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病める時も健やかなる時も(狛村佐陣)

6.行かず後家

 70年前、朝は山奥の別荘に連れて行かれた。
 そこは手紙を出すこともままならない山奥で、朝は毎日そこで芸事の練習をさせられた。
 朝の佐陣への想いに気づいた両親が、諦めさせる為に連れて行ったのだと言う。
 朝はそこで見合いをさせられたが、ある時は犬のように四足で走り回り、ある時は手を使わず食事をし、見合い相手に噛み付いたり、あの手この手で見合いを壊していった。
 その度に両親は朝を叱ったが、朝は佐陣以外の男性と見合いはしないの一点張りで、とうとう貰い手がつかなくなった。
 両親が元柳斎に相談に行くと、佐陣が隊長になった事だし、身分としては問題ないから一度合わせてみよと言われ、今日に至った。
「そんな長い事……」
「佐陣様は、わたくしの幸せを願うと、書いてくださいました。ですがわたくしには、佐陣様と添い遂げる以外の幸せはないのです」
朝は悲痛な顔で佐陣に訴えた。佐陣の心臓が高鳴ったが、その気持ちには応えられなかった。自信が無いのだ。
 佐陣はゆっくりと鉄笠を脱いで素顔を出した。朝の母親は口を手で覆い、悲鳴を飲み込んだ。
 そうだ。これが常人の反応だ。
「私は、この通り獣の姿だ。だから……」
佐陣が姿を理由に断ろうとすると、突然朝が立ち上がった。
「ならば、私が獣になれば良いのですか!?」
朝は襖を開けて、足袋のまま庭に降りると。手前にあった桜の木に登ろうとした。
「朝!やめなさい!!着物が!」
母親が叫んで止めさせようとしたが、朝は止まらない。何度も登ろうとしては、尻もちをついていた。
「佐陣様が獣ならば、わたくしは毛のない猿です!!着物など不要!!」
朝は着物を脱ごうと帯に手をかけた。佐陣は急いで庭に降りると、朝の手を掴んで止めた。
「朝様、ヤケを起こされるな」
佐陣は朝の目を見ながら言った。朝の手首は余りにも細く、力を入れられなかった。
「どうすれば、貴方の妻になれるのですか………」
朝が泣きそうな目で佐陣を見上げた。懐かしい、小動物の目だった。
「…貴女の気持ちは、十分に伝わりました。70年も思い続けてくださり、感謝しかありません」
「佐陣様……」
佐陣は決意して、朝の手を両手で包んだ。心臓がイヤに早く打ち、喉から出そうだった。
「私なんぞで、本当に良いのですか…?」
カッコ悪い、震えるような声で佐陣が聞くと、朝の目から涙がこぼれた。驚きとも、喜びてもつかない顔で佐陣を見つめた。
「貴方しか嫌なのです……」
爆発しそうな感情を、佐陣は目を瞑って堪えた。
 佐陣と朝は手を取り合ったまま動かなくなった。今まで色恋などと縁の無かった佐陣は、この後どうすればよいのか、サッバリ検討がつかなかったのだ。
「二人とも、もう戻って来なさい」
元柳斎のお陰で佐陣はようやく動くことができ、朝の手を取って縁側まで行った。
「全く、直ぐにヤケを起こすのですから…」
朝は母親に着物を直して来るよう言われ、別室へ行った。
 朝がいなくなると、母親は縁側に座る佐陣に向かって、正座から頭を下げた。
「狛村様、どうか朝をよろしくお願いいたします。あのようなジャジャ馬ですが、家事から華、茶、舞踊に琴も仕込んであります。嫁としての働きには申し分ないかと」
「母上殿、貴女は私でよろしいのですか?」
頭を下げる母親に、佐陣は心配そうに聞いた。佐陣を見たときの母親の反応から、まさかこんな事を言ってもらえるとは、思ってもいなかった。
「貴方様のお姿には、驚きを隠しきれませんでしたが、朝があれ程お慕いているならば、反対した所で聞き入れませんから」
それに、と母親は話を続けた。
「正直、あの子が泣く姿をもう見なくて済むと思うと、胸が空く思いです」
その時の母親の顔は、朝を無理矢理連れていたあの時の人物とは別人かと思うほど、柔らかい母親の顔をしていた。
「あれだけ見合いを壊した朝を、よく思っていない貴族は多くおります。どうか、朝を…」
「必ず、朝様をお守りいたす」
佐陣の力強い声に、母親は一瞬驚き、しかし直ぐに安心したように微笑んだ。
 しばらくして、朝が戻ってきた所で昼食をとった。
 朝は、綺麗に箸を使っている事を母親にからかわれていた。

 1週間後に、朝の両親と元柳斎が見守る中結納を済ませ、二人は晴れて夫婦となった。朝の両親は、安心してか、寂しさからか、泣いていた。
 その夜、朝は簡単な荷物だけ持って、佐陣と共に同じ家に帰ってきた。
 玄関前で朝は一度立ち止まって、屋敷を見上げた。
「ここが、佐陣様のお屋敷……」
「隊長に与えられる借家です。元柳斎殿の屋敷に比べれば、犬小屋のような物でしょう」
佐陣が謙遜すると、朝は佐陣の手を握って頭を振った。
「どこだろうと、佐陣様がいらっしゃれば、そこが極楽です」
朝の笑顔に心臓を突かれた佐陣は、胸を押さえながら歯を食いしばった。
 一度認めてしまうと、もう朝が愛おしくて堪らず、一挙手一投足に心臓が高鳴ってしまう。
 二人は座敷に上がると、正座して向き合った。
「これから苦労もかけると思いますが、貴女が幸せになれるよう、努力をしますゆえ、よろしくお願いいたします」
佐陣が頭を下げると、朝も同じ様に頭を下げた。
「ふつつかな者でございますが、佐陣様の妻として最大限努力致します」
二人は頭を上げると、見つめ合って笑った。
「妻……か、まだ実感がありませんな」
「あら、そうですか……」
朝はすり寄って、佐陣の胸に身を預けた。佐陣は緊張して、全身の毛が逆だった。
「あ、朝様……!!」
「朝、とお呼びくださいませ。妻に様などつけないでください」
朝の色っぽい声に、佐陣の体温が上がった。心臓の音が朝に聞こえてしまうのではないかと、気が気では無かった。
「朝……」
「はい」
「…多少実感が出てきた………」
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