、地下室から出るアリベルトの、くすんだ赤色の瞳は、魔術師達を燃やし尽くした地獄の業火と同質の、仄暗い炎の色に揺れていた。
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